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天からの権威・意味が善、正、美では無い現代。感謝と自己規律と(ベターアイデア? v3-43)

神の思し召しだから、あるいは、お寺で、神社で、あるいは教会で、あるいは自然の摂理だから、こうしなさい、ああしなさい、それはダメです。なんて世界では現代は無い。権威・意味が天から降りてきて、それに従っていた、そんな中世のような時代では無く、ひとびとの感情が、個人の感情が答えになる現代。

という主旨の言い回しに出会った。「ホモ・デウス(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房)」という本。確かに。無神論者でも神を信じていても、それは自分の自由な気持ちとして、原則、決めている。確かに。家族も”父親”がすべて正しい、なんて昭和?明治?な、伝統的な、天から降りてくる理不尽な”正しい”も、ほぼ無い。法律的に縛られる拘束は引き続くけれど。

ピカソの絵を見て何も感じなくても、好きになれなくてもOK。シェークスピアを読んで何も感じなくても好きになれなくてもそれでOK。ベートーベン作曲のクラシックを聴いて何も感じなくても好きになれなくてもそれでOK。浮気しちゃったと教会に行って司祭に告白しなくてもよい。主観を原則、否定されることはない。浮気はダメよ、なんて外から否定されても、自分の内なる自由な気持ちが、”べつにいいじゃん”、と思ってしまうならば、それは止められない。

善/悪、正/邪、美/醜などは、天からではなくて、ひとが自ら決められる。「人間至上主義」との言葉が使われている。ボクは聖書も仏教などの経典なども知識が無い。よく考えると、無知で許されるのも、無知で生きていられるのも、そこが答え、善、正、美ではないと、現代の教育でそう思うように育ったから。

悩ましい課題の一例だが、浮気しても/されても、それを気にしないひとも、気にしちゃうひとも、本人同士は幸せで、他の当事者は悲しい、かもしれないが、それは神が決めたことではなく、それぞれの関係者個人の感情であり、なんであっても感情としては許される。人それぞれ。もちろん善悪の答えは無い。神の戒律、権威からのお達しはないし、自分達の気持ち・意見がお達しで決められるわけでは無いのだから。

「浮気はダメ」。なぜなら、カントのように結果に関係無く、道徳的に義務的に正しくないことだから、という考えが心地良いと思おうが、ベンサムのように幸せの総和が多いなら「浮気したっていい」という考えが心地良いと思おうが、どれもありだ。答えは無い。個人でご勝手にだ。

会社でボクは「自分で考える力を付けよう。答えはない。上司が正しいなんてわけがない。自ら考え行動する力をつけよう」、なんて気軽に言っているけど、数世紀にわたって人類が苦労しつつ獲得してきた思想・教義なんだと再確認。中世の方が「ラク」だったかもしれない。天からの戒律に従うしかなく、それが答えだったから。現代の方がより「自由」ではあると言える。でも、自由に「責任」はセットだから、苦手な人もいるだろうけど。

しかし、この天から権威・意味が降りてくるというのは怖い。実際に、戦時や中世に生きたことはないので(当然だけど)実際はわからないが、やはり現代人としてはとても怖い。

一方で、この人間至上主義も怖い。

現実的にはこの怖さはボクの周りでも起きているはず。レベルが低い話かもしれないが、会社の評価で、同じ数値結果なのに、Aさんは高評価。Bさんは低評価。会社の面接でCさんは不採用。Dさんは採用。違いはロジカルには説明できない。Dさんの方がなんか声が好き、みたいな。明日になったらDさんを不採用にして、Cさんを採用していたかもしれない。おおいにありえる。ボク個人的には全く問題無いが、会社全体としては問題だ。正しく評価できず、あるべき人も採用できていない。自由という名のテキトーな意思決定が蔓延だ。

ところで、プロフェッショナルと呼ばれる人であっても、人が判断する結果よりも、AIに機械学習させて判断させた方が社会全体としては正しいという。そりゃ人間は、プロフェッショナルといっても毎回同じ決断はだせないもの。そもそもやさしい人もいれば、厳しい人もいる。やさしくしたい時もあれば厳しくしたい時もある。AIは気分に左右されないし、そもそも優しいAIか、厳しいAIか、なんてこともない。

中世の、天からのお達しが正解な時代から、現代の人間至上主義の時代へ。そして、AI至上主義の時代へなるのだろうか。

このAIな時代も怖い気がする。知識が不足していると恐れるものだ、という主旨の格言があるから、ボクのAIに関する学びが進めば、正しく理解したら怖さはなくなるのだろうけど。機械学習させようとするのは人間だろうし、その結果を理解し、社会に何らかの形で反映させるのも人間。厳密には人間至上主義とAI至上主義のハイブリッドな時代。人間至上主義が怖いのだから、この状態も怖い。

あれ、ボクって心配性なだけ? どの時代も怖いって思っている。ってことは、つまり、気にしなくていいのかな、と思い直す。「赤色は赤い」と言っているようなものか。。。

ならば、現代がこの人間至上主義であることに感謝しつつ、甘受しつつ、ただ、自分勝手、身勝手、利己主義、我が儘にはならない範囲で、前提で、自ら考え・行動しよう。中世からの流れと将来をちょいっと想像する中で、そんなことを認識したのでした。

「人生を送りながら、他人を傷つけ、他人に傷つけられ、情け深い行動を取り、他者からの思いやりを受ける。注意を払えば、道徳的な感性が研ぎ澄まされ、こうした経験が価値ある倫理的知識の源泉となって、何が善く、何が正しく、自分が本当は何者かがわかってくる。」(同上書籍)

今日のベターアイデア:
現代は、中世の、天からの戒律、意味、お達しが善、正、美であった時代から、「人間至上主義」になった、という。なるほど確かにそうだ、と再確認。自分で考えて、答えを出そう、と教育されて・教育し、人間が(個人が)正しい戒律になっている。ありがたいことだ。自分を信じて良いという自由があるのだから。ただ、自由の危険も確かにある。中世から現代、そして将来を想像し、比較することで、現代のこの「人間至上主義」が心地良く思い、そういう世の中に生まれていることを感謝しつつ、一方で、身勝手・利己主義にならないよう注意しようと考えた。これ、うん、ベターアイデアだと思った。

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