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癌治療を見て、父を看取って感じた気持ちを書きます

本屋に行くとつい「癌」のコーナーに行ってしまう。

そして感じるのは、本当にたくさんの本があり、耳障りの良い「絶対治る」「癌が消える」「癌で死なない」という数々のフレーズ。思わず手に取るようなキャッチコピー。

本が出ているから、本に書かれているから。そんな風に思うのかもしれない。又は本を出すくらい有名だから。

しかし、本当にそうでしょうか。

私は、西洋医学が良くて東洋医学が悪いというスタンスではない。どちらにも良い点と悪い点があるというだけだと思う。そして、その選択は本人や家族がするもの。

もうこれ以上はやることがない

父の癌が分かった時は、スーテジ4の小細胞肺癌で、手術の余地はなくむしろ、1年後の生存率が極端に低い癌だった。手術は出来なくても、あらゆる治療にチャレンジするというスタンスで、抗がん剤、放射線、ガンマナイフとやれるだけの標準治療は行い、もうこれ以上はやることがない、という状態だったかもしれない。

治療はある意味スケジュール調整をするように進んでいった。見ている家族としては、流れに乗っていれば安心のようなそれでいて、間が開くとどんどん癌が体内に広がっていくのではないかという不安と、両方の気持ちを持っていた。

それはきっと父自身もそうだったのではないかなと思う。手帳を見ては、仕事のスケジュール調整のように癌の治療を進めていた。時には主治医の先生に、「その日は仕事があるので無理ですね」と父が言って、思わず家族が「いやいや、優先順位が違うから」みたいな突っ込みを入れた。

最後まで楽しもうとしている父の姿

父と母は、夫婦仲がとても良く海外旅行も大好きで治療をしながら海外にも行こう!と。しかし、主治医には海外はお勧めしません、国内なら大丈夫ですと言われて、渋々国内に切り替えた。貯まったマイルを使い母と毎月、国内旅行へ行っている姿は娘の私から見ていて、なんとも頼もしいというか、最後まで楽しもうとしている姿勢が凄いなあと感じた。

3月に癌が分かって、12月の中旬頃から片腕が完全に動かなくなってしまった。痺れや痛みもあるらしく、動く方の手でずっと黙ってさすっていた。「痛い」とか「苦しい」とか「助けて」とか全く言わない父だったので、その姿を見た私は衝撃だった。というのは、いつも風のように電動自転車であちこち飛び回り、孫が「おじいちゃん!」と声を掛けても気づかず疾走する姿。楽しく喋ってお酒を飲む姿。その父が1日、何も言わず椅子に座っている。恐らく、「痛い、苦しい、助けて、辛い」と言いたいのだろうけど、我慢していたのだと思う。片側の腕が動かなくなり、歩くのにもふらつきが出てきた。転ぶことも増えたので、動かない方の側にいつも母が立つようになった。歩くスピードも極端に遅くなり、長い距離が歩けなくなった。

父はその現実を受け入れられないのか、静かにイライラしていた。最後となった旅行は年末の屋久島。次男にはおじいちゃんの身体をいつも気を付けるようにと言って、見送った。屋久島では何度も転んだそうだが次男がいてとても助かったと母から聞いた。母はとにかく心配だったためか、旅の記憶がほとんどないと言った。

「亡くなるという事をもう考えて行動した方が良いでしょう」

年が明けて、介護保険の申請をした。これが結果、間に合わなかった。考えたら、もっと早くやっておけばと思うことの一つでもある。完全に希望的観測だけで物事を進めていたから。悪くなる、と考えたくなかったからの表れだと思うのだ。まだ大丈夫、きっと大丈夫、と自分に言い聞かせてもいた。悪いシナリオを考えたくもない、見たくない、知りたくない、そんな心境だった。その後、身体が明らかにどんどん悪くなっていく父を見て、外来にかかった帰りに病院の相談センターに飛び込んだ。ナースが対応してくれたのだが、経過を話すと「亡くなるという事をもう考えて行動した方が良いでしょう」と言われたのだ。ああそうか、やっぱりという思いと、とうとうこの時が来てしまったという思いとが交錯して頭を叩かれたような気持ちになった。

毎回、病院の外来に付き添いに行き、その相談センターの前は通っていた。一度も入ろうとは思わなかった。だけれど、外来だけではどうしようもない気持ちを誰かに、専門家に聞いて欲しい。冷静な意見を聞かないと、違う選択をしてしまいそうだとも思った。結果、相談して良かったし、その日からスイッチを切り替えることが出来た。

出来ない時は出来ないし、仕事だけが大切なのではない

スイッチを切り替えてまず取り掛かったのは、仕事を休む準備をすることだった。父の癌が分かってから、当時私は障害者福祉事業所の施設長をしていて24時間365日運営している施設だったこともあり、常時連絡が取れる状態が求められた。職場には癌が分かった時から父の状況を伝え、父の治療にも有休を取っていた。当時、他の職員にも家族に癌治療中の人がおり介護休暇や介護休業を積極的に利用しようという、職場の理解も出来ていた。そして、実際に介護休業を取得した職員もいた。私自身が施設長で、数か月職場を離れること。「出来ない」と考えれば出来ないこと。「どうやったら出来るか」と考えれば、見事なまでに職員が助けてくれて結果2か月近い介護休業を取得できた。

また、長男の高校受験のスケジュールもとても気になっていた。私立と公立の受験日程や手続きなども含めて、高校受験というタイミング。結局は試験日程の合間に父は亡くなり、「何だか図ったようだね」と思わず笑ってしまった。また父のなくなる10日前位に、ほぼ同時に母と次男がインフルエンザに罹った。長男の受験に影響が出ないように、部屋を分けて隔離して何とか長男は罹らずに済んだ。病院は自宅から近かったとはいえ、毎日のお見舞い、長男の高校受験、母と次男のインフルエンザ、大雪の影響、これらを仕事をしながらやっていたら私は倒れていたと思う。

しみじみ、出来ない時は出来ないし、仕事だけが大切なのではないなと感じたのだ。

父の具合の悪さに比例して思考を別のところに飛ばしたかったのか、いつもにも増して本を読み、父の最後の入院の前に読んだ本。

人生でほんとうに大切なこと がん専門の精神科医・清水研と患者たちの対話 

心地よくしっくりくるもの

読みながらものすごく苦しい気持ちと深い共感と、とても忘れられない本になった。父が亡くなって3か月後くらいにこの本を元にしたセミナーがあり、実際に清水先生の話を聞きに行った。いつもは、セミナーでは前に座り、質問をしたり、名刺交換したり、積極的にいく私がこの時ばかりはただそこにいるだけで精一杯だった。

清水先生と直接話してみたかったし、本には深く共感して救われたことを伝えたかったが、話せば確実に泣くと思ったので静かに帰宅した。そして、2年半経ち。清水先生のオンライン講座を知り参加。

レジリエンスと感謝というテーマでのオンライン講座。癌患者さん、家族、関係者など相当数の参加だった。自分にとって、心地よい語り口だったり、視点はある。清水先生だけが絶対ではない。そこを含めて、改めて清水先生の観点は私にとっては心地よくしっくりくるものだった。

もしも一年後、この世にいないとしたら。

こちらの本を、講座の後に読んだ。私が父を癌で亡くして、組織を辞めて、会社を立ち上げて実現したいと思って作ったサービス。その想いをなぞっているような気持ちになった。同じような思いを持っている人がいる、私もまだまだやれるはず、がんばろうと思えた。

  https://www.amazon.co.jp/dp/B07YLJ94L4/ref=cm_sw_r_cp_api_GOTuFbKNHXMT3

こちらのドキュメンタリーを観て思うのは、情報はたくさんあるが選ぶ際の基準は自分の中に必要だと感じる。専門知識がなくても、誰かの話を鵜呑みにするのはとても危険。一旦、良く考えて俯瞰してみる必要があるし、その時間が与えれない場合には注意が必要だ。

癌、病気、はたくさんの種類や状態があり、その人によって違う。しかし、耳障りの良い言葉で高額商品を売ったり、患者さんや家族の藁をもつかむ思い、不安や恐れを煽るようなこともある。

遠慮しないで選んで欲しい私はそんな世界を作りたい。

何が正解で不正解なのかも、わからない。しかし、そんな時こそ専門職の人にまず相談してみてはどうだろう。もちろん、相性もある。相性が悪ければ、他の専門職に相談を。選ぶ権利は、患者さんや家族にあるのだから。選ぶはあくまでも患者さんや家族であるのだから、そのサポートをするのが医療や専門職の存在。遠慮しないで選んで欲しいし、たくさん質問して不安を少しでも取り除いて、何よりも患者さんや家族が安心して治療に取り組めたら良いなと思う。私はそんな世界を作りたいと思うのだ。


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