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【短編小説】泥中の




安全な場所から滑り落ちてしまって鉄棒にぶら下がっている、いつからかそんなイメージを抱いている。両脚は宙に浮いていて、そっと下を覗いてみるが地面は見えない。暗闇の中、自分が掴んでいる鉄棒の一メートルほど上に光源があり、ぼんやりと光っている。この鉄の棒の上まで身体を持ち上げよじ登れば休める空間があり、落ちることに怯える必要もないのだと、なぜだか知っていた。


下に広がる無限の暗闇に怯えて焦ってしまうと、きっとこの手は簡単に鉄の棒を離れるだろう。ここは夢の中だ。ならば焦らなければ、握力の限界が来て落ちてしまうこともない。


暗闇を恐れないこと。暗闇にいつか飲まれるとしても、頭上のどこかから降る光に眩まないように目を慣らしておくこと。もっと明るく安全な地に固着しないこと。明るさにも暗さにも怯えてはいけない。憧れてもいけない。


生にも死にも執着しないこと。


そうしていつも、はざまから見える世界を愛でた。登下校中、どこかの家から香る醤油の匂い。スーパーの入り口から流れ出ては足元をかする冷気。芝生に隠れるショウリョウバッタを眺め、空き家の庭に茂る猫じゃらしに触れる。


校舎の中庭にちょうど夕日が差していて、ソテツの葉や隅に置かれたベンチ、足首ほどに伸びた名前も知らない草が、すべてオレンジ色に染まっていた。その一角だけが、世界から切り離されて美しかった。



綺麗だ、そうつぶやいた。誰かにこの美しさを見せたくて振り返る。講堂からばらばらと出てくる生徒のなかに、探していた人を見た。



ーーここが今とても綺麗なんだ。他の場所は校舎の陰だけどここには夕日が差して、オレンジに染まっていて。風もないし、この場所だけが全く別の世界にリンクしてるみたいに見えないか? この一瞬を切り取ってずっと持っていたいくらいだ。綺麗だ、ほんとうに。ーー



彼の隣で、友人が首を傾げた。

そうか?そんなに?確かに綺麗かもしれないけど。



彼はじっと黙っていた。だがすぐに僕に背を向けて歩き始めた。

行こう。俺たちとは違うものが見えているんだ。





僕は笑った。そうして彼のあとを追いかけた。














最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。