「褒められる」のが苦手だ


こんばんは、ぼく我わたしです。
ネガティブ人間と呼ばれる僕の苦手な「褒める」という行為について、小言を。
本日はそんなお話。

「褒められる」ことが苦手なわけ

僕は「褒められる」ことが苦手だ、とても。
何故か、2点理由がある。
・素直な称賛に聞こえず馬鹿にされているのでは、と勘ぐってしまうから。
・「褒め」を貰ってしまうと「褒め」がなかった時に、「まずいことしたかな」と不安になってしまうから。
僕が何か頑張ったり人のために動いたときは「おつかれ」か「ありがとう」のみにしてくれ、と常々思っている。
それ以外の評価や言葉は僕にとっては余計で、ぶっちゃけストレスですらある。

「褒め」に対してひねくれた根拠

「褒める」とは、僕なりに解釈すると「できないと思ってたけどできたじゃん(笑)」だと考えている。
僕としてはただすべきことをやっただけなのに前提として勝手に見下されていたように感じる、不愉快だ。
何なら勝手に見定められているだけで気分が悪い。

何故そう考えてしまうのか、根拠をあげよう。
例えばだ、朝起きて息を吸って吐いて、顔を洗う。
この行為を褒める人はいるだろうか、いやいない。
何故か、当たり前だからだ。
極端な例をあげたが、そういうことなのだ。
誰かが忘れていった仕事をやっておく、その場の雰囲気が悪くなる前に流れを変える。
僕にとっては当たり前のことなのだ、というか自分が後で面倒を被らないために先に対処しているだけなのだ。
勉強もそう、好きな教科は好きで勉強するんだから点数がとれることだってある、断じて「褒め」が欲しいわけじゃない。
「すごいね」とか「できんじゃん」とか「意外だわ」はいらない、勝手に見極めた気にならないでほしい。


「褒められる」ために何かをしているわけではない


他の人たちはどうなんだろうか。
褒められたら嬉しいのだろうか。
「褒められる」ことが嬉しいから頑張るのか、「褒められない」ことが怖いから頑張るのか。
小さな気づかいですら「褒められたい」がためにするのだろうか。
「ありがとう」は素直に嬉しいし、助かったなら伝えるべきだと思う。
だが「褒め」が付随すると、「ああ、できないとおもわれてたのね、はいはい」と何というか萎えてしまう。

仮にだ、一挙手一投足すべての行為に「褒め」という評価がもらえるのが当たり前だとしよう。
唐突に「褒め忘れ」があった場合、行為者は「あれ僕何かしてしまったかな」と不安に駆られてしまうのではないだろうか、いつも通りのことをしているだけなのに。

気安く褒めないでくれ

もちろん頑張ったことに対して「評価」がもらえることは素直に嬉しい。
けれど、当たり前だと思っていることをして褒められても「??」としかならないし、僕としては皮肉にすらとってしまう。
僕が悩んでいることでも他人は無意識な発言ばかりなのに。

ああ、生きにくいなあ、ネガティブ人間。

あとがき

こんなことを日常で他人に向かって言い放てるわけもなく、この場で長々と語ってしまったがまあこんな日もある。
皆さんはどうでしょう、「褒め」が皮肉に聞こえてしまうときなんてありますか。ではまた。

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