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落ちない1枚の葉っぱ。リーダーの使命を教えてくれる(素敵なリーダーになりたい編_v4-45)

家のリビングにあるフィカス・ウンベラータ。観葉植物。全くかわいそうな話だが、購入してから13年ほど、土も変えず、鉢も変えず。。。ごめんなさい。この植物にとって正しい場所(温度や日射など)に置き、水も適切なスパンで適量をあげ、毎年、春辺りに葉が生え替わり、素敵な、綺麗な緑をもたらしてくれていた。が、明らかに枝が乾燥し、寿命が感じられる。新しい芽が確認できず。残り2枚の葉、となってしまった。

「最後の一葉」というのか、最後の二葉の状態。。。

で、オー・ヘンリー(アメリカの短編作家。1862-1910)の「最後の一葉」を思い出す。「やさしさ」と「勇気」と「努力」の話とも言えるし、「使命感・存在意義」の話とも言える。オー・ヘンリーの短編には好きな話がいくつかあるが、その中のひとつ。

重い肺炎を患い、生きる気力を無くした画家。自分の部屋、病の床から見えるレンガの壁を這う葉っぱ、を見てつぶやく。葉が全て落ちたら、自分も終り。既にだいぶ枯れている。葉は今にも全て落ちそう。医師も気力が無いと本当に死んでしまうと心配するが、どうしようもない。

仲良しの友人はとても心配。同じアパートの老画家仲間に、葉が落ちたら本当に死んでしまいそう、と心配して話す。ただ、同じアパートのこの老画家仲間は酒ばかりあびて、創作作業は口ばかりで手が動かない。傑作を作る、作ると豪語しては酒を飲むばかり。助けにはならない。。。良き展開が期待できない状況ばかり。。。

ところが、肺炎を患っていた画家は気力を取り戻す。レンガの葉っぱの、「最後の一葉」が嵐が何度来ても、暴風雨の中、生き残っていた。だから、私も!と、その強さに心打たれ、気持ちを改心、気力を復活させ、病気を治すことに成功したのだった。

一方で、老画家が肺炎で逆に亡くなってしまった。酒のせいかと思いきや、実は老画家がレンガの壁に”葉”を描いたのだ。本物の葉はすべて落ちてしまったが、絵の”葉”は残っていた。肺炎の作家の気力を復活させるために、死なせないために、老画家が嵐の中、描いたものだった。寒い中、雨風に打たれ、落ちない”葉”を精巧に描き切った老画家は、亡くなってしまった。

生き残るに気力が大切と感じるとともに、同時に、仲間の画家を死なせないために自分の役割を全うする気力(作品を作り上げる気力)の価値も感じる。

老画家が得た、自身の役割、社会的な役割、誰のために自分は存在するのか、の強さを謳っている。自分にしかできない、酒に溺れ、大作を夢見るだけのそんな自分にしかできない、他人では取り替えることのできない「大仕事」。その使命を認識すると、ひとは、辛い環境(暴風雨の中)でもチカラ(落ちない精巧な”葉”を描き切る)を発揮する。

同じメッセージを伝えてくれる「夜と霧」(V.E.フランクル著、霜山徳爾訳、みすず書房)を思い出す。アウシュビッツの強制収容所での地獄の経験をつづる心理学者の作品。

「失望と落胆へ急激に沈むことがどんなに致命的な効果を持ち得るかということを知っている。~期待していた解放の時が当たらなかったことについての深刻な失望がすでに潜伏していた発疹チブスに対する彼の身体の抵抗力を急激に低下せしめたことによって死んだのである。」

「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題ではなくて、むしろ人生が何をわれわれに期待しているのかが問題なのである。そのことを我々は学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。~、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。」

「~各人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、-意識されれば- 人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。彼はまさに彼の存在の「何故」を知っているのであり、従ってまた「殆どいかなる如何に」にも耐え得るのである。」

自分が何のために生きるのか、その責任、存在意義、必要性を感じるならば、使命を思えるなら、自分の存在・苦悩の意味を受入れ、やり通せる。強制収容所の場合では生きる気力を維持でき、自殺などせず、生き抜ける、というメッセージと理解している。

老画家は、自分の使命を発見した。これこそが自分の傑作になる!肺炎を患う画家の気力を復活させ、病の床から元気な姿に戻すのだ。だから、嵐の中でも自分が病になろうとも「最後の一葉」を描くのだ。落ちない葉、消えない葉を。自分の存在意義、必要性、責任、使命をこれに感じた。だから、実行あるのみだ。決して挫けずにやり抜く。

アウシュビッツが起きるだいぶ前にオー・ヘンリーは気力の大切さ、人生から自分が何を期待されているかの使命感・存在意義の大切さを描いた、のだと思っている。

さて、会社のリーダーは、まさに個々の仲間・部下に、この使命、責任、役割、存在意義を見つけさせ、思い起こさせ、確信させ、そして、その実現をサポートするのが、使命、責任、役割、存在意義、だと思う。

そして、半分は会社のビジョンの実現のために、半分は個々の仲間・部下のプライベートでのそれのために。職場・会社・組織だからと言って会社のビジョンのためだけでは身勝手で、格好悪い、と思う。その組織での経験ならびにリーダーとの接点を通じ、プライベートでの使命、責任、役割、存在意義すらも果たすべく、直接・間接的に、仲間・部下の能力、知識、人格、知性などを成長させるべき、と思う。

「素敵なリーダー」: リーダーならば、自分が、会社という無形の存在を通じて、社会やお客様や職場の仲間のために、何をすべきかの使命、責任、役割、存在意義を持っているはず。そして、それの1つは、仲間・部下に、それぞれの個性にとっての使命、責任、役割、存在意義を見つけさせ、思い起こさせ、確信させ、そして、その実現をサポートする、ことだと思う。真にそう思えたら、ひとはチカラを発揮する。会社の中で見つけるって難しいかもだけど、でも、人生のほとんどが仕事なのだから、そこに見つけるべき、かなと思う。リーダーが手伝ってくれて。素敵なリーダーの条件かと。

こんな素敵なリーダーになりたいですね。

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