風の響き3

交換の瞬間

 春は眠い。まぶたが下降し、からだが揺れる。

 やがて、私は自明が薄らぎ、何者でもなくなるのを予感しつつ、ある何かに身を委ねる。

 ある何かは、私をダイニングテーブルのイスから、どこか別の場所へ連れて行くこともなく、今いる場所についての私の意識をも、薄らげてゆく。
 ある何かは自分のからだの内に実はある。自分というものを支えている、もう一つの、名の無い存在。

 外側のものではなく、内側の名の無いものに身を委ねるという事について、何故か不安は起らない。眠っていない時は、何時も激しい不安に満ちたまま、暮らしているというのに。

 ある何かは、内側から真の静寂さをもって、私のからだの皮膚のすべてから溢れ出る。そして、私の皮膚の触覚と、からだが感じる重力は、極限まで引き上げられる。

 その瞬間、自分自身は、ある何かと交換される。戯れながら、皮膚の表面で。その時の体温と揺らぎは、名のある自分が、内なる名の無きものに変わるために生じる発熱によるものだ。

 まぶたの下降と共に皮膚から外に出た、あの名も無きものは、交換を終えた後、再び内に戻ろうとする。今度はゆっくりと。
 元から内にあった名も無きものは、先客の私に奪われた場所と重なり、少しはみ出た部分を夢として残す。意思はなく、ただ、私は交換の果実としての夢を受け取る。

 破壊と創造の中で、夢はいかようにも姿を変え、表現される。私は与えられた夢を獣毛の外套にして、クローゼットにだらりと掛ける。次に外套を着るのは、私という、アイデンティティの束縛を獣毛が噛み砕き、なお存在しうる想像物の賜物を望む時だ。
 春は、冬の夢幻が溶け始め、陽射しがもたらす交歓の眠り。

2021年3月11日改訂 2004年4月28日(毎日新聞夕刊「風の響き」原稿下書き、未発表)

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