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デュマに感謝。悩む仲間に素敵な言葉をかけられるチカラを持つ(素敵なリーダーになりたい編_v4-23)

中学生の頃、算数と英語はできたけど、国語がいまいち。小学校は遊びほうけていたから、ちゃんとした高校に行かないとと思っていた。中学がかなり現代ではありえない「やばい」学校だったから。同じ程度の高校はさすがにまずい、と思い。ちなみに、数学の先生にお前の受験を邪魔してやる、と言われ、鼻血がでるほど美術の先生、他2名に囲まれビンタ、そんな中学。ま、とにかく、国語のテストがいまいちだった。

母親が公文の先生だったので、塾に追加して、公文の国語をやりだした。そして、文章にたくさん接するためにも、本を読んで、それを楽しみなさい、と言われ、岩波文庫の夏目漱石のこころとか武者小路実篤の友情とかを渡された。で、ページ数が少ない薄い「友情」を読んだら、なんだか、何がおもしろいんだ?と思いながら、ただ、最後はまぁ多少感動。夏目漱石のはどうもページが進まない。。。その他、日本文学を渡される。

が、ダメ。最後まで読むのだが、何も感じない。つまらない。何かを感じられない自分がダメに思う。。。

ハリウッドの映画が好きだったので、アメリカの作品なら、とアメリカの文学作品を読もうと思った。そもそも本を読んで国語の成績があがるのか今思うと良く分らないし、いわゆる文学作品である必要は無かったが、なぜか文学作品ばかり。それ以外に対する情報が無い(GoogleもAmazonなども無い時代)からか。。。で、アメリカの文学作品で最初に読んだのを覚えているのだが、本棚にあった「グレート・ギャッツビー」。母親が好き、というから読んだ。

が、ダメ。よくわからず。スタインベックとかもダメ。

もっと映画みたいにわかりやすい冒険的なのがいいのかもと思い、そしたら母親がデュマの「モンテクリスト伯」を買って来てくれた。大作。全五巻か、六巻だか、あった記憶が。え、長い。。。と思ったけど、これがなんと面白かったのだ。えええ、これを文学作品と呼んでいいの?って不思議に思いながら、おもしろい。

文学作品の定義は知らないのだけど、なんだか人間の、精神的葛藤を表現したり、人生に対しての悩みや翻弄やら、そんなことやら、それに使う言葉の巧みさ、表現の豊かさ、文章の流れの巧みさ、とかそんなこんなが詰まっていないといけないのだろう、なんて思っていたのだけど、あれ、モンテクリスト伯は違う。んん、もしかしたら、ボクがその文学性に気づかなかっただけかもだけど、とにかく普通に読める。

とにかく、あれれ!おもしろい!で、全部読み終わる。先に読んでぴんとこなかった「グレート・ギャッツビー」も、類似のプロットがあり、比較しちゃったが、全然こっちの方が面白い。当然ですが日本語で呼んでいるので訳者さんのチカラもあるのでしょう。それから次は同じくデュマの「三銃士」を読む。これまたもっともっと長い長い大作。だけどおもしろいのだ。

中学生のボクはデュマに出会ったことで、それまでは「文学作品」と呼ばれるものをボクには理解できる・楽しめるチカラは無い、と思い込んでいたのだが、「文学作品」の中にも面白いと思えるものがあるんだ、という安堵を得られた。そして、全巻を読んだ、という変な達成感・自信も。ま、楽しく読めるものをたくさん読むに苦しみは無いのだけど。そして、スタンダールやジッドのフランス文学に波及して、他のヨーロッパの文学にも。世界への興味が増えたのだった。

ありがとう、デュマ。ならびに買ってくれた母親。

文学作品を読んだことで、国語の成績にはおそらく何の影響もなかったのだが、行きたい高校には無事合格したので、結果all right。でも、なぜか高校での第二外国語でドイツ語を選んでしまった。フランス語にしておくべきであった。。。デュマはフランス人。

思うのは、当時のボクの脳みそ的には、何が面白いのか正直わからない作品が綿々と続く中で、諦めずに読んでいたら出会ったデュマの「モンテクリスト伯」。諦めていたら、本も好きにならず、世界に興味も持たず、「文学」って言われるなんだか高尚なイメージを持つ対象を避けるひとになっていた、かもしれない。国語の成績をあげたかった目的はあるが、世の中が「文学作品」と定義し、「学び・気づきある」あるいは「世の中を変えた」として評価し、歴史的に読みつがれ、当然、何か「すばらしさ」があるはずだが、それに出会えないことに、悔しく、次はのめり込める、次こそはと思っていたのが、良かった、と思っている。

ま、大人になってからでも、色んな経験・悩みを経たからこそ、感情的に共感できる・心に刺さる素晴らしい「文学作品」と出会っていたかもしれませんけど。でも、大人になって、「文学作品」って、なかなか読まないですものね。そんなことないかしら。

諦めるタイミングって難しい。早いのは当然、ダメ。最初から「好きだ!・できる!得意だ!」なんてことはそうそう無い。一方で、頑張り続けたからと言って何かを成し遂げられるとは限らない。コンコルドの誤謬。

でも、リーダーであるなら、諦めたらダメだ。そういう役割なのだから。目の前の施策を諦めることは多々ある。去って行く仲間は追わない。思い通りにいかないことも多々。でも、これは諦めたわけではない。もっとも大切なことを諦めないために、今を諦める。急がば回れ。時には頭を下げて助けを求めることも、仲間に無理をお願いすることも。リーダーシップがまともならば、仲間は無理をしてくれる。

リーダーは、諦めずに、仲間を大切にして、共に愚直に挑戦しながら突き進む、ビジョンの実現に向けて。それが役割だ。そんなリーダーを見ていると、仲間もそうなる。まさにデュマの「モンテクリスト伯」であり、三銃士の「ダルタニャンと仲間達」。

「素敵なリーダー」: リーダーシップというものは、文学作品から豊富に、上質に、学べる。モンテクリスト伯からも、三銃士からも。リーダーとは、リーダーシップとは、言葉を巧みに使って、仲間を惹きつけ、鼓舞し、自信をもたせ、諦めずに、自分のビジョンと、仲間の個々の夢を実現させる挑戦を続けるひと/こと。そして、会社・事業・組織・仕事という媒体を通じて、人格的に、知的に、仲間と共に成長していく。コミュニケーションを上質にするためにも文学作品など読むことは効果的。そこから素敵な言葉を学べる。悩む仲間に、素敵な言葉をかけて、鼓舞する。思考・行動変容を起こす。その一瞬のために、真実の瞬間のために、本を読むのでしょうね。

こんな素敵なリーダーになりたいですね。

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