見出し画像

眠る前に


 「しばらくしてから、リトル・ムーンは そおっと もうふを ひっぱってみました。 おばあさんはうごきませんでした。 リトル・ムーンは きゅうに こわくなって、もうふを もとにもどしました。
 おばあさんはしんでいたのです。」

 「リトル・ムーン」という絵本のおしまいの方に出てくるこのくだりを、毎晩幾度繰り返し読んでいるのだろう。全部で三千字ほどの話。はじめから読まないと唐突に思われるかもしれないが、とにかくこのくだりでわたしは止まってしまった。なにが?なぜ?
 足下には毛布がくしやっとなっている。暗くて寒いコンクリートの壁に囲まれた寝室で、わたしは毛布を頭の上まで引っぱり上げた。暖かくてそのなかではスッタリハイタリする息も多少は柔らかいように思った。今年買った毛布は動物のにおいがまだ少し残っている。もぐり込んできた猫のにおいが混ざっても毛布のにおいははっきりとしている。そのにおいを消そうとしたいのか、猫はしきりに毛布のなかであちらこちらに居場所をかえている。

 頭のなかはあいかわらずさっきのまま、何かが止まっている。リトル・ムーンは毛布をめくって、短いときをいっしょに過ごした見知らぬおばあさんにしがみついて「どうして死んだの、おばあさん」って泣き崩れることもできたんじゃないか?あどけない子供らしく。しかし幼い彼はそれをしなかった。できなかった。

 きっと、急にこわくなったんだ。おばあさんをそっとしておいてあげようとか、そんなことちっとも思っていなかったに違いない。怖くて「もうふをもとにもどす」ことでせいいっぱいだったんだ。
 そのことをわたしは忘れていた。「怖かった」ということを。覚えていたつもりでいたのに。

 覚えていた場所は「記憶」という名のつくところ。欲望と憧憬、後悔と諦めに彩られた記憶の秘密の花園への入り口のベール、そんなロマンチックなベールにみたてていたものを剥がされたのだ。あまりにもすばやくて剥がされたことさえ気づかないくらいの率直さで。ベールを境に過去と現在は輪郭を失い、部分部分で重なりあい、打消しあい、情動の風にひとたび吹かれれば、ベールは過去と現在を互いにあらわにし、交錯する。
 限りなくちかく、限りなくとおい記憶はたとえベールごしでもいいから触れたいという強烈な欲求をわたしにもたらしていた。息苦しい多量のはかない草花に埋もれながら。

 この妖艶なベールは彼には必要がなかった。死は死でしかないのだ。そして怖い。だからわたしは止まった。死にはベールではなく、毛布が必要なのだ。風通しのない暖かな毛布が。長い時をしっかりと包んでくれるものとして。リトル・ムーンは二度と毛布の場所へはもどらないだろう。怖さを知った彼は気づかぬまま自分の生をちゃんと使い始めるだろう。「春がきたらたびにでよう」おばあさんの死とともに彼は冬の終わりを知る。

 「死」をあまりにも単純化することは危険だと思われるかもしれない。ただ、わたしには「死」そのものを扱うことはできないのだという思いを覚えただけなのだ。芸術は「生」の側からその尊厳を伝えることはできたとしても。

 おばあさんは土のうえに毛布とともにいまも横たわっている。

 きのう家の庭土に子イタチが横たわったいた。そのまえにはフローリングの床の上でキジ猫が横たわっていた。そのまえにはベッドの上で家族と友人たちが横たわっていた。そのまえには見知らぬ人が路に横たわっていた。わたしは「記憶」のベールを一度めくり、毛布をみんなにかぶせなおした。
 もぐり込んできた猫はようやく落ち着き場所をみつけたようだ。勝手に寝息をたてている。わたしは少し頭を毛布からだして息をした。毛布についている動物のにおいがまだ鼻の奥に残っている。コンクリートのかびのにおいとあいまって、複雑だ。もう一度おおきく息をした。それから明日のダンスが待ち遠しくて再び毛布の中にもぐりこんだ。止まっていたものはゆっくりともとのはやさに戻っていった。夢の中でわたしは南の島の土の上にいた。

※リトル・ムーン(ヴィンフリード・ヴォルフ文、ナタリー・ドロシー絵、 永野ゆうこ訳 ほるぷ出版)より一部引用させていただきました。

2021年4月3日改訂 国立国際美術館月報119/2002年8月号 初出


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?