だから私は論破しない。
どちらかといえば論破されたいという話です。KinKi Kids風に言えば「論破するよりも論破されたいマジで」になります。通じるのかこれ。雑に調べたところによると「論破」とは「議論して相手の説を破ること」だそうです。
例えば、私は地球は丸いと思っていますが、地球は平面だという主張をしている人がいたとして、わざわざ時間を使って根拠となる論文を探して「地球って丸いんですよ」と論破しところで、私の人生には1ミリくらいしかメリットがないんじゃないでしょうか。しいて挙げるとするならば、一度調べたことにより、次はより短い時間で地球は平面だという主張を論破できることくらい。一時の勝利の快楽は得られるのかもしれません。しかし、経験上、いまどき地球が平面であることを信じている人は、根拠となる論文を提示しても、宇宙から見た地球の映像を見せても、何かしらの理由をつけて信じてくれないことが多いので、論破しようとするとかえって疲れてしまいそうです。
私が恵まれていただけかもしれませんが、これまで生きてきて、論破できたから手に入ったもの、或いは論破できなかったから手に入らなかったものがパッとは思い付きません。もちろん自分の考えを伝えなければ投資が引き出せない場面は多々あります。「私は地球は丸いと思います。なぜならかくかくしかじかで」と説明しなければならない場面は多々あります。だからといって「地球が平面とかあり得ないんで」と相手の主張をわざわざヘシ折る必要はありませんでした。「平面かもしれませんが丸いかもしれないので丸いときのための投資は必要ですよね」あたりに着地することがほとんどで、論破しないことによるデメリットを感じたこともないのです。
また、普段の付き合いにおいて、地球が平面か球体かが重要になってくるケースはほとんどないので、特定の場面(平面であること或いは球体であることに強い拘りがあってどうしても相容れない場合など)を除いて平面派と球体派は衝突することなく共存可能であると思っています。いつも仲良くさせてもらっている人たちが平面派か球体派かは考えたことがありません。先に「平面派と議論するのは疲れそう」と言いましたが、これは球体派である私の立場から見て「正面から議論してくれない人を相手にするのは疲れそう」という例示であって、地球が平面であると考える論拠を提示してくれるような人であれば、その論拠を受け入れられるかどうかはさておき、興味深く拝聴することができるので付き合う上での大きな問題はありません。むしろそういう常識にとらわれない人のほうが面白いんじゃないかとさえ思っています。逆に球体派であったとしても「だってみんなが丸いと言ってるから」くらいの理由しか挙げられなければ、それはたまたま同じ意見のマジョリティに属しているだけで、地球の形状以外で意見が対立したときには議論に向かない相手である可能性があります。私が重きを置くのは球体派か平面派か、つまり自分と同じ意見か異なる意見かではなく、いざ議論になってしまったときに議論できる人かできない人かです。
念のため断っておくと何でもかんでも議論に持ち込む必要性はまったくないです。正直、私自身、地球の形状について議論せよと言われても専門ではないので自信がありません。論破するには議論が必要で、議論するためにはそれなりの知識か下調べが必要なので、結構たいへんなのです。「2ちゃんねる」の創設者であるひろゆきさんは巷で「論破王」と呼ばれているそうです。確かに彼は話すとき、経験や知識からくる論拠に基づいて意見を述べます。だから説得力があるように聞こえます。もしもライブ配信の会話の流れで平面派に立った彼と球体派の私が議論をしたら私は容易く論破されてしまうことでしょう。ただしそれはあくまで咄嗟に引き出せる論拠があるかどうかで明暗が分かれているだけなので、調べる時間さえもらえれば論拠が正しいかどうかにつけ入る隙はあると思います。
長々と例え話を続けてしまったので一旦要点をまとめると、
・論破してもメリットが感じられない。
・論破しなくてもデメリットが感じられない。
・論破するためにはそれなりの知識と専門性が問われる。
の3点から、学会など専門家が集まって議論する場であればまだしも、日常会話レベルで私が自ら望んで相手を論破しようと仕掛けることはほとんどありません。
一方で、論破するのが好きな人もいるのは事実で、私が何かしらの意見を述べたときに「それは絶対ない」と仕掛けられることはよくあります。一瞬だけ「むっ」としますが、それ以上にワクワク感が強いです。この人は一体どんな絶対的な論拠で私の意見を覆してくれるんだろう、と。先に述べたように専門性がない日常会話レベルで出てくる私の意見に立派な論拠があることはほとんどなく、つけ入る隙は山ほどあります。論破を仕掛けられたということは、自分では想像が及ばなかった新知見に触れられる大きなチャンスでもあるのです。
自分の意見に対して議論を吹っ掛けられるのは嫌いではありません。実際に話を聞いてみて、思わず唸ってしまう納得感のあるものであれば、私は簡単に自分の意見を変えてしまいます。自分の意見に強い拘りはなく、いろいろな意見を聞きながらそれらをもとに自分で調べながら総合的に判断して正しいと思われる方向に軌道修正を繰り返すのです。「なるほど! そういう考え方もあるんですね!」と自分の知識と価値観をアップデートできることに喜びを感じています。
「いやいやいやその程度の論拠でよく噛みついてきたな??」と思うこともありますが、やはり論破し返すことはありません。論拠の確からしさだけでは、結局、正解がどちらか断定できないからです。この時点で論破できても、蓋を開けたら間違っていたということも起こり得るわけで、そうなったら目も当てられません。恥ずかしい。そうなるくらいなら相手に一旦論破されたフリをしておきながら、自分が正しかったことがわかった後に、「おやおや、あのときの自信と勢いはどうしちゃったのかな?」と愉悦に浸る方が面白いんじゃないでしょうか。ちょっと性格悪いかしら。
だから私は論破しません。せいぜい自分の意見を支持する論拠を提示して、判断を相手に委ねるところまで。
余談
結構ブーメランな話で、noteの中だけでもUR予想を外したり、ライブのセットリスト予想を外したり、アニメ展開予想を外したりしています、私。もしかしたら仕掛けないだけで心の中で論破していた読者もいるのかもしれません。プロセスとしてはその時点の情報を論拠に予想したけど結果的に違っていたというだけなので特に恥ずかしくはないのですが……嘘です。恥ずかしいか恥かしくないかと言われればめちゃくちゃ恥ずかしいんですが、その差分も含めてエンターテイメントとして楽しんでもらえるなら、それはそれで嬉しく思います。
頂いたサポートは、美味しいものを経て、私の血となり肉となり次の作品となる。