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「一線」

こんばんは、ぼく我わたしです。
今日はまじめなお話を。

僕たちが生きる社会では「超えてはならない一線」というものが存在する。
いうなれば「ルールの向こう側」、その線を超えたら犯罪として罪名が付けられ相応の罰を課される。
マナーや常識といった曖昧な線引きではなくて、どんな理由であれ明確な線引きの下誰しも平等に裁かれる。
それが「犯罪」であると僕は認識している。

「女子風呂覗こうぜ」、男子同士でよく耳にする悪ノリだ。
「あいつ腹が立つな、殺してしまおうかな」、言っていいことではもちろんないが、それほど人に対して憎悪を抱いてしまう日もなくはない。
だが、そこで思いとどまる。
何故か、実行してしまってはいけないこと、すなわちその行為が「犯罪」であるとわかっているからだ。
要するに前述した「超えてはならない一線」というやつだ、誰しもがそれを認識して日々生活を送っている。

しかし、だ。
それを超えてしまう人間が一握り、本当にごく少数存在する、らしい。
日々のニュースでそんな人間たちの報道を見るたびに頭を抱えていたが、あくまで遠い世界の話だと思っていた。
遠い、というのは距離の話ではなくてなんだかんだ自分の周りでは起こっていなかった、という認識。
が、だったのだが、そんな認識が最近覆された。
要するに、直近身の回りで事件が起きた。
大層驚いた、それはまあ驚いた。
いくらひねくれものの僕であっても、日々関わりのある人が「犯罪を犯す可能性のある人」である、と疑って生きているわけではないので。
関わる人全てを「こいつは一線を超える人だ」と警戒して生きていたら、気が気じゃない、引きこもることしか安全は保障されなくなってしまう。

厄介なのは彼らを理解できないことだ。
理解できないことは当たり前だ。
我々が生きる上で学んできた「ここだけは超えないだろう」という限界の一線を超えるのが彼らなのだから。

どんな理由であれ、どんなバックグラウンドがあったとしても罪は罪、これだけは絶対だ。
純悪なのか、必要悪なのかはここでは触れない、犯罪は犯罪なのだ。
一瞬の罪は一生背負っていかなければならないし、更生しても過去の罪は絶対に消えない。

この世界には「超えてはならない一線」を超えてしまう人間がいて、そのトリガーがどこにあるのかは他人には決して理解できないもので。
逆にトリガーが引かれていないだけで、次に一線を超えるのはあなたかもしれないし僕自身かもしれなくて。
その一線だけは超えてはならないと改めて肝に銘じた。

テレビやニュースで見る事件たちは何も遠い世界線の話ではない。
あれらは現実、僕たちの生きているこの世界の出来事で、いつ身の回りで起こっても不思議ではないのだ。


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