見出し画像

厳しい or やさしいリーダー。ポリシーの問題。都度の感情に左右されず、ポリシーとして徹する(素敵なリーダーになりたい編_v4-25)

仲間と会議していて、「厳しさ」の必要性について議論になった。厳しいというのは必要なのだろうか?

若い頃、全然怒らない上司がいて、どうして?と聞いた。答えは、もう大人なのだし、プロフェショナルなのだし、言われないとわからないのは、どうしようもない。改善させようとは思わない。それにどうせ言ったってわからないし、自分で気づかないなら、その程度までしか成長できない。その部下ができるだろう程度の業務だけ振るだけ。とのこと。

その後、こういう類いのひと、一定数出会った。

真っ当っぽいことを言いながら、会社で一緒に仕事しているのに、無責任なひとだな、と思う。けど、そのひともサラリーマンだし、しょうがない。自分が興した会社でもないし、自分が採用したメンバーでもないし、特にプロジェクト制の会社では、部下の成長は自分の役割ではない、自ら成長するもんだ、とこういう考え方のひと多いよな、と思った。しょうがない。でも、普通の会社でもいる。あくまで他人事。サラリーマンだものね。そうなります。

一方で、すぐに切れる上司もいた。ま、ボクのケースだと、灰皿が飛んできたのと(巧みに避けたけど)、「私にしゃべるときは私の許可をとれ!しゃべらずに!」って怒鳴られたケースと、何言っているかよくわからない上司に、理解できないと言うと馬鹿だな、クソ馬鹿だな、と言われた。

が、知識ギャップや年齢ギャップがあったから、むかつきながらも、素直に受け止めていた。でも、同じような立場になって思ったが、この人達はいわゆるできない人達だった。キャリアアップできずに、途中で消えていった。

厳しく指導しないと部下はわからない、やらない、できない、って本当なのか。まぁ、よくわからない。。。

でも、厳しくする側の理由・背景はわかると言えばわかる。アンガーマネジメントができていないと言えばそれまでだけど、それができている場合も含めて。:

1.もはや何も考える時間も無く、脳・身体が反応している。自分を制御できていない。いわゆるアンガーマネジメントができていない。これもわかる。
2.厳しくすることで、つまり、威圧的で、怒鳴ったり、情け容赦しないことで、自分がストレス解消しているのかな。わかる。
3.自分が被った被害を受け止められず、相手にも目には目を的に、”被害”を経験させたい、という気持ちになっているのか。これもわかる。
4.上司の上司が厳しいから、自分も厳しくしないと割を食っている、損している気がする。これもわかる。
5.あえて、怒鳴ることで、周囲に対しても、ミスしたらこうなるよ、って予防線を張っている。これもわかる。
6.映画やドラマを見るとそう言う場面もあるから、そういうものだと何も考えずに定義して、そうしている。これもわかる。
7.怒鳴り厳しく接することで、原因を犯した側も、免罪符となって、あ、怒られたコトでミスが帳消し、よかった、と思えるから、ミスから解放させるためにもあえて、わざと厳しく接している。これもわかる。
8.怒鳴り厳しく接することで、被害を被った周りを代表して、みなのストレス解消、納得感を醸成している。これもわかる。
9.あえて厳しくすることで、その後の厳しい世界に慣れてもらうために、厳しさに耐える経験をさせている。これもわかる。

厳しくなる側の、こんな理由・背景は理解できる。情けないなぁ、幼稚だなぁ、なんて思う理由もある(自分のことはさて置いて)。一方で、特別な世界では、それもありだと理解もできる。が、特別な世界(軍隊とか警察とか)では、そうある理由が明確で、共有されているから、受ける側も一定の理解・納得がある(パワハラ・セクハラではない前提で)。でも、一般会社・組織ではどうなのだろう。少なくと共有・理解・納得はない。

でも、厳しくしないと、たるむ、やらない、逃げる、ごまかす、などが起きるというありがちな主張が理解できない。人間はそこまで腐っていないような。。。でも、やさしく言われるより、厳しく威圧的な方が、やる量や質がやはり高まるのかもしれない。心理実験をすれば結果はそうなるのだろう。そういう実験例を読んだ記憶もある。一方で、反する実験を読んだ記憶もある。

現実社会は一過性ではないし、連続した関係性。厳しくしないと人間はたるみ、ゆるみ、やるレベルが下がる、のであれば、常に厳しくしていないといけない。不可能なような。逆に、厳しさが重なると萎縮してパフォーマンスが下がることもありえる。それも排除すべきであれば、人と機会の掛け算の数だけある無限の場合に、この時は厳しく、この時はやさしく、なんて臨機応変、変幻自在、そして結果が常に正しい、なんて、そんなリーダーはありえるのか?スーパーマンでも無理のような。つまり、都度対応はロジカルでないような。

厳しくしないと、たるむ、やらない、逃げる、ごまかす、は、風が吹けば桶屋が儲かる的なこじつけに思える。それに、そもそも、厳しくしないと、言うことを聞かない関係性が生まれているのがそもそも問題のような気もする。

で、ボクは思う。これはもはや信念、ポリシー、スタイルなのだと。生き方だと。厳しくする側に様々な理由があり理解できる。自分の言動をコントロールできない弱い状態には陥りたくないし、コントロールしながらの厳しさはその人の考えとしてありだが、ボクはしない、というだけ。厳しい方が相手のパフォーマンスが上がることもあるかもしれないが、それはしない。萎縮してパフォーマンスの質が落ちることがあるからというロジカルっぽいカウンターをする必要もない。だってポリシーなのだから。

厳しくする価値はあるかもしれないが、厳しくしないだけ。ただ、厳しくしないは、何んでもかんでも許す意味ではないし、決められている罰則をしない訳でもないし、ルール・規律・規範・マナーを重んじなくてもイイ、ということではない。会社を辞めてもらうべきことをした場合は辞めてもらう。謝罪すべき過ちを犯した場合は謝罪してもらう。

ただ、怒鳴りはしないし、威圧的態度はとらないし、不可能な条件を課すような不条理なことはしない。現状にひるまず、次の挑戦をしていこう、原因究明と解決に取り組み、人格的な成長をめざしていこう、一緒に。という意味。

「素敵なリーダー」: どうだろう。厳しさの定義にもよってしまうので、議論の幅はどうにでもなるのだけど、威圧的で、高圧的で、言葉あるいは手をあげるような暴力要素があり、こわさがあり、怒鳴るような、容赦のないような、そんな要素を部分的に、あるいは複合的に持つような「厳しさ」で人を動かすリーダーと、そんな要素が無く、人が自ら付いて来たくなる、動かして欲しいと望まれるリーダーと、どっちが難易度が高く、上質で、チャレンジングだろうかしら。そう思うと、ある意味「やさしいリーダー」の方が取り組みがいがありそうな。

こんな素敵なリーダーになりたいですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?