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くるみ割り人形を巡る・その二

 その一の続き

 検索をしていると、「くるみ割り人形」の作曲にあたり、チャイコフスキーが行った音楽の調と色の関係について詳しく書かれた文献があった。

 バレエ音楽では、対立する物語の場面で調を補色関係、すなわち対角線に対立する場面の調を置くことで、物語る技法を作曲家は使っていたという。チャイコフスキーは、それをアドルフ・アダンの「ジゼル」から学び「白鳥の湖」のように対比で紡がれた作品では、顕著に現した。
 
 「くるみ割り人形」は大きな対立項のない物語である。二項対立ではなく、ホフマンによって万華鏡のような構造を与えられた物語を進めるために、チャイコフスキーは独自の調の構造を作っていった。音楽には詳しくないので、これを美術に置き換えて少し想像してみる。
 補色関係はお互いが際立つ二項対立で、融和することはない。しかし「くるみ割り人形」の音楽はある意味色が濁ることなく色相環のどの部分の色も使用されているように、私には聴こえる。
 そこでは、それぞれの色調がこれしかないと思われる長さで音空間に置かれている。それらの色調は各々繰り広げられるが、対立する色調の炎が生まれる前に、混濁した灰褐色の空から白い雪が舞い降りてくるような、予想できない階調を生み出しては消え、重なり合うように思える。

 「花のワルツ」は、バレエ音楽なので、プティパによる細かい踊りの拍子の指示を受けつつ作曲されている。しかしこの曲において、チャイコフスキーが目指していたものは、ホフマンの物語構造を、忠実に音楽で構成しようとしていたように思う。それは、なぜだったのだろうか。

 「寒い冬が終わり、待ち望んだ春の訪れに花が舞い踊る」といった解釈に収まりきらないあの音楽は、どこからきたのだろうか。チャイコフスキーは早くに母親。妹、姪と、親族の大切な女性を失っている。まるでムンクのようだ。チャイコフスキーもまた、親しい女性の死による慟哭を音楽という手段で悼み続けていたのかもしれない。ある時は彼女たちも含めた故郷の風景であったり、気候であったり、それこそ会話や場面の色合いを音に変換していたのかもしれない。

 「花のワルツ」の前触れのない変調の世界でなぜ、分別のない私の慟哭が起こったのか。それは、この作曲家自身がこの世に残した、言葉にできない感情の発露を昇華させた最高の贈り物を、私が受け取ったからかもしれない。作曲家は全ての人に、そこかしこに入り込める入り口を残しておいてくれたのだ。

©️松井智惠               2023年8月3日

* ホフマンの「くるみ割り人形とネズミの王様」は、発表当時は社会的に裕福な層のクリスマスの情景が問題となり、評判はよくなかった。
バレエ「くるみ割り人形」も初演は評判は良くなかった。作曲家の死後、再演され今に至る。

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