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というわけで、才能と夢

シュート!ゴール!
スタジアムが歓声に包まれた。
13年後_____、25歳の僕はサッカー選手となり、サッカーのイングランドリーグ、チェルシーというチームでサッカーをしている。

この一節を、わたしは日々培っている音読力で恭しく読みあげた。

隣で高校の頃のアルバムをめくっていた彼氏は、物悲しい微笑をその顔にたたえながら、「25歳の俺は𝑭𝒖𝒌𝒖𝒐𝒌𝒂で会社員をしています〜」と、12歳の頃の自分に告げていた。

夢だとか、才能だとかを信じなくなったのはいつからなんだろう。
なりたいものも、やりたいこともあったはずなのに、それでは生きていけないだとか、向いてないだとか、そういった言葉を少しずつ蓄えるうちに、わたしたちは薄くて暗い高架下にも似た場所に夢を捨ててきてしまった。

だんだんと、忙しいから、他にやることがあるからとか、現実的ではないからと言って、持っている才能の種に水をやることすら忘れてしまった。

先日、YouTubeに楽曲をあげている友人が他のアーティストと一緒に楽曲を出した。
そのアーティストをわたしも知っていたので、曲の感想を送るがてら「すごいね。わたしも何かしら一芸があれば好きなアーティストの手助けやコラボができたな」といった内容のメッセージを送った。
彼女は「まだいける」とのみ送ってきた。

後日、このやり取りについて、わたしは彼女に対して、かなり失礼なことを送ったのではないかと考えた。
彼女は「一芸」を磨きに磨いて、さらに「一芸」を引き立てたり、輝かせたりするためのいろんなことに挑戦して、今があるのに。
「一芸があれば」なんていう発言は軽々しく口にしてはいけなかったと思っている。

持っている(あってほしい)才能を磨く努力を怠っているわたしから言えることは何もないのだ。

わたしは、わたしのことを「泳ぐ能力はあっても、速くは泳げない人」だと思っている。
分かりにくければ、「野球が上手くても、強豪校に行けばレギュラーになれない人」で考えてほしい。
だから、基本的に諦観がある状態から始まる。
「どうせ」「だって」があれば、頑張らなくていいし、ダメだったときの言い訳になるからだ。
「ま、才能はないから」で終わり。
本気で挑戦した自分が傷つかないための予防線だ。
やってみなければ速く泳げるか分からないのに、練習しなければレギュラーにはなれないのに。

このわたしの考えに待ったをかけたのが彼氏だ。

常々「何かやってみれば?」「取り組んでみれば」と言ってくれていたのだが、「うーん、そのうちね」とか「そうかなぁ(笑)」とのらりくらり交わし続け、お茶を濁しに濁しまくったわたしに、説法のごとく「なんでやらないの?俺よりも文章が書けるし、上手いし、才能があるのに」と滔々と語った。

あの夜のことを思い起こして、文にしてもなかなか彼氏の本気さが伝わらない気がしているのだが、彼氏は泣かんばかりに必死にわたしに伝えてくれた。
「その考え方はダメだ」とか、「できると思うのに」、「必要なものがあればお金は全然払うよ」とか。

わたし以上にわたしの才能を信じてくれていて、他人の顔色とか言葉とかに左右されて、自分でも蓋をして日々を過ごしているわたしを焦れったく思ってくれていた。

まだいけるかなあ、と思う。
そんな大層なものではないけど、いろんなことを諦めないで本気で取り組めるかな、と。
幸い、わたしの好きな文章や短歌は長く楽しめるものだ。日々の中で感性を磨いてゆける。
年齢を重ねることによってできなくなるものではなく、むしろ年齢を重ねながら研いでいけるものだ。
まだいける、のだ。

学生の頃に比べると、時間はそれほど多く取れるわけではないけど、それでもコツコツと継続して投稿したり、書いたりすることはやっていきたい。

というわけで、才能と夢
再開。

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