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人生の心苦しい二者択一。直面した時に自分らしく正しい道を選ぶためには?

人生は日々、選択。選択肢があるなんて恵まれている、とも言えるが、例えば、どっちの学校に行こうか。どっちの部活に入ろうか。どっちの会社に就職しようか。転職しようか留まるべきか。どっちと結婚しようか、仕事と家族の誕生日会とどちらを優先しようか、など。

これらは悩ましいが、ある意味、大したことではない。なぜならその判断の後をより良質な状態に自らが作っていくことが本質な問題だからだ。誰と結婚しようが充実した結婚生活にするかは自分次第。つまりスタートの問題で、エンドが絡む問題ではない。それに、よく考えると別に二者択一ではなく、第三の道も、第四の道も考え、選択できる。

もっと悩ましいのが「エンド」が絡み、「二者択一」で、「時間が無い」問題。人生に数度出会うかどうか。突然に訪れる。映画だけの話ではない。

1.津波が目の前。寝たきりの家族がいる。どうする?
2.飛行機が炎上。逃げ遅れた客がいないか再度、座席を回るべき?
3.身障者がホームに落ちた。電車がもうすぐ来る。どうする?
4.多数が負傷。救急リソースが不足。優先順位の判別が必要。この微妙な負傷者はどうする?

勇気を発揮する人々に驚愕し賞賛し感動する。同時に、さて、こんな二者択一に直面し自分は正しい道を選べるだろうか? 自問自答。即決できるのか、悩んで悩んで機会を逸するのか、さっさと逃げてしまうのか。わからない。しょうがない状況という局面が自分を突き動かすのだろうか。それに、そもそも一体どっちが正しい道なのか。

シーナ・アイエンガー教授(米国コロンビア大学ビジネススクール、ちなみに盲目。高校にあがる前ほどに完全に失明したそうだ)のスピーチでこんな事例紹介がある。

生まれたばかりの赤ちゃんの脳に酸素が届かず(無酸素脳症?)。人工呼吸器でがんばるも期待は何もできない。この生命維持装置を外すか、継続するか。外すとすぐに亡くなってしまう。外さなくても数日で亡くなってしまうはず。万が一にも生き延びても植物人間。

米国ではこの人工呼吸器という生命維持装置を外す/外さないは親が決める。フランスではドクターが決める。結果は両国とも同じで、いつかは外される。が、意志決定者が違う。

米国の両親には、この出来事に対するネガティブな感情が付きまとう。フランスの両親よりも長きにわたって多くの割合が苦しむ。「他の選択肢は本当になかったのか」、「何ででこんなことをさせたんだ、医師からの拷問だ」、「死刑執行者になった気分だ」、など。鬱になる場合も。米国では、自分で選んだから、自己責任をより強く感じる。一方、フランスは自分は助けたかったが医師の判断だ、そういうルールだ、と思うことで一定レベルで落ち着きえる。

自己責任で選択することの気楽さと辛さ。よくある自由と自己責任の議論。さて、自分はどうするのだろう。”その場”が自分を引っ張ってくれる気もする。現実はもっと”詳細”だから、直面した”詳細”が答えに導いてくれる、はず。しかし、”その場”・”詳細”をどう思うかがまさに自身の人格・勇気次第。結局、自分らしさがいざというときに出る。それが、その場にとって、相手にとって、真に正しいのか。。。

勇気を持って逃げずに利他的に行動することイコール自分らしい道にしたい。そんな道を即決ができる自分でありたい。そしてその選択の結果に後悔せず、思い悩まないひとになりたい。

では、こんな二者択一に出会ったとき、後悔せずに怖いけど逃げない方向で決断するために日々どう訓練したらいいのだろう。テストができないから、結局はわからないのだけど:

1.相手の立場で考えて利他的に日々行動すべきかなと思う。相手は助けて欲しいと思っているはず、なのか、もう見捨てていいよ・しょうがないさ、なのか。自分が逆の立場だったらどう思うのか。その当てが外れないように日頃から訓練。相手の立場で思考できるよう日々訓練。いざという時にそれに基づいて即決・行動

2.仕事や家庭で辛い選択・悩ましい選択は日々、多々ある。しかし、上述の諸々のケースに比べると日々の”小さな”選択は、どうでも良くは無いけれど、ま、思い悩むほどではない。だから、選択の先がどうなるかなんて気にせず、日々、さっさと即決の訓練。

3.そして、日々、後悔無く充実してハッピーに生活しよう。いつこんな二者択一で正しい道を選ぶことで人生が終わるかわからないのだから。

To be or not to be, that is the question


心苦しい二者択一を前に、ハムレットの言葉のように悩みが現れずに即決する自分であって欲しい。時間が無い、のだから。。。

読んで頂きありがとうございます。
(最近出会った素敵な気づきフレーズv7_4)


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