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私の思想史〜noteの下書きから探る〜

はじめに

 現在、私がいままでに投稿したnoteは19編ある。これで20編目だ。しかし、下書きには35編ものnoteが眠っている。これらは①途中で論理に矛盾が生じた②調べるのが面倒になった③文章が思いの外長くなりそうで面倒になったなど様々な理由で執筆を放棄したものである。
 これらの下書きを完成させて公開する可能性はかなり低いだろう。特に3年前のものなど書く気すら一ミリもない。そこで書く気のない文章の概要を一つずつ紹介していくnoteを書こうと思う。この文章ですら挫折するのではないかと心配しているが、頑張りたい。
 読者の方々には見出し一覧から興味のある文章を探して読んでいただければと思う。なお、2018年から2021年の下書きについて触れる。

2018年

英検一次試験を突破する方法(2018/11/11)

 英検2級の1次試験を突破した当時高2の私がそのノウハウについて使ったこともない参考書を紹介しながら述べるという詐欺的な文章である。
 内容としては少なくとも英検2級までは単語を覚えれば英語が苦手な人間でも合格することができるというものだ。
 書いている内容としては至極当たり前のことで何の面白みもない内容である。また、英検2級対策の文章は世の中に溢れかえっているので、公開したとしても埋もれることとなっていただろう。
 当時の私は怪しい教育系ベンチャーの営業(?)に携わっていたので、こういったノウハウ作成にハマっていた。この他にも高校受験版参考書ルートの作成などもしていた。故にこういった文章を書いていたのだと思う。

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福袋(高校)の重要性(2018/11/25)

 高校に通うことの必要性について高校を開けてみないと中身がわからない「福袋」に見立てながら述べた文章である。私は高2までは付属生ながら、受験を志していたため、高校という存在が邪魔でしかなく、退学も考えていた。そこであえて反対の立場に立って高校の重要性について考えてみたわけである。
 この文章では高校はソーシャルキャピタルを得るための場所であり、代替手段のある現代においては勉強の場である必要は必ずしもないという大変ありきたりな結論に至っている。

シンギュラリティと公認会計士の未来(2018/12/13)

 落合陽一&ホリエモン『10年後の仕事図鑑』や新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』に感化された私が公認会計士など会計系の職業がどこまでAIに代替されるのかということについて述べた文章である。
 まず、AIによって代替される可能性のある職業(①給料が高い②創造性がない)を示し、その後公認会計士の仕事内容を紹介し、どこまでが代替され、どこからが彼らの仕事となるのかということについて書く予定であった。
 しかし、途中で調べるのが面倒になり、挫折している。

2019年

Twitterのお祈り信仰から見る日本の社会構造(2019/10/17)

 当時は青汁王子こと三崎優太氏による「お金配り」が話題となっていた。これ以前からTwitterなどのSNSでは「プレゼント企画」と称してツイートをRTさせ、フォロワーを増やすということが行われていた。このようなツイートには必ずと言っていいほど、「当選しますように」というリプライがある。このリプライをすることによって、当選確率が上がるわけでもないのにである。
 このような一種の信仰めいた「お祈り」から日本の社会構造について論考してみようと思ったが、テーマが壮大すぎたため、断念した。

「立花孝志」をきっかけに選挙に興味を持った話(2019/10/25)

 タイトルの通り、参院選でのN国党の活躍を見て選挙に興味を持った話を感想文風につづった文章である。
 当時(今もであるが)ネットのおもちゃ的な存在であったN国党が参院選で1議席を獲得したというのは私にとって大変な衝撃であった。
 これをきっかけに政治に少し興味を持ったのである。ここまでの流れを詳細に記したのがこのnoteだ。
 ちなみに、これは「はじめに」「立花孝志と出会った後」「まだまだ面白くなりそう」の三部で構成されている。最後の「まだまだ面白くなりそう」はプラスの意味を込めて書いたのであろうが、現在では党首が収監されそうになっていたり、選挙で40連敗近くしていたりマイナスの意味で面白くなっている。詳しく知りたい方はチダイズムさんのnoteを参照していただきたい。

N国党に学ぶ「ネットゲリラ戦術」(2019/10/27)

 N国党にハマった私はえらいてんちょう『ネットゲリラ戦術』を用いてそれを分析する文章を書こうと決めた。
 ネットゲリラ戦術は多数派に対して小さい集団(ネットゲリラ)がどのように渡り合っていくかということについて書いた本である。
 このnoteではN国党の様々なニュース(TOKYO MX襲撃事件、インフルエンサーの出馬など)を参照しながら、N国党のどこがネットゲリラ的なのかということについて述べた。
 しかし、文章を書いているうちに『ネットゲリラ戦術』自体がほとんどN国党の戦術分析をしている本であるということに気づき、2000字以上の文章を書いていたにも関わらず、公開することを断念した。

インターネットと精神世界(2019/11/27)

 タイトルが保存されているだけで、文章は書かれていなかった。大変抽象的なタイトルであるため、私もその内容についてあまり覚えていない。
 おそらく、当時は「AIは神になり得るか」というテーマに関心を持っており、西垣通『AI原論 神の支配と人間の自由』や佐藤優『世界宗教の条件とは何か』などの本を読んでいた。おそらくそれに関連して書こうと考えていたのがこの文章だと思う。

あの有名な子供の論理は的を得ていたのか?(2019/12/13)

「ばかって言ったやつがばか」という言葉に聞き覚えはあるだろうか。そう、小学生がバカと言われた時に用いる常套句である。有名なこの言葉について論理的に分析するということをこのnoteでやってみたわけである。
 しかし、書いているうちに私は何を馬鹿なことをしているのだろうと我に帰り、執筆を中断して今に至る。

なぜTwitterで病むのか。(2019/12/21)

 Twitterを長時間していると虚無感に襲われることがある。私は高1の夏休みの大半をTwitterに費やした。それによって病んだのはいうまでもない。
 そこでTwitterによってなぜ病むのかということについて同じく空虚なものとされてきたゲームとSNSを比較しながら、心理学の知識を用いて分析した。また、そこから分かった違いからテーマについて述べたnoteである。
 これもテーマに沿った心理学について調べるのが面倒になり、執筆を放棄した。

2020年

「ネタ化された宗教」について(2020/03/01)

 私は「若者のための宗教勧誘回避術」というnoteの中でネットによってネタ化された宗教について少し触れた。そこで、それらの宗教について具体的な団体について触れながら、ネタ化される宗教団体に共通する特徴について述べてみようという試みとしてこのテーマについて文章を書いてみることにした。

 ネットでおもちゃにされている宗教としてはオウム真理教や創価学会などがある。何が要因となっておもちゃにされているのかをその歴史などを振り返って分析しようとしたが、これもまた調べるのが面倒になり、書くのをやめた。

学び直しに最適な教材たち〜文系科目編〜(2020/03/03)

 これもまた、noteに投稿した記事について補足するために書いた文章である。
 私は高3のときに大学の授業を半期受けに行ったことがある。その体験をもとに書いたのが「高校生が大学の授業(経済学)を受けた感想」という記事である。

 このときに感じたのは高校の科目の知識があると、大学の授業をより楽しく受けられるということである。それを踏まえて、高校生が大学の授業を楽しむために必要な前提知識を補うための本やサイトをまとめたのがこのnoteである。
 目次を見るに①地歴科目②英語③国語の3部構成にしようとしているのがわかるが、②の英語の途中で挫折している。おそらく文章が思いの外長くなりそうで書くのを断念したのであろう。

とある有名人のツイートからネットリテラシー教育について考えたこと(2020/03/06)

 まず、「とある有名人のツイート」とは指原莉乃のネットリテラシー教育に関するツイートのことである。

これらの一連のツイートを指原氏は「自分に子供ができたらネットリテラシーだけはしっかりと叩き込もうと決意。。」と締め括っている。ネットリテラシーは今後の社会を生きていく上で必須のスキルとなるだろう。
 仮に義務教育段階でネットリテラシー教育を行うのであれば、どのような教育を行うべきであるのかということについて既存の教育の問題点を挙げながらその方法について述べた。その方法としては例えば、実際にインターネットで炎上して実生活に影響が及んだ人などをゲストに招き話を聞くというものがある。これは子どもにネット炎上をより身近に感じてもらうための試みである。
 これは途中で執筆に係る熱意が消失したため、断念した。

一銭にもならないnoteを書く理由(2020/03/06)

 実はこれはだいぶ時間が経ってから違うタイトルをつけて放出している。以下の文章がそれである。
 私がnoteを書く理由はプロフィールページにあるように「思考が消え失せないうちに記録しておきたい」からである。noteを書く理由はプロフィールページにあるように「思考が消え失せないうちに記録しておきたい」からである。

高等教育(大学教育)の崩壊(2020/04/27)

 コロナが流行り始め、オンライン授業が果たして正常に機能するのか不明だった時期に書かれた文章である。2020/04/27といえば、オンライン授業の開始時期である。
オンライン授業の問題点やそれによって大学教育が崩壊するのではないかという懸念を書き綴った。
 結果としてオンライン授業で大学教育が崩壊することはなかったが、衰退はしたと思う。キャンパスに行けないことによって、サークルなどの文化が消失しかけたり、学びの場が一時的に失われたりしたからである。
 しかし、教育の崩壊は大学教育だけには留まらず、義務教育にも及んだ。長くなるため、これ以上はここでは触れない。詳しくは以下の記事を参照されたい。

いかにして文字数を稼ぐか。(2020/05/08)

 これも「インターネットと精神世界」と同じようにタイトルのみが残されており、本文が書かれていなかった。
 おそらくオンライン授業の影響でレポート課題が増え、いかにして自然に文字数を稼ぐかということについて書いたものであろう。当時のnoteを書くインセンティブはいいねを獲得することであったため、学生に媚を売るような内容の記事を量産していた。
 なお、今までの文章で文字数を稼げていないので、お察しである。

義務教育-論理学の歴史(2020/05/09)

義務教育課程における論理学の歴史を辿りながら現在の小中学校のカリキュラムに論理学の導入可能性を見出すという内容の文章である。世の中に溢れる情報を一つ一つ読み解いて選択するというのは大切なことであるから、義務教育段階において論理を勉強するというのは必須のことであると私は考えている。
 現在ではカリキュラムから除外されているが、1972年〜1980年までのわずか9年の間、中学校では「集合と論理」が教えられていた。では、なぜこの分野の指導が9年間に留まったのかということを解明すべく論文を読み漁った(嘘)。
 そこで見つけたのが「児童・生徒の論理的思考に関する一考察」という論文である。

 この論文は中学校における論理指導の可能性を見出しつつその課題点について述べている。しかし、本論文には「論証指導による成果がみられる程には、顕著な上昇を示していない」ということや当時の学習指導要領で「指導にあたっては特に配慮すべき」ということなど否定的なことも書かれていた。
 そのため、私は中学校のカリキュラムに論理を導入するのは難しいことなのではないかという結論に至り、このnoteを書くことを断念した。

コロナ禍-三種の神器(2020/05/15)

自粛期間を楽しむための3つのツールを紹介するつもりで書いた記事である。
 文章は「①Hulu...」で終わっている。おそらく3つツールが思い浮かばず、断念したのであろう。
 かっこいいタイトルにするために「三種の神器」なる言葉を入れたのが仇になったようだ。

レポート作成入門(2020/05/24)

 これも「いかにして文字数を稼ぐか」と同じく学生に媚びるために書いた記事である。
 内容はレポートについて書かれたサイトや書籍をまとめたものである。いくつか示しておきたいと思う。レポートについて書かれたサイトや書籍をまとめたものである。いくつか示しておきたいと思う。

 公開しなかったのは自分のレポート作成術について述べているわけではなく、単なるリンク集となってしまったためである。一応は「思考記録」としてnoteを書いているので、方針と合わないということで掲載を断念した。

showroomのコメントの流れ方最強(2020/05/30)

 普段、私はYouTubeやニコニコ生放送でリアルタイムの配信を見ることが多い。配信サイトはTwitchやふわっち、Openrecなどたくさんあるわけだが、この記事で私が注目したのは「コメントの流れ方」である。コメントの流れ方一つとっても配信サイトによって異なり、面白い。
 ある日、Showroomを利用してコメントの流れ方に感動を覚えた私はこのシステムについて何が凄いのかということをこの記事で分析しようとした。
 しかし、分析するほどでもなかったので、この記事はボツになった。

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(Showroomの画面には自分のアバターが自分の打ち込んだコメントを喋っているかのように表示される。)

「数学ガール」の良いところ(2020/06/08)

 タイトルから察せられるように数学ガールのレビュー記事である。数学ガールの様々な特色について触れながら、それが学習者に対してどのような影響を及ぼすかということについて述べた。
 特色①として「『ヨコ』から『タテ』の数学へ」ということを挙げている。これは学年横断的に数学を学習することができるということである。

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 なお、特色①以降については記されていない。諦めたのであろう。

「分節化」される恐怖(2020/06/28)

 まず、分節化とは以下のような意味である。

概念と言語の意味に関与し、言語哲学の領域でも用いられる。言語は概念の連続体を象徴化し、意味カテゴリーを作って、単語として記号化する。(脳科学辞典より引用)

 すなわち、言葉によってヒト・モノを分類することである。例えば、肌の黒い人を「黒人」、肌の白い人を「白人」といった具合で呼ぶことである。
高校時代、「陽キャ/陰キャ」という分節化の中で生きてきた私の苦悩を語り、分析するという内容であった。
 しかし、これもまた他のnoteと同じく挫折。

高校における文系理系選び(2020/07/09)

 タイトルだけで終わっており、詳細な内容については記憶していない。おそらくこの辺りの時期に後輩の文理選択の相談に乗ったことからまとまった形で考えをまとめてみよう!ということで書き始めたのがきっかけだと思う。しかし、大して書くこともないので、途中で書くのを断念した。
 ちなみに私は高2の文理選択時には文系に進学することを迷わず決めていたので、私がこういったものを書いたところで大した参考にはならなかったと思う。

オンラインでの「学び」(2020/07/14)

 インターネット上で散々オンライン授業の悪口を言っていた私であったが、オンライン授業を受けていた「当時の学生の記録」としてその感想を文章の形で残しておこうと考えたわけである。
 当時は秋学期までこの形式での授業が続くわけがないと信じていたので、珍しい記録になるのではないかと考えていたが、結果的に秋学期もオンライン授業となったため、記事の公開は断念した。

難しい本って読めなくない?って話(2020/07/18)

 期末レポートの作成に係って『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、プロ倫)を苦労しながら読んだ私がどのようにしたら古典を簡単に読むことができるのかということについて考えたものをまとめた記事である。
プロセスとしては①入門書を読む→②読みやすい訳を探すという単純なものである。私はプロ倫を読む上で①『解読ウェーバー』(入門書)→②『プロ倫』(日経BP訳)というステップを踏んだところ、内容をしっかり理解することができ、レポートも良いものを書くことができた。

『風の谷のナウシカ』で読み解くコロナ禍(2020/07/25)

 風の谷のナウシカの世界では腐海から生み出される胞子(有毒)によって人間世界は脅かされている。人間が腐海に入る際には胞子を吸い込まないようにするためにマスクの着用が必須となる。
 このように現在我々のいるコロナ禍の世界と酷似しているので、『風の谷のナウシカ』を分析装置として「ウイルスのある生活について」考えてみようとしたのである。
 しかし、思いついたのと同時期に同内容の記事が他の人によって公開されていたため、執筆を断念した。

また、ナウシカのあらすじについてはWikipediaを参照されたい。

「背中を押す」こと(2020/07/29)

 これは三浦春馬さんの死を受けて行動の責任についてポエム調で語ったものだ。
 一度公開したが、ポエム調の文章がのちに黒歴史になるのではないかと心配になったため、下書きに戻したのである。え?お前の投稿してる文章は全て黒歴史だって?正解!大卒!
 また、記事の内容も私にしては薄く、302字であるからそこまで良い文章でもなかったと思う。

コロナ禍:「しんどい子」の学力保障(2020/08/21)

 これは教育社会学者の志水宏吉著『学力格差を克服する』から国の学力保障に関する施策について見直すという書評的な立ち位置の記事である。
 志水によれば、近代以降は能力と努力によって人生が切り開かれていく「メリトラクシー」の時代であったが、近年ではメリトラクシーから親の富と願望によって人生が切り開かれていく「ペアレントクラシー」の時代への移行が見られるという。その結果、積極的に「教育を選ぶ」層と消極的に「教育を受ける」層への二極化が見られる。身近な例として中学受験があるだろう。こういった消極的に教育を受ける層に対する公教育による学力保障をしようというのがこの本の趣旨である。
 これは本の内容を振り返るのが少し面倒だったので、書くのを中止した。

『天気の子』はなぜ不評だったか。(2020/10/06)

 私は天気の子という作品が割と好きで、公開当時は映画館に6回見に行った。天気の子は私と同年代の人間からは高評価であったのだが、周りの大人の間では不評であった。
 この違いについて不思議に感じた私はその評価が年齢によって異なっていることに着目し、発達心理学の観点から分析してみようと考えたのである。
 天気の子のあらすじは次の通りである。天気を操ることができる「天気の巫女」となった陽菜はある日を境に起きるようになった天変地異の如き雨を鎮めるために己の身を天に捧げる。一方で、陽菜のことが好きな穂高はそれを阻止する。かなり端折ったがこのような感じの話である。
 公益のために身を捧げた陽菜/私益のために彼女を取り戻した穂高、どちらに共感できるかによってこの作品を楽しめるかが決まってくる。つまり、社会を優先する「大人」にとっては楽しめず、自分を優先する「子ども」にとっては楽しめるというわけである。
 ちなみに、天気の子は各種サイトで視聴することができるので、未視聴の方々はぜひ見て欲しい。

2021年

4DXナメてたけど、割と凄かった話(2021/03/19)

 4DXで感動した話を書いた記事である。4DXとは簡単に言うと画面に合わせて座席が揺れたり、水や風が出たりするとてもリアルな上映方式のことである。
 私の初めての4DXとの出会いは「天気の子」だった。このときは通常料金の2倍以上の価格を払ってまで体験するものではないという風に感じた。これはおそらく天気の子という作品に動きが少ないため、技術が最大限に活かされなかったのだろう。
 その2年後にシンエヴァを4DXで見て感動したという話を綴ろうとしたが、途中で力尽き、放棄した。

京都見聞録(2021/03/25)

 タイトルはマルコ・ポーロの『東方見聞録』をオマージュしたものであり、内容はぼっち京都旅行の思い出を語る記事である。
 意外と一人旅も悪くはないと感じた旅行であったが、特に面白みもないので、京都で撮った写真を何枚か貼っておこうと思う。

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人間は科学よりも呪術を信奉する(2021/04/24)

 世間のコロナウイルス対策を見ていて感じたことを書いたnoteである。人々を見ると感染対策をどうやら「信仰」する節があるようだ。彼らは「手洗いうがい・マスクをしているから外出しても安心」、「ワクチンを打っているから旅行に行っても問題はない」というようにワクチンやマスクを「免罪符」的に捉えているというように感じる。つまり、ある対策を講じたから何をやっても許されると考えているのである。このような考え方では感染拡大が収まることはないだろう。
 上記文章の文字数を見てもらえればわかるようにこれはツイートすれば済むのでは?と思い、書くのをやめた。なお、これに関しては未だにツイートしていない。

「叫べない」子どもたち(2021/06/09)

 土井隆義(2004)『「個性」を煽られる子どもたち』の中で昔の子どもたちと今の子どもたちとでは家と公共の場での振る舞い方が逆転していることを指摘した。
 しかし、本書が指摘したのは2004年の子どもたちの状況で現在とは異なってきている。では、具体的にどう異なっているのか。それはSNSの台頭である。これにより、公共の場がリアルとバーチャルの2つに分断されたのである。このバーチャルな公共の場での振る舞いについて土井の概念を用いながら分析してみるというのがこのnoteの主題であった。
 しかし、本を読むのが面倒になったため、書くのを中断している。しかし、個人的には興味深い話題であると思うので、時間があれば完成させたい。

なぜ学問に優劣があるのか。(2021/08/19)

 比較文明論の名著である梅棹忠夫『文明の生態史観』を読んで感心した部分に関して書き残した記事である。要するに覚え書きである。
 この本はいくつかの筆者の論文・講演会を文章の形でまとめたものだ。その中核を成しているのが「文明の生態史観」という論文でその概要は以下の通りである。

 まず、筆者は東洋/西洋という区切りに代わって「第一地域/第二地域」という区分を持ち出す。筆者によれば、東洋/西洋という区切りは単なる緯度と経度で表される場所的なものではなく、文化を考え入れたところの歴史的な区切りであるという。しかし、これは曖昧な座標を表すのには便利であるが、精密な議論をする際には無用の長物と化す。そこで筆者は前述した第一地域/第二地域を持ち出したのである。この区分は日本や西ヨーロッパなどの高度な文明国とそれ以外によって成る(執筆されたのは1957年であるため、第一地域に含まれる国はもっと多くなるはずである)。
 筆者はこの区分によって世界史を新たな視点から捉える。特に革命以前の体制としての封建制を中心に第一世界と第二世界の違いを読み解く。

 そして、「理系学問>文系学問」という考え方が成立した歴史的背景について推察したのが「生態史観からみた日本」という論文(?)だ。詳しくは本書を買って読んでみて欲しい。結論を言うと、産業化の進行に伴って世の中の中心が文系学問から理系学問に移行したからということ出そうだ。

おわりに

 ここまで約1万字の文章を書いてきたが、おそらくこの全てを読んだという人は私を除いて他にいないだろう。私だけがこの物語の観測者であり、一番楽しんだという自信がある。そう、楽しかったのである。今まで「自分史の振り返り」というのは経験が無く、個人的にはとても有意義な時間を過ごすことができた。また、下書きから自分の思想史を振り返れるとは思ってもみなかった。少し私の考え方・文章の書き方がどのように変化してきたかということについてまとめてから〆たいと思う。

2018年
私が高校2年生であった年である。この頃のnoteには「学校」とか「英検」とか高校生らしいワードが登場している一方で、「シンギュラリティ」といった意識高い系ワードが登場している。この背後には当時、私が怪しい教育系ベンチャーの手伝いをしていたことが影響を与えている。意識高い系ワードを媒介として、学校教育を上から目線で分析する非常に嫌なやつだったわけである。まあ、とりあえずこの時期は「反学校」的な思想に染まっていた。(尾崎豊が好きだった。)

2019年
私が高校3年生であった年である。この頃は前述した怪しいベンチャーの手伝いを辞め、「反学校」的な思想を捨て、ようやく高校に馴染んだころである。考えていたことも学校的なことから離れ、政治や宗教、くだらない考えなど取り止めもなく書き連ねている。また、Twitterからも離れていた時期であったため、高1・2でTwitterにのめり込んでいた自己に対する反省から、これに関する論考も増えている。

2020年
私が大学に入学した年である。新型コロナウイルスが流行り始め、全世界を覆った年だった。そのため、コロナに関するnoteが多くなっている。また、大学の授業がこのパンデミックの中で果たして対面実施されるのかということが不安であったため、情報収集のためにTwitterを再開した。最初は情報収集オンリーのつもりであったのだが、ツイートしていくうちにやはりハマっていってしまった。これがSNSの魔力である。Twitterに再度どハマりしていくのに伴って、「TLウケ」するような記事が増えていった。『いかにして文字数を稼ぐか。』『レポート作成入門』などはその最たる例である。
 一方で、高校の振り返りをするような記事や教育に関する記事など高校から継続して考え続けているテーマについてのnoteも見られる。
 特に、2020/04/01に緊急事態宣言が発令されてから、それが解除されるまでの3ヶ月間は家から一歩も出ずに完全なニート生活をしていたため、2020年7月ごろまでの投稿や下書きが多く見られる。

2021年
私が大学2年生の年である。COVID-19の影響も2020年度よりは弱まり、外に出ることが憚られなくなった年である。ややコロナの影響を受けている記事もあるものの、『京都見聞録』『4DXナメてたけど、割と凄かった話』など久しぶりにアポステリオリ?(経験に基づいた)記事を執筆しようと試みた跡がある。
 一方で、教育に関するテーマについても考え続けているようである。

 以上がまとめである。2018年から2021年のnoteのテーマとして通底しているものは「教育」だろう。教育と反教育の間でゆらいではいるものの、教育について考え続けている。いや、囚われていたのかもしれない。
 最近、私が興味のあるテーマは「団地」とか「哲学」である。2022年も何か思いついたらnoteを書いてみたいと思う。きっと今までとは違うものが書ける。そんな気がする。

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