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【短編小説】金木犀


適当に座っていいよと言われて腰をおろしてから、周りに知った顔がひとつもないことに気がついた。何人かできた友人は、どこか違う列に座ったらしく見当たらない。
先輩に促されるまま適当に頼んだアルコールが運ばれてくる。暑いがジャケットを脱ぐ勇気もない。

知らない先輩を挟んで、一つ飛ばした左隣で、よく通る声が笑いを生む。自分とは程遠い社交性と、この顔に必死に浮かべた(不格好だろう)笑みの苦しさを対比する。

グラスの中のアルコールを煽った。

顔赤いんじゃない?
向かいの名前も知らない同期が心配してくれる。いらないいらない。そういうの、いらない。
冷や汗が気持ち悪く、もうどうでもよくなってジャケットを脱いだ。


先輩の背中越しに、先ほどの同期がシャツの袖をまくってラフにしているのが見えた。右腕に、天板の黒い腕時計がきらりと光る。緩やかな腕の曲線を目の端で追った。少し酔っている。




家に帰って、グラスに注いだミネラルウォーターを一気飲みした。周りが口にしているのを何度も聞いたはずの、その名前はもう思い出せなかった。

ただ、目の前のつまみに伸ばされた、シャツから覗くその腕のラインと、ふっと香った金木犀の香りだけを覚えていた。






***

後書き

彼岸花、で小説を書いたら、次は金木犀もやってみたくなって。最近、秋になってキンモクセイの香りを売りにした商品をよく見かけるようになりましたね。きっと腕時計の子も、柔軟剤か、香水系かわかりませんが、キンモクセイの香りを纏っていたのでしょう。

タイミングを逃して、顔が見られなくなる時ってないですか(僕はあります)。

そんなイメージで書きました。人ひとり挟んでいるので、会話にぼんやりとしか参加していないこの子は相手の顔を(覗き見る感じにしないと)見られない。気になる様子を悟られたくもない。

だけど、やはり気になって、声と、伸ばされた腕と、香りだけを覚えている。

そんな一場面を想像しています。



ジャケット脱いで良いよって言われてもムリ!なんか怖いしシャツ汚しそう…なんていう気持ちも入っています。

主人公と腕時計の子、どちらも性別書いてないのだけど気づいたかしら。一応どちらでも成り立つようにとは思ったのですが。

どちらで読んだか、教えてくださると僕が喜びます。





最後までお読みいただきありがとうございました。

最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。