母から監督へ その10(まっすぐ生きる事を決めた)

前回はとこちょ。が生い立ちを描いてくれました。
とこちょ。とは10年以上のお付き合いですが、初耳のことばかりでした。
私はとこちょ。のことを、ほとんどしらなかったんだな〜。
みんな何かを背負って、それでも一生懸命に前を向いて、生きている。
私はずっと、そういう人を応援し続けてきたのかも・・・と思い出しました。

それでは、くみちょ。の生い立ちの続きです。
武蔵小杉駅前での「人さらい」事件の後、祖母の元でのんびりと暮らしていた私に新しい母親ができ、私は父の元に引き取られました。

2番目の母(最初の継母)
その人は鹿児島出身のキャバレーのホステスさんで、実家に私と同じ歳くらいの男の子を預けて、東京に出てきている人でした。
あまりいいことは覚えていなくて、屋外の洗濯機の終了のブザーが鳴ったら知らせるようにと、外に立たされていた事や、襟首を掴まれて大声で怒鳴られたこと、父とその人が喧嘩をしていて包丁で刺そうとしていたのを見てしまい心臓がバクバクして息が苦しくなってしまったことだけはっきり覚えています。
年末に田舎に帰るその人に連れられて、寝台列車に乗りました。海の中のトンネルを通ると言うので、魚が見えると思った私は列車の窓におでこをくっつけて、ずっと暗い外を眺めていました。海底トンネルというものが理解できずに、海水の中を走ると思っていたのでしょうねw
その人の実家はとても大きかったこと、田んぼのぬかるみにハマって、靴が脱げてしまったことをうっすらと覚えています。
大雨の日、保育園にはお友達のお母さんが、次々にお迎えに来てみんな帰っていきます。私は先生とずっとお迎えを待ち続けていました。やっとお迎えに来てくれた時には、雨はもう上がっていました。
この継母と父は長続きしなかったようで入籍前に別れてしまい、私は保育園を辞めて、また祖母に預けられました。
祖母の所へ、福祉の人が来て幼稚園に入園の話しに来たそうですが私は「おばあちゃんは目が悪いからお手伝いする。そばにいる」と言い張っていたそうです。
全く記憶にないのですが、自分が面倒見てもらっている分際なのに。
私は大好きな祖母の元で小学校4年生の終わり頃まで暮らしていました。

3番目の母(2番目の継母)
もうすぐ5年生の時、父が再婚をして私に3番目の母(2番目の継母)ができました。
新しいお母さんと父が暮らす部屋に入ると、真っ赤な絨毯、ソファとテーブルのセット、グラスの並ぶサイドボード、初めて見るその部屋に足がすくんだのを覚えています。
5年生で転校する予定だったので、4年生の間は、朝ランドセルを持って、父の車で祖母のアパートまで行き、学校に通い、祖母のアパートへ帰宅。
夕方父が迎えに来るまで祖母のアパートで過ごすという生活をしていました。
3番目の母は、新潟の妙高高原出身でキャバレーのホステスさんでした。
家事はできない人でしたが、美人で頭もいい人でした。
そして、安定剤を大量に飲んでしまうオーバードーズ、薬物依存症でした。
大量に薬を飲んでしまうと呂律は回らないし、足腰が立たなくなり、汚い話しですが垂れ流し状態で、いびきをかいて眠り続けます。
私が学校から帰るとトイレや廊下でひっくり返って寝ている事もありました。
布団に運び、下着を脱がせ、新しい下着を履かせて、濡れた廊下を雑巾で綺麗に拭く・・・そんな事を、私は何度、繰り返しただろう。
外でひっくり返って寝てしまい、通報されたことや救急車を呼ばれた事もあり、近所でも有名でした。
その前に、父がトラブルメーカーで有名でしたけど・・・
この頃から家事は私の仕事となり、食事、買い物、掃除、銀行関係、支払いなど、今で言う、ヤングケアラーでしょうか?
手はあかぎれだらけになり、遊びに行く時間はなくなり、常に父の顔色を気にしながら息を潜めるように暮らしていました。
何度もオーバードーズを繰り返す継母を、憎いとさえ思う事もありました。
なんで私はこんな所にいるんだろう、もうやだ、辛い、逃げたいと思う日が何度もありました。
でも私が暗い顔をしていると父が大声で怒鳴ります。
「てめえ、なにつまらなそうな顔してやがる、嫌なら出ていけ」
それでもこの時の私は、ただただ、がまん、辛抱することを選択しました。
だってどう考えても、6年生くらいの子供が、家を出た所で真っ当に暮らせる事はないし、落ちていく先は見えている・・・だったら今は、我慢しよう、絶対に絶対、幸せになってみせるから!と、意地と根性全開で、私はその場所で真っ直ぐに生きることを誓いました。
そして、そこには私は一人娘だから、私がやらなければならないんだという責任感という思い込みもありました。
この頃から、私は心のネタ帳にさまざまな事を残すようになりました。
大人の言葉で、子供がどんな思いをするのか。
たくさんの大人たちはそれぞれ、言う事が違うし、私に望む事も違う、それはなぜ?いろいろな思いを、忘れないように、いつか誰かに伝えられるように心のネタ帳にせっせと書き込みました。
私が中学1年の時、離婚をしたので私は祖母に預けられました。
私が中学2年の時に祖母が急死した時、福祉の人が来て同居していた祖母が亡くなったので、未成年の私をどうするか?と言う話しが出ました。
施設に行く話しも出て、親戚の集まる中で父は「こんなに親戚がいるのに、てめえら誰もこいつを引き取らねえのか」って怒鳴ってましたけど「あんたが親でしょ」と、かなり冷めた目で私は父を見ていました。
3番目の母と父は復縁していたので、結局、私は父の元へ帰ることになりました。
祖母が亡くなったことで、私の唯一の居場所が亡くなってしまいました。
私は祖母の葬儀では、一粒の涙も流しませんでした。
その後、父と3番目の母は何度も離婚、再婚を繰り返して、私が高校生まで続いていました。(戸籍謄本を取った時、2〜3枚綴りでホッチキスで止めてありましたよw)

*****
ちょっと長くなってしまいました・・・
お読みいただきありがとうございました。
次回もくみちょ。が担当します。
4番目の母と5番目の母・・・大人になったくみちょ。
結婚、離婚・・・シングルマザーとしての日々・・・
全6回シリーズで終わるかしら?(笑)

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