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何故

「死にたい」。
SNS上で、日常の至るところで、目に、耳にする言葉だ。
良いも悪いもない、よく見るし聞くなあくらいの感想。

けれど最近毎日ニュースで取り上げられる戦争の話題を眺めていて思うところがあったので文章にしようと思う、誰に向けてでもない僕自身の頭の中での話。


何故、「死にたい」と思うんだろう。
僕なりの答えを先に。
おそらく「死ぬことが当たり前ではないから」なんじゃないのかな、と思う。
生物として生まれてくるということは、死ぬこともセットだ。
なので本来「死」というやつは僕らにとって当たり前な存在であるはずなのである。
が、少なくとも現代、僕の住んでいる場所では当たり前とは言い難い。
テーマとされるのは常に「死なないためにどうするか」ではなく、「長く生きるために何ができるか」だと思う、そもそも前提として「死」が僕たちから遠い。


この星ではあらゆる生物が食物連鎖という循環の中に組み込まれていて、誕生から死ぬまでが1つのサイクルとなっている。
そしてそのサイクルから唯一外れているのが我々人間という種族であるわけだ。

要するにだ、

誕生→食う→子孫を残す→食われる→死ぬ

という至ってシンプルなサイクルを回していく、ドライに言ってしまえば「生きるから死ぬまで」が生物にとって自然な作業だといえる。

で、だ。
僕が例えば人間以外の動植物としてこの星に生まれ落ちたとしよう。
自然な流れで生まれて死んでいく中で「死にたい」なんて発想が浮かぶだろうか、いや浮かばないだろう。
理由は簡単、当たり前に、至って自然に死ぬからだ、死を望む必要なんてないのだ。


話は人間に戻って、例えば。
戦争が身近に起こる、日々誰かの死を目の当たりにして自分もいつ命を奪われてもおかしくない状況に生まれたとしたら。
「死にたい」と思うだろうか。
死にたくないや生きたいとは思ったとしても「死にたい」とは思わないのではないだろうか。
何故なら「生」よりも「死」が近いから。


戦争なんてものはない方がいいに決まっているし、関係者全て悪だと僕は思う。
ネットで調べているだけで正直別世界の出来事、どちらが悪いだなんて決めつける権利は僕にはない、と思う。
もちろん見て聞いて、心は痛い。
けれど体験していない僕が意見を述べるなんて傲慢だ、遠くから眺めてるだけなのに野次を飛ばす、僕は野次馬にはなりたくない。


僕が暮らすこの国では世界的に見ても多くの自殺者が毎年出るそうだ。
何となく生きていることが偉い、生きていなきゃいけないという社会性をずっと感じている。
例えば。
死にたいときに望めば楽になれる「安楽死」が合法となったとして。
自殺者はやはり減るとは思う。
けれどいつでも死ぬことが可能になった社会では案外安楽死希望者は多くならないような気がする。
きっとそこでは「死」は遠い存在ではなくて、選択肢の1つとしてあるから渇望するものではなくなっている気がするからだ。

3年ほど前だろうか、何となく「死にたい」と思って大通りの信号脇に立ち尽くしていたことが僕にもあった。
正確に言うと生きていたくも死んでいたくもない、ただこのまま何となくぼーっと生きていくことに嫌気がさしていた。
たまたま向かいから友人に声をかけられて、彼はすでにベロベロなのに飲もうぜ!と。
悩んでいたことがバカバカしくなり浴びるように酒を飲み、結果3年経った今ものうのうと生きている。


今でもぶっちゃけ生きてたいとも死にたいとも思わない。
ただ死ぬまでは生きててもいいかなあ、とぼんやり思うようになった。
どうせそのうち死ぬことには死ぬんだし、そこまででいい気分になることがあればラッキー、くらい。


自殺を選ぶ人や死にたいと口癖のように呟く人たちを僕は悪いとは思わない、彼らの痛みはきっと彼ら自身以外には測りようがないだろうから。


ただ、僕は生きていくんだと思う、急なのかずっと先なのか分からないが「死」がやって来るその時まで。
まあ生きててもいいかなあ、それくらいの気持ちで。
今はまだおそらく、「死」が遠い場所で今日も、今日を生きる。



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