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風の響き4

 赤い箱はここに
 
 いつもより早く、朝の八時を過ぎて、わたしは自転車を走らせていた。七年待った蝉が、鳴き始めている。

 いつもの道筋の途中には、急な坂がある。坂に入る手前右側の地面に四角くて、赤いものがあった。目を留めた。
 自転車の上から、見えたものは、黄色い帽子と黒い髪、真白い半袖シャツと骨張っていない腕、紺色のプリーツスカート。それらの上に、亀の甲羅のようにのっかっている、四角くて赤い箱。

 まぎれもなく、小学生の女の子だった。マンションの塀よりの歩道で、足を抱えてうずくまっていた。わたしは迷
った。そして通り過ぎた。次の交差点で止まって振り返れば、彼女はいっこうに動いている気配がない。私は赤い箱を背負って、うずくまっている彼女の処へ戻った。

 自転車を降りて、「どうしたん、しんどいの?」とだけ聞いた。顔をあげた彼女は、立ち上がり、口をきっちりと結んでわたしを見たが、それは、泣いてしばらくたった目元
と表情を強調していた。彼女は一年生か二年生のように見えた。背追われた赤い箱は、まだ新しかったからだ。わたしも、口をきっちり結んで、去った。

 わたしは、7才頃の自分を思い出していた。泣く理由が自分でわかり、声に出さずに泣くことを覚えた頃を。大
人が留守の間に、泣くことを覚えた頃を。そして、一人で歩きながら泣くことを覚えた頃を。泣いた後の顔を上げた
彼女は今、人は苦しむのだということを、数倍も年を重ねたわたしに、瞬時に了解させてくれた。

 赤い箱が赤い荷物に変わっていく。鳴いた後のカナシイ蝉が、幾つも、ころがっている夏の始まりの朝。

2021年3月22日改訂 2004年7月16日(毎日新聞夕刊「風の響き」原稿2004年7月8日執筆)


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