有意義に生きる
どうも、お肌ぷるぷるおじさんです。
最近忙しくて更新を怠けておりました。3か月も……
すみません。
そうしている間に、いろんなことがありました。
オリンピックは準備段階からいろいろなトラブルが出て、なんやかんやありつつ始まり、あれこれ起こりつつも終幕しました。
コロナは一時期かなり危ういところまで来ましたが、ワクチンはなんとか接種が進み、落ち着いていく兆しが見えています。
それにしても、世の中、すごいスピードで変化していっていますよね。情報化社会と言われたのも今は昔、もはや令和は情報噴出&大量降下社会です。
いやー、疲れますね~。
疲れる要素が多すぎる気がしたもので、振り返りがてら自分の考えを書いてみます。
皆様の暇つぶしになれば幸いです。
自分の時間
というわけで、上のような状況、皆様身に覚えがありまくりではないでしょうか。
そうはいっても僕自身はSNSを全然やっていないんですけど(TikTokって何ですか?)、それでも一日中スマホに視線を落としている気がするんですよね。
陰キャのアラサーのおっさんがこれなんだから、今の10代20代ってそりゃもうスマホの充電何百%あっても足りないよみたいな感じですかね?
ちなみに僕のiPhone8は満充電で出勤しても午前中に充電切れます。バッテリーが終焉を迎えているからです。そりゃそうですよね、何年前の機種だよ、ていう感じですよね。
でも、まだ買い替えなくてもイケると思うんですよ……ほら、13も出たばかりだし……どうせなら13Sとか何かのタイミングがいいかなーと。てか今回はS出るんですかね?
……で、何の話かというと。
今、僕たちの周りには数えきれない量のコンテンツがありますね。
なにも娯楽だけではなくて、仕事、生活、人間関係……
僕たちの暮らしすべてに、何らかの形で外部から情報が入り込む、という状況になってきています。
ひと昔前なら「パソコンの前にいるのでメールできる」「電話だけならできる」「ここなら新聞がある」みたいに、場所や状況によって取れる行動、拾える情報は限定されていました。
ですが、今はスマホで全てできてしまう。
しかも必要かどうかにかかわらず、です。
それは「自分だけの時間」が、意識的に作らないと容易に消滅するようになっている、ということだと僕は思います。
例えば……「SNS疲れ」はすっかり定着した言葉ですね。もっと深刻化して「ソーシャル鬱」というのも見受けられます。
画期的で便利で時短になる”良い”コンテンツが日々たくさん現れる中で、そういうネガティブな現象が生まれてくるということは。
それらを「心身を削り」「必死になって」つまり自身への害となるレベルになってまで使っている、という人が、流行語を作る程度には多いのでしょう。
その一方で、近頃、以下のような考え方をよく見かけませんか。
最近かなり盤石な地位を築いていて、もはや一大トレンドといった風情です。
確かに個人のできることはとても多くなりました。
その一方、こうした言葉?標語?が盛り上がっているとおり、いつからか「できない」と言いづらくなってきました。
なぜなら、いつでもどこでもなんでもできるおかげで
「できるけどやりたくない」
「能力が足らないからできない」
という、
個人に責めがある形式の「できない」しか言えないようになってしまったからである、と僕は思います。
「今は電話が無いから……」「ここにはパソコンが無いから……」という逃げが、今は全くできない。なにもかも手元にありますからね。
そうした環境の中で、個人が不可抗力によって「できない」ことは、理屈の上ではとても減っています。だからこそ
というように自己責任論や個人主義論が台頭しているのではないでしょうか。
年功序列は終わり!
会社に頼らない人生設計!
スキマ時間でスキルアップ、副業!
40代でFIRE!
学生は収入に直結する学びを!
実学以外は必須科目から外そう!
国際社会で通用するスキルを学校で教えよう!
………うーーん、まあ………
これ以上自分の荷物を増やしたいとは、僕は思えないですね。すみません。
自分だけの時間が無いと先ほど言いましたが、それは自分のためという口実で負担を背負い込んで休まないでいるという「自縄自縛」状態も含むと思います。
「やりたくない」とは言いにくいから、「手が空いていない」と言いたい。でも「じゃあ手が空いたら……」という話にもなりたくないから、ずっと何かにかかりきりでいたい。
そうだ!自分磨きだ!ずっと自分磨きしてよう!
どうにも具体性に欠けるけど、いつか何らかのメリットに繋がる、気がする!
……みたいな。
僕は、最近の世の中を見ていると
「自己投資の時間すら、自分の時間なのか怪しい」と感じます。
とにかく最近、世の中のムーブメントがすごい。
上昇気流が強いのはいいとして、乗れていない人、零れてしまう人を叩き落している。
みんな単に周りに合わせて乗っかろうとしているだけで、それって「自分のため」ではないように思えます。まあ「自分だけが取り残されないため」だから、自分を向いているとも言えるのかな?
さらに言えば、それって「こういうことを達成したいから努力する」ではないですよね。
てなると、自己投資の名目で望まない負担が青天井状態になっていっているのではないでしょうか?
有意義な時間、と言えば聞こえは良いですけど、なんだか果てしなくノルマが課せられ続けているように思えませんか?
「社会ってそういうもんでしょ」という考え方もあると思います。確かに、みんな仲良くってわけにはいかないのが現実でしょうし、みんなの日々の頑張りが社会の発展には不可欠です。
ただ、僕が言いたいのは
「競争社会はよくない」ではなくて、
「競争社会が激化しすぎて、競争以外の要素を蔑ろにするのはよくないのでは?」
なんです。
役に立つ
大学全入時代と揶揄されたのも束の間、雇用の不安定化を受けて専門学校や高卒就職等の「手に職」的なスタンスが返り咲いています。
それはいいとして、なんだか「大学なんて行かなくていい」「文系は役立たず」「資格やスキルを得られないまま卒業するのは無能」と、叩けそうなところを叩く流れが出来てしまっています。
そして「学校の勉強は社会に即していない」「実学をもっと教えろ」「古文要る?」「数学って何に使うの?」といったふうに「学校の勉強は役に立たない」勢力が拡大しています。
教育の話と思いきや、仕事でも「成果主義」とやらがむやみに導入されてきました。しかも、蓋を開けてみれば給料を頭打ちさせる方便に過ぎませんでした。
さらに、それでは飽き足らずに「終身雇用より自由にキャリアアップできる環境を」「フルタイム勤務より自由な働き方を」とか言い始めて、要するに安いコストと低いリスクで都合よく雇いたいだけじゃん、ていう。
自己責任という言葉を悪用していますよね。
となると、こういう社会で「自分を主軸にする」って、すごく難易度が高くないですか?
「自分のため」と言い聞かせながら、都合良く誘導されて、いろんなことを見失いそうです。
「役に立つ」とは?「自由」とは?
もう一度考えたくなります。
そりゃあ、
って思いますよ。
でもそれは、ただのしょうもない妄想で、現実にはありえません。悲しいことですけど。
僕としては、世の中「利益に直結する」のはとても稀だし難しいことで、だから「役に立つ」かどうかの判断はとても慎重に行うべきものだと思います。
この世の中、果たしてどれほどの人が「役に立つ」かどうか判断する力を持っているのでしょうか。
というか、そもそもそれは「何に」「どのように」役に立つのでしょうか。
それ以前に、「役に立つ」とは何なのでしょうか。
そんな疑問というか不安というか、なんだかはっきりしないモヤモヤを、僕はずっと抱えています。
わかりやすい例だと、冒頭ちらっと話したコロナのワクチンについて、mRNAワクチンの原材料の一部に醤油メーカー「ヤマサ」の技術が応用されていますね。
一体誰が醤油と新型ワクチンがリンクすることを予期していたでしょうか。
たまたま発酵という世の中に馴染み深いジャンルだから良かったけど……医療分野に活かせそうだという見通しが早い段階で持てていたから続いたけど……
一見何をしているかわからない、あんまりわかりやすい成果が出ているようには見えないものごとを「無駄」とかいって切り捨てて来た中に、もしかしたらとんでもない可能性があったのかもしれない、と振り返ってみて思いませんか?僕は思います。
そう考えると、「役に立たない」という判断の重さ、危なさがわかります。なのに、よくわからない=いらない、という考えが広まっていると感じます。
科学技術を始めとした人類の進歩は大変ありがたいことですが……同時に、そもそも複雑だった人間社会を更に飛躍的にこんがらがったワケのわからない巨大なものに成長させたのだと思っています。
人間1人がどうにかできる量ではない、膨大な情報が我々に押し寄せてきています。
そして、そんな五里霧中の状態だからこそ、「わかりやすさ」に引っ掛かってしまう人が増えていると感じます。
本質
そう言い切る人は魅力的です。
でも、だいたいそういうのって、紐解いてみると複雑なことは他人にやってもらっているんですよね。それか、そもそも都合よく度外視しているか。
社会の本質、商売の本質、権力の本質……
簡潔に芯を捉えたっぽいことを言う人、(あえて言いますが)跋扈しています。
そこのところ立ち戻って考えたいのですけど、まず前提として本質って単純なんでしょうか?
本質を「間違いのない事実」とするなら、本質が非常に複雑で長ったらしいことも往々にしてあるような気がしてならないのです。
これ、僕は文系なもので単なるしょうもない感想になっちゃうんですけど……ちょっとひとつ、お読みくださっている方にお伺いします。
数学の証明って、めっちゃ長くないですか?
「急に何?」とお思いかもしれません。でも、そう思いませんか?
大学入試とかだと「問題は1行で回答は20行くらい」なんて当たり前。いや、もっとあるか。
それこそ数学者の研究レベル、ニュースになるような難題だと、その証明だけで論文1本できあがる。
でもあれって、決して余計なおしゃべりをだらだらしているわけではないですよね。
必要なことを必要なぶん、論理立てて述べているだけ。
それだけであんな分量になってしまう。
数年前に「ABC予想の証明」が話題になりましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか。
ぶっちゃけ僕はそもそもABC予想の題意を理解するのが一苦労でした(しかも今もって結局理解しきれていない)し、数学の専門家による解説やレビューは1ミクロンも意味がわかりませんでした。マジで1ページ目の1行目から何言ってんのかわからなかったです。
だからといって僕は
「すっきり話をまとめられないの?」「もっとわかりやすくできないの?」などと口を挟もうとは思いません。
なぜなら、僕がABC予想の証明を理解できないのはひとえに僕の能力が至らないせいですし、僕が数学を怠けていたせいだからです。
決して論文がへたくそなわけではありません。
プロ中のプロが練りに練った論文、500ページ超。
これが、数学という途方もなく広い学問の、あるひとつの謎を解き明かすためだけに、端から端まで余すところなく不可欠なのです。
絶句しますね。ほんと。
僕の数学力が……まあ、3程度だとして、たぶん証明を理解するのに必要なのは1億くらいですかね?
「易しく解説してよ!」と駄々をこねたら、9500万くらいまで下げてくれるかもですね。
素人はだまっとれ―――
てやつですか……
寄り道が長くなりました。
少なくとも、論文500ページ以上と世界中の数学者による何年もの議論が、今回においては「本質」と言えそうです。
そのうえで申し上げますと、本質って相当な修練を積んで初めて理解できるのかもな~、という感想を持ちました。
「わかる」とは
という言葉はすっかり浸透していて、誰でも一度は言われたこと(あるいは言ったこと)があると思います。
僕は、その言葉をあまり信用していません。
嫌味の極致みたいな言い方になってしまいますが、
のほうが正確じゃないかなと。
それで、さっき言いましたように、配慮じゃどうしようもないくらい、前提とされる知識量や理解力が高くなってしまうときもあるんではないかと思います。
さらに言えば「ちゃんとわかろうとする」意志や力がなければ、情報の受け渡しは成立しません。
では、「ちゃんとわかろうとしない」とはどういうことでしょうか。
端的に言うと、情報を受け取る際「わかる言葉だけをわかるように抜き出せばいい」と考えるのは危険です。
僕個人の身近な例をひとつ挙げます。
近所にある商業施設の有料駐輪場は
と案内しています。
ぼくも頻繁に利用するこのシステム、これについて
「買い物をしたのに安くならない!!!」
とクレームを入れている人をしばしば見かけます。
もうお分かりの方ばかりだと思いますが、要するに
「丸一日停めて、ちょろっと買い物して800円で出ようとしたら、1000円請求されて、キレてる」わけです。
念の為この例を解説申し上げると、この駐輪場は
「店で買い物をしたら、駐輪開始直後の2時間分をタダにしてあげますよ」
と言っているわけです。
ですから、仮に24時間停めてから買い物をした場合、請求されるのは
〔24時間-2時間=22時間〕分の料金
つまり最大料金1000円
を、結局は払わなければならないのです。
ついでに言えば、累計24時間1秒以降はさらに課金されますね。
しかし、現実には「2時間無料」の文字だけを抜き出し「200円引き」と解釈して憚らない人もいなくはない、ということです。
都合良く捉えたいがために、情報を歪めてしまう。
さらに根深いのは、それが意識的か無意識か、どちらもあり得ることです。
中にはいちゃもんもあるでしょうが、クレームを入れる人の中には本当に安くなるはずと思っている人もいるでしょう。
安くなるという情報だけを抜き出して頭に入れてしまったからです。
とまあエピソードが長くなってしまいましたが、こういう比較的単純な要件でさえ、気を付けないと解釈を間違うわけです。
以上の例は至ってシンプルな話に終始しましたけれど、もっと難しい話題だったら他人事とは思えなくなってきませんか。
つまり、正直なところ……
簡単にはわからないことは確実に、結構な量、あります。
わかった気でいることが最も危険です。
僕は頭が良くないので、それをひしひしと感じます。
世の中、よくわからないことばかりです。わかりやすい言葉で釣って、結局よくわからないところに連れていかれます(ありえないくらい小さく書いてある保険の留意事項とか)。
前項で申し上げたとおり、なかなかすぐには到達できないところにこそ本質や真実がある場合はままあるのだと思っています。
皮肉になってしまうかもしれません。でも、これって数ある本質の中でも極めてわかりやすい類の「本質」じゃないでしょうか。
必要性
だから、僕の考えは
です。
なんかよくわかんないし、興味ないし……
全く気が向かない、意味がないと感じるとしても、あくまで「自分は」という主語が付いていることを忘れないようにしています。
そして、残念ながら、社会から見た「自分」の比重は大抵ゼロに近い。
ただでさえ自分の小ささを思い知らされ続ける毎日ですから、そこから脱出できそうな「何か」があると、とてもそれに飛びつきたくなる。
成功した人が泥臭い努力を語ると、それさえもスマートに見えてきます。
世の中、強者が多すぎる。
強者は確かに社会を動かします。きわめて有意義です。
ただ、それに僕たちは与するべきなのでしょうか。
いつか彼らに並び立つか、成り代わるか、そこまでせずとも今より接近するか、そうしてどうにか這い上がっていく他に道はないのでしょうか。
つまり。
「有意義」であることを最優先にするの、ちょっと考え直してもいいんじゃないかと思うんですよ。
かなり失礼なお話をしますと、世間で「有意義」と言われるような過ごし方の一部は
を誇示したくて行われていると思います。
決して、自己研鑽の類は全てが自慢のための道具なんだ、と言いたいわけではありません。
冒頭から話題にしている「役に立つ」の観点とも関係しますけど……
例えば
「英語のレッスンを受ける」
と
「英語のレッスンを受けていることをSNSで発信する」
は、どのように違うでしょうか。
バイリンガルになることは、自身の生活や将来についての選択肢を増やしてくれます。つまり「役に立つ」と言って良さそうですね。
ですが、「自分はバイリンガルになろうとしている」ということをアピールするのは、何の役に立っているのでしょうか?
そういうアピールをする人はたくさんいます。そして、そういう人を見ると僕たちは「時間を有効利用している」「向上心を持っている」「積極的である」などと感じます。
ぶっちゃけ、そう感じられたいがために発信しているわけです。
もちろん「他人に宣言してしまうことで背水の陣を敷く」とかもあるでしょうが、大多数は対外アピールと見ていいと思います。
なぜか?
認められて気持ちいいからです。
べつに貶めているわけではなくて、これって言い方を変えれば、自身の情緒に役立っているんですね。
これの良い悪いを決めようとは思いません。自尊心を満足させること自体はとても大切です。
自分にとっては当然自分が世界の中心なのだから、自分が気分よくなるための行為はおおむね自分にとって有意義と言えます。
ただ、その自己中心的な論理でなにもかも有意義かどうか判断してしまうようになる危険性があると思います。
公共のため、お年寄りのため、子どものため、男性のため、女性のため……世の中は自分のためでない義務や努力や善意やサービスが溢れています。
それが人間社会です。
自分自身についても言えるでしょう。
知識や技能の習得は苦労が多い行為ですが、いずれ自身の役に立ちます。
でも、当面あまり気持ちのいい時間にはならない。
となると、つい目先の快楽に流れてしまいます。
ただ、目先の快楽だって、超短期的スパンで見れば自分の役に立つ有意義な行為ですね。
有意義かどうか? いろいろな視点があり、とても難しい判断なんです。
それを常にジャッジし続けるのは大変です。
そして、ジャッジし続けることはどれほど有意義なのか、僕は考えてしまっています。
お金
有意義という言葉を「利益」の基準で評価する考え方もあると思います。
「お金」、ですね。
お金、欲しいですよね。
あればあるだけ嬉しいですね。
かくいう僕も、大した趣味がないのと貧乏性との合わせ技で貯まった資金を、楽して儲かりたいという浅はかな衝動で半分溶かしたわけです。
世の中、お金です。
それはしょうがない。
ただ、僕は
という考え方を自分なりに大切にしています。
お金は、世の中の物事ほとんどへの対価になり得ます。
物品、食事、体験、サービス、移動……ときにはトラブルの解決にも……
でも、「お金があってもねぇ」という場面が結構あるのも事実です。
皆さんって、お友達・恋人さん・配偶者さんとはどういうふうに知り合ったのですか?
それ、いくら出したんですか?
……大変失礼しました。
つまり、お金じゃないですよね。綺麗事でもなんでもなくて、交友関係も、人生経験も、自分の人格も、他人の愛情も、お金では買えない。
時間と手間以外に費やせるものがないんです。
「先立つものは金」と言いますが、先立つものでしかない。
そりゃあ世の中広いですから、お金がきっかけで人と知り合うとか、あるいは付き合ったり結婚したりするにまで至ることもあるでしょう。
趣味のものを買った延長だったり、有料イベントに参加したりした先に出会いがあって……みたいな。
お金が先立ってくれる例ですね。
でも、金額に応じて突然親友が出来たり、明日からオシドリ夫婦になれたりするわけじゃない。
お金が人生を左右して、それが後々自分の糧になることもあるでしょう。
でも、高い金額を支払えば一瞬でベテラン並の経験がインプットされる、というわけではない。
お金は万能ですが、たかがお金です。
矛盾しますが、僕はお金ってそういうものじゃないかと思っています。
だからお金を稼ぐという行為に対しての感覚が十人十色なんだと思います。
稼ぐのが有意義なのか、使うのが有意義なのか、はたまたお金に囚われないことが有意義なのか……
目的
と、まあ、つらつらと言いたいことを言ってきました。お付き合いありがとうございます。
要するに
と僕は思っているんです。
周りから見れば本当にしょうもない小さなもんですけど、いろいろ僕なりに人生山あり谷ありでした。これからもそうだと思います。
なんとなくへらへらしていても、そうなるんです。
目まぐるしい今の世の中で、無為に生きるのってむしろ難しいのではないでしょうか。
生きていくのはちっとも平穏ではなくて、でも、そういういろんな出来事を有意義だと思えるかどうか、ではないでしょうか。
財産を築いたり、人望を得たり、後世に名を遺したり……そうしようとがんばることは立派ですが、そうしないことを蔑むのは違うと思います。
それは意識の高い指摘をしているようでいて、単に自分の溜飲を下げているだけ。
原因はいろいろでしょう。
毎日のストレス、成果が出ない苛立ち、他人へのムカつき……
こういうのって自己満足できる余裕がないからなんです。
おわかりでしょうが、他人にケチをつける行為は有意義ではないです。
人はみな違うので、どれだけケチをつけても足りません。
人の数だけケチはつけられます。
だから僕は「有意義」について最近ぐるぐる考えています。
何のために、有意義にしたいのか?
自分の中のマイナスの感情を埋め合わせることが、有意義なのか?
そのマイナスな感情は、どうして湧き出るのか?
結論
そういうわけで、僕は人生というものをかなりぎこちなく生きておりますが、なんだかんだどうにかなっています。
「のし上がってやる」「勝ち組になってやる」と思うのは結構ですが、
なれなくても大丈夫だと思いますよ。
お読みいただいたとおりで、そういう意味で
なのです、僕が言いたいことは。
人間、みんな違うので、共通点と言ったらいつか死ぬくらいしかありません。
いつか死ぬまでポジティブでいれば、それでいいんじゃないでしょうか。
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