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際限のない疲労感

 やはり今年は年初めからペースを上げ過ぎたようで、
少し溜まっていた疲労感が現れ始めている。
 で、ここで普通の人なら息抜きが必要なんだが、
僕の場合、息抜きが息抜きじゃないから結構めんどうなのはそうだ。
 過去作の見直しを先月末から今月頭までやっていた、
それが息抜きにもつながると思っていた、
何にせ過去作は漫画であるから読むだけでいいということで、
うまく息抜きになればよかったのだけど。

 どうやら自分の中でぐるぐる回ってしまって、
かつて自分の思想や思考にあったものまでサルベージしてしまった、
そういう結果になる、僕の思想や思考がなんだったかって?
 ひとつは理想社会に至るために寝て過ごしたいという欲求、
もうひとつは資本主義社会が進みすぎたディストピアにいるのだ、
という漫然とした不安。
 また社会中心主義が先鋭化して、個人を省みない社会に、
なっていくだろうという世情の流れなどである。
 こういった考えは答えを出せればいいのだが、
頭の中でぐるぐるやってる限りには解決策はない、
それどころか自分の考えにまとわりつく靄のようなものになってキツイ、
まだ、自分の考え方はある、唐突な終末が訪れること、
それがどこか望みになっている時期があって、
全ての人が圧倒的な災害によって孤立し全滅する世界のことを、
もやもやと頭の中に浮かべて、寝て過ごすという形を継続することになる。

 これが堕落というものであって、僕はボールペンを取る力を、
失ってしまったようなのである。

 どうしてここまで疲れているのかと言えば、
とにかく自分の抱えてるものが楽にならないことであり、
重荷になっているということも一因なのだろう、
自分が作り出した物語や筋書というものに疲労感を覚え、
とてもじゃないが余裕が無ければクリアできないと知り始めている。

 今は、本当に心の余裕が無いのだ。

 どうしたら心の余裕を得れるのか?
 だいぶ忘れてしまって難しいところになる。
 全ての人が圧倒的なパワーで作品を紡ぎあげていき、
継続は力と示してくれるが、僕は二か月ごとにくる、
ストレスが表に出てうまく表現出来ずにいる。
 何にしても昔と違って通所しながら絵を描くというのが、
バイオリズムを大きく動かしていて、
自分の好きな表現技法を使えなくさせてるのは確かなところなのだ。

 自分の好きな表現技法は落書きなのだが、
どうも落書きできる余地が今現在残されていないように、
切羽詰まっているのは確かで、
自分の命を切り崩して刻み刻みに余裕を作り出していく結果になり、
本当ならあらゆる人にない余暇を十分に持たせてもらってるはずなのに、
心因性の不安や不満、ストレスが取れずに、
その原因が分からずに、今も過ごしているようなのである。

 何をするにしても負荷が掛かってるのは確かで、
自分が自分らしくあれる環境というものを作り出すことも難しいだろう、
努力や工夫や忍耐はどうしたのかって?
 僕はもともと、努力も工夫も忍耐も必要だとして我慢してきたし、
自分の将来のことが分からなくなるほど打ち込みもした、
けれど身につかないし、身にならなかった、
やはり全ての人が、感じる生きているっていう感覚を持つのが苦手で、
連続した絵を描くことも、表現することも、ガタガタになってるのは確か、
何より、絵に関する理解者が本当にはいないということが辛い所、
私は理解しているという人は今後現れるかもしれないけれど、
恐らく、絵というものに描けるべき投資は作品を多く見ることだとか、
表現の幅を広げることだとか、よく見たようなうたい文句で、
絵の方向性をあらかじめ設定してこちらに必要を求めてくるだろう、
それもまた負荷なのだ、
 既に努力も工夫も忍耐も使い切った人間に更に経験を積ませれば、
もっと強く、もっと丁寧に、もっと素晴らしくなるとうたうこと、
それが負荷なのだ。

 僕はもう充分なくらいやった、
それを認めてくれる人が一番必要なのだが、
どうやら居なかったらしい、そういう人物はいない、
充分なくらいやったのならもっと出来るはずだ、
そういう考え方をする人ばかりとなる。

 表現に必要なものは納期や期限である、
表現させたい時にいついつまでにこれを終わらせ、
あれをしようという提案があればこちらも対応できるが、
自分で全部やってくださいとなると負担が大きくなる、
何にしても作品発表は参加することに意義があり、
作品の質や量や格は問わないのが一番なのは確かで、
人の努力量を勝手に決めることで人間をより絞めていく、
努力がもっと必要になるとやられることは厳しいものなのだ。

 確実に今より楽になること、
確実に今より軽くなること、
確実に今より明るくなること、
そういった決まったことなら参加できる。

 けれど、人間、どうしても作業量を増やせとなる、
休ませるという脳は無い、一度、絵で働かせると決められたら、
絵で疲れ、絵で擦り切れ、絵で人生を終わらせるまで、
何もかも絵が中心になることなのだろう、
その負荷を背負うのは厳しいものでもある。

 確かに絵を取り組みたい、そこに間違いはないだろう、
しかし絵で死にかけた身の上で絵にまた命を掛ければ、
高い確率で死ぬのである。 それが分かってもらえてるだろうか?
 死ななければ作品が仕上がらないというほど、
逼迫した環境が無ければ、限界ギリギリまでやらなきゃ、
決まった絵が描けないという具合の半死半生状態を求め、
また、相手が必要とする枚数を納期にまで仕上げるというやり方、
それも必要視され、ひたすら自分の環境を切り崩して絵に捧げる、
それをやってもまだゴールではない計算によると、
あと50回死んでも大成などない、ゴールなど無いという結果に、
なると大体知れている、それだけ絵を描くということは、
作者を死人同前にしてしか成り立たない創作行為でもあるのだ。

 なぜそんな風にしか描けないのか?
どうしてボリュームを求めたのか?
あらゆる人が疑問符を投げかけるだろうが、
絵に才能や凄さを求めたのは周りの人が勝手にである、
勝手に絵に関して作り上げた視点や審美眼で、
果てしなく絵に関する要求を引き上げた、
絵は人に見せて感動を呼ぶものじゃないといけないと、
自然自然にあらゆる人に絵のハードルを引き上げさせて、
個人が落書きをする自由を奪ってまで絵に専念させる。

 絵を描くことが苦ならば他の事をすればいいって?
それも酷な話である、死ぬほど絵に打ち込んだ人間を、
今度は絵と全く違った仕事を与えて、
せっかく楽に描けるようになった諸々を、
捨てさせに掛かるという話である。
 既に描いた、そう思ってる人間にまだ描いてない、
お前はゼロだと決めてかかって話しかけられるのは、
また苦である、ゼロからやり直せを何百回と求められる、
そういうのが普通だと知れば、
だれが絵を財産のように扱えるというのか?

 僕は財産が欲しくて絵を描いていたし、
絵の全ては自分の身につくものだと考えていて、
どのような表現ひとつとっても、
全体の流れを引き立てるものだと知って、楽しく描いてもいた。
 でもそれも全部、人さまからすると無駄だったのだ、
いくら描こうがいくら何をしようが、
肩書きがなければ人間は絵を描くことを許されていない、
表現の世界から外れた省かれ者には絵を描く自由はない、
結果、自由な表現が出来る人だけ生きのこる。

 この社会で自由を勝ち取った人はほんの一握り、
それに入れなかったのであるから、あとは死を待つしかない、
人間、諦めが肝心だ、僕はもう滅びの道を選ぶことにした。

 この先はもう道など繋がってはいない、
死をもってしてピリオドをうつより他ないだろう、
死ねば、作品など無かったということになる。
 それが一番すっとするように感じもする。

 狭量な世界であった。





おしまい

いただけるなら、どこまでもおともしますとも!