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「絵の仲間ー幕間」

 映像と画像に溢れるこの時代になって、私の日常生活の中では、お互いに影響を受けつついくつもの種類の「絵」が現れた。かれこれ八年近く、一日の終わりに何かを紙に描くことが、その日の画像認識をリセットする役割をするようになった。気付かぬうちに。八年の間の変化はあまりにも大きい。

 その期間、ネットの裾野はただ広がっただけではなく、種類は増え、その発信の種類によって、異なる形状と深度が見られる。ネットの世界は可視化されている錯覚に陥らされる。しかし、その全体像は決してみることができない。常に変態し続け、あるものは冬虫夏草のように寄生し養分を吸い付き、あるものは全く穏やかに互いの共生の道を求める。そして殆どは、名のない個人の細やかな表現が無数に漂いながら弱い糸で結ばれている。
そうだ、摂理に忠実な蜘蛛の糸は、ネットの世界には存在しない。

 水脈をたどると、洞窟の中の湖の水は恐ろしいほどに透明で美しく、そこに生息する小さき生き物は目をもたない。暗闇の中でも生きてゆくことができる生き物の存在。そのような自然の世界が今ちゃんと存在しているということ。それは畏怖であり決して現実に相対することのできない世界である。しかし、ネットを検索した画像を通じて、私はその世界に少しだけ足を踏み入れることができる。

 ネットとの共存がチグハグな状態になると、例えたような深い洞窟へ降りてゆくことがある。白昼でも目を見開いたまま、太陽の光を感受できない世界。少し顔を上げて窓の外を見る。地上の季節と時計は確実に進み、夏の空色は懐かしい写真の中に収まってしまった。目の前に繰り広げられる光の変化と私が選ぶ画材の色。それらは、とても密接な関係を持つ。白い美しい紙に手で色を施していく。目が次第に開くようになり、手はネットの時系列が交差する地下水系から、地上に浮かび上がろうと、狭い裏道を探しながら浮上を試みる。

 毎日違う通路を経て浮かび上がると、さて、この世はなんという様相を呈しているのだろう。いくつもの出来事が毎日起こっているのだが、それらは画像の中でパラレルに存在する。数えられない多くの展覧会の情景も、苦しみに満ちた出来事も、穏やかな情景も、災害や争いによる脅威も、私の生活や歴史から切り離され、項目に羅列されている。そして、私はその項目を見るだけで精一杯だ。遠近感はかつてのように客観的に機能しない。
「心情」というなんと厄介なものを含んだ、心理戦があちこちで繰り広げられているときに適切な距離を持つことは、難しい。

 爽やかな風が吹いている今日もまた、階上へ浮き上がるために、手にした鉛筆で線を引く。絵の具を出す前に、紙が待ってくれない時は、呼吸が苦しくなる前に息継ぎをして、次に色を選ぶ。パステルの赤と灰緑を試してみる。呼吸が苦しくなったこの数年、身体に起こった変化がかつてとどう違うのか、あるいは同じなのか、映像作品を作っていた時期の絵を含めて、息を吐く最中や吐ききった後に描いてきた、「絵」を旧いものから、今日のものまで並べることにした。

                    2022年11月20日

©松井智惠


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