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”家の宗教”を友達にカミングアウトしたら「殺さないで」と言われた”宗教2世”が、この社会で生き延びるために出した結論

■「カミングアウト」をめぐる困難

本稿では、「宗教2世」の当事者がしばしば直面する「家の宗教についてのカミングアウト」(*1)をめぐる困難について、創価学会の現役信者である筆者の実体験などをもとに論じていきたい(*2)。また、そうした困難を生み出す原因のひとつとして「"宗教はバカにしていい"あるいは"イジってもいい"という社会の風潮」の問題を取り上げていく。

筆者が想定している「家の宗教についてのカミングアウト」の具体的な事例としては、学生の頃に友達が自宅に遊びに来たとき、部屋に飾ってあった教祖や指導者の写真を友達に見られてしまい、「なんかおじいちゃんの写真が大事そうに飾ってあるけど、なんなの?」などと聞かれたときにごまかしきれず、「実は、、、」と家の宗教について告白するケースなどだ。

あるいは、自宅の壁に公明党のポスターが貼ってあることを友達に指摘され、「もしかしてお前んちって創価じゃね?」といったストレートな指摘を受ければカミングアウトをせざるを得ないこともあるだろう。

ほかにも、特定の宗教や宗教全般に対して批判的な友達が、猛烈な勢いで当事者の「家の宗教」を批判した際に居心地の悪さを感じ、「実は、、、」と切り出すことも考えられる。

結婚を前提として交際している非信者のパートナーに対して今後の関係性を考えてカミングアウトすることや、結婚する際に相手の両親にカミングアウトするケースなど、さまざまなケースが考えられる。

こうした場面に直面した際に、「宗教2世」は「家の宗教についてのカミングアウト」を自発的に、あるいはなかば追い込まれる形で行うことがしばしばある。

では、実際にカミングアウトした場合には相手からどのような反応があるのだろうか。あるいは、相手の反応を受けて当事者はどのように振る舞うようになるのだろうか。

カミングアウトをすんなりと受け入れてもらえる場合もあれば、そのことで友達関係に亀裂が入ることもあるのだろう。相手からの反応が穏当なものであれば当事者もダメージを受けずに済むが、ネガティブな反応が返ってくれば両者の関係になにかしらの影響を受けるはずだ。

そこで、本稿では筆者が経験したカミングアウトの事例をいくつか紹介し、カミングアウトに至るまでの経緯と筆者が習得していった「効果的な語り方」や、カミングアウトをした相手からの反応、そしてカミングアウト経験を積み重ねていった筆者の態度がどのように変容していったのかについて紹介していく。

それではまず、筆者が自覚的に「家の宗教についてのカミングアウト」をした事例から振り返っていく。

■「親はやってるけど、自分は関係ない」

筆者が「家の宗教についてのカミングアウト」を最初にしたのは中学生の頃だ。その頃は、同じクラスの男子と仲良し3人組のような感じでよく遊んでいて、学校が終わったあとも友達の家で夜遅くまでゲームをしたりくだらない話をして過ごしていた。

どんな話の流れでカミングアウトしたのかは明確には覚えていないが、なんとなく「政治と宗教」の話題になったときだったことは覚えている。おそらく「公明党と創価学会の関係性はおかしい」といった話を友達がしていたことがきっかけだったはずだ。

当時、筆者はどちらかというと家の宗教に対して批判的な立場だったのだが、両親のことは尊敬していたし好きだったので、親のことを悪く言われているような気がして居心地が悪くなってきた。そして、「実は、、、」と家の宗教のことを切り出したと記憶している。

カミングアウトする瞬間は「ヤバいやつだと思われたらどうしよう」と思ったのだが、すでに親友のような関係になっていた友達たちにはどこかで家の宗教について話しておかなければいけないと考えていたので、ちょうどいい機会だったのだと思う。

友達たちは突然のカミングアウトに驚いていたが、矢継ぎ早に「でも、親がやってるってだけで自分は関係ないから。たまたま、そういう家に生まれただけだから。信仰もないし公明党のことも別に好きじゃないから」という趣旨のフォローをしたことで少し安心した様子だった。

なぜこのときにこうした趣旨のフォローができたのかよく分からないが、咄嗟にこういう話をしたほうがいいと判断したのだろう。おそらく、「宗教を信じている人たちとは一緒にしないでほしい」という気持ちがあったのだと思う。

そして、そのあとのことはよく覚えているのだが、「自分が知っている限りのことは話せるから、気になっていることがあったら質問してほしい。聞かれて傷つくことはないからタブーなしでなんでも聞いてくれ」という話をして、そこから突発的に質問会が始まった。

池田大作氏のこと、信仰生活の特徴、お金関係のこと、お葬式のこと、他宗教に対する攻撃的な態度のこと、鳥居をくぐれないのは本当か、などなど、かなりの数の質問に答えた。質問に対してひと通り答えたあと、友達たちは「なるほどね、なんとなくわかった。話を聞いてみないと分からないこともあるね」といった趣旨の話をしてくれた。

この友達とは、その後も家の宗教について話す機会があった。というか、カミングアウトを経て家の宗教についての話題は特殊なものではなく、数ある話題のうちのひとつになっていったのだ。

教義や習慣などについて理解してもらえないこともあったが、友達側から積極的に質問をしてくれたこともあったし、基本的には興味深そうに話を聞いてくれていた。筆者はこのことが心の底から嬉しかった。

カミングアウトすると決めたときは「ヤバいやつだと思われたらどうしよう」という不安もあったが、自分の立場を丁寧に説明し、友達が気になっていることに対して答えられる限りのことを答えることで友達関係を維持できたと思ったのだ。

実際には筆者が必死で説明したことと、友達たちとその後の人間関係を維持できたことに、どの程度の因果関係があったのかはいまとなっては分からない。ただ、このことは筆者にとって大きな成功体験となった。きちんと話せば「宗教の家に生まれた自分」のことをわかってくれることがある、と感じたのだ。

このときに筆者のカミングアウトを受け止めてくれた友達にはいまでも心から感謝している。大袈裟に聞こえるかもしれないが、筆者を「一人の人間」として見てくれた彼らの対応がなければいまの筆者はいなかった。そして、この成功体験と指針は、その後の人生に大きな影響を及ぼすことになる。

■「カミングアウト無双」状態だった高校時代

その後、筆者は高校に進学し、それなりに学校生活を楽しんでいた。当時はかなり真剣に部活に取り組んでいたため、"濃いコミュニケーション"を取る相手に対してはわりと積極的に「家の宗教についてのカミングアウト」をしていた。

中学の頃に成功体験を積めたこともあって、カミングアウトする際の語り方も小慣れてきていたし、「どうすればヤバいやつだと思われないか」ということについてのコツのようなものが少しずつわかってきたのだと思う。それはひと言で言えば「自分は家の宗教に対して批判的だけど、両親が狂っているとも思わない」という語り方だった。

高校の頃も両親との関係は良好だったため、親のことを悪く言いたくないという気持ちが強かったし、その一方で「自分は家の宗教に取り込まれているわけじゃない」ということも伝えたかったので、この語り方はまさに一石二鳥だった。

また、部活のメンバーを自宅に招いて遊ぶことも多かったため、「たしかにこの両親はヤバそうには見えないな」と思ってもらえていたのかもしれない。

筆者はこの語り方を手に入れたことで、言ってしまえば"カミングアウト無双"のフェーズに入りつつあった。初めてカミングアウトしたときに感じていた「ヤバいやつだと思われたらどうしよう」という不安は微塵も感じなくなり、どちらかと言えば調子に乗っていたのだと思う。なんというか、自由を手に入れたような気分だったのだ。

■友達から「殺さないで」と言われた思い出

ところが、である。たしか、高校3年生の夏だったと思う。

その日は3年生になってから急速に仲良くなった友達と、自転車で"2ケツ"しながら移動していた。その友達は部活のメンバーではなかったが、同じクラスになったことと、共通の友達がいた縁もあってクラス替えの直後からよく遊ぶようになっていった。

裏表のない良いやつで笑いのセンスも高く、のちにアニメ化もされたあらゐけいいちの『日常』というギャグ漫画も彼から教えてもらったものだった。チャリで"2ケツ"していたのも、少し駅から遠いところにある友達の家で遊んでいたため、駅まで送ってくれたからだったはずだ。

友達が運転し、筆者が荷台に乗って揺られているとき、建設中のそれなりに大きな建物の前を通った。すでに夜遅い時間だったので街灯に照らされてシルエットがおぼろげにわかる程度だったが、明らかに一軒家でもなかったしマンションのようにも見えなかった。

ふと友達に「家っぽくないけどなんなんだろうねこれ」と聞くと「あー、これはね、創価学会の施設らしいよ。なかでどんなことやってるか分からないし、本当にキモいよね。この建物も、信者から巻き上げたお金で建てたんじゃない?」とスラスラっと話してくれた。この世には創価学会の信仰を持っている人なんてひとりもいないかのように、スラスラっと話していた。

急に体温がぐーーーんと下がる気がした。いやいや、その宗教の家庭に生まれた人間と2ケツしてるんですよ、と。

思えば、筆者が"カミングアウト無双"をしていたのも、仲の良い友達からこうした先制パンチを食らわないための防衛手段だったのかもしれない。ただ、このときはノーガードでクリティカルな一発を食らってしまったのだ。

このことで、筆者のカミングアウトに関する経験値は一気に初期値まで戻ってしまった。「実は、、、」と切り出すのが本当に怖かった。カミングアウトしたことで友達から嫌われてしまうのも怖かったし、その一方で、友達が筆者を傷つけるようなことを言っていたという事実を伝えることになるのもすごく苦しいことだった。

「私は傷つきました」という趣旨の話をするということは、結果的に「あなたに傷つけられました」という意味を持ってしまう。仲良くなったばかりの友達に対して、大袈裟にいえば加害行為を問いただすようなことをしなければいけなかったのもつらいことだった。

ほんの一瞬の出来事だったが、意を決して「実は、、、」と切り出した。すると、自転車を運転してきた友達は急ブレーキをかけた。突然のことに筆者は体勢崩して転びそうになったがなんとか持ち堪える。

「こっ、殺さないでください…!」

カミングアウト後に友達が発した最初のひと言がこれだった。

このひと言がどれだけ本気だったかは正直わからない。普段からふざけている友達でもあったので、もしかしたら深刻なやり取りを上手く"いなす"ためにちょけた感じで受け身を取ってくれたのかもしれない。急ブレーキもそのための大袈裟な演出だったのかもしれない。

それでも、このひと言の力はとても強靭なものだった。

友達が創価学会に対するネガティブな印象を語ったあとではあったが、「家の宗教についてのカミングアウト」をしただけなのに「殺される」と思われてしまったのだ。

言い換えれば、創価学会の家庭に生まれたということを伝えただけで、筆者は友達から潜在的な暴力性を読み取られてしまったのである。あるいは、勇気を出してカミングアウトしたのに、加害者になりうる存在として認識されてしまった、ということでもある。なんだか、カミングアウトした自分が悪いのではないかという気持ちになった。

■「親と宗教はキモくて、自分はマトモ」という新たな語り方

筆者がいままで多用してきた語すり方ではこの場を乗り切れないと思った。

そして、必死に考えた末に出した返答は「俺はまったく信仰心とかないから安心して! むしろ俺もキモいと思ってるぐらいだから。宗教ってヤバいよね」というものだった。

この語り方はいままでしたことのないものだったのでなんだか変な気分になったが、友達は「そうなんだ! それならよかった! いやーめっちゃビビったわ。全然知らなかったし」と言い、自転車をふたたび漕ぎはじめた。

そこからどんな話をしたかはあまり覚えていない。駅の近くに着き、送ってくれたことへの感謝を伝えて友達と別れたはずだ。

このことによって、筆者は「家の宗教についてのカミングアウト」における別の語り方を手に入れた。それは、「親はやっているけど、自分は関係ない」という、いままでのものから一歩踏み込んで「親がやっていることはキモいと思っているし、宗教そのものがヤバい」というものだった。

こうすることで、「宗教はキモい」と思っている相手と同じ立場から話すことができるし、それまでの語り方からさらに踏み込んで自分と家の宗教を切り離すことができる。ただ、そのことによって結果的に仲の良い両親もひとまとめに「キモい側」として扱うことになってしまった。

なんとかその場をやりすごすことはできたが、いま振り返るとこの語り口を手に入れたことで筆者の立場はそれまでのものとは決定的に異なるものになったように思える。

それは、「親は親、自分は自分」というものから「親と宗教はキモくて、自分はマトモ」という立場への変化だと表現してもいいかもしれない。

微妙なニュアンスの違いかもしれないが、この二つの性質は大きく異なっている。それは、親を親として見るのではなく、「教団側の人間」としてひとまとめにして位置付けることになるからだ。自分のことを「教団側の人間」として見なされないために、親と自分を切り離して「親=教団側/自分=一般社会の側」という図式を打ち出せるこの語り方はおそらく効果的だった。

その一方で、中学の頃に成功したカミングアウトの体験や、それ以降の"カミングアウト無双"を行っていたときの感触とは明らかに異なる感覚があった。おそらく、言いたくないことまで言ってしまっていたのだろう。ひと言で言えば、筆者は自分を社会の側に位置付けるために、親をヤバいやつに仕立て上げてしまったのだ。

結局、その友達とは気まずくもならなかったし卒業するまで仲の良い関係だったと思う。相手がどう思っていたかは分からないが、向こうから遊びに誘ってくれることも普通にあったので、決定的に関係がこじれたわけではなかったはずだ。

ただ、その友達とはそれから一度も家の宗教についての話はしなかった。

■カミングアウトをしても、「家の宗教への態度」で受け入れられ方が変わる

その後、筆者は成人し、東日本大震災をきっかけにTwitterを使うようになった。リアルの友達とはほとんど繋がっていなかったこともあり、プロフィールには創価学会の家庭で育ったことを明記して宗教アカウントとして発信をしていた。

筆者はこの頃、ほかの宗教の実践をしたり、創価学会の幹部を紹介してもらって議論を重ねたりするなかで、「批判するならまずやってみよう」という動機もあって創価学会の活動にも徐々に参加するようになっていた。ただ、教義や公明党の政策、あるいはその宗教的な意義づけに対しては違和感があり、現役ではあるけどアンチっぽさも色濃く持っているようなよくわからない立場にあった。

そんな立場でさまざまな人たちと交流し、ときにはオフ会などを開いて実際に人に会い、宗教系のイベントに参加してほかの教団の2世たちと交流していった。すでにTwitter上で家の宗教のことをカミングアウトしていたため、自分の立場をそれなりに理解してくれている人たちと会うのはとても楽だったし楽しかった。

カミングアウトをして傷つくこともないし、当事者とは"宗教2世あるある"のような宗教家庭の出身者でしかできないような話で盛り上がれたのもとてもよかった。  

ただ、カミングアウトがすでに済んでいたとしても、教団や親に対する向き合い方によって聞き手の態度が異なることもよくわかってきた。それは、「親は親、自分は自分」というものよりも、「親と宗教はキモくて、自分はマトモ」という語り方のほうが"ウケがいい"ということだ。

「親は親、自分は自分」という態度は、教団や親の信仰に対して価値中立的な態度だと言い換えられる。一方で、さきほども述べたように「親と宗教はキモくて、自分はマトモ」という態度は、教団や親に対してネガティブな価値判断をしており、自分はそれらからまったく影響を受けていないことを表明する効果を持っている。

自分は宗教の側の人間ではなく、一般社会の側の人間であることをアピールする態度とも言えるだろう。

■「擁護=信者/批判=無信仰 or アンチ」という図式

この態度の違いを具体的な事例に当てはめてみよう。たとえば、昨年の11月に亡くなった池田大作氏に対する態度を例にあげてみると、前者であれば「親は池田氏のことを尊敬していると思うけど、自分は別に尊敬していない」といったものになるだろう。

一方で、後者であれば「池田氏の振る舞いには嫌悪感を覚えるし、そんな人を尊敬している親に対しても違和感がある」というものになる。後者の語り方をすると、「やっぱり、そうだよね。そこに違和感を抱けるってことは本当に信仰がないってことなんだろうね」といった反応をされることが多い。

一方、前者の語り方についても同様の反応が返ってくることもあるのだが、価値中立的な態度であるため、教団や親に対して批判をしないということ自体が"擁護的"だと見なされることもしばしばある。

すると、そうした振る舞いに対して「擁護をするということは本当は批判的な気持ちなんてないんじゃないか」のようなことを言われることがかなりある。実際には擁護をしていないにもかからず、である。

先ほどの池田氏の例に当てはめれば、「池田氏のことを擁護しているということは、嫌悪感を感じるとは言っているけど心の底では尊敬しているんじゃないか」と言われるようなものだ。

繰り返しになるが、発言内容を字義どおりに読めば明示的に擁護しているとは言えないような場合でも、「批判しない=擁護」だと理解されてしまうことは少なくない。この場合も「池田氏のことを擁護しているということは」という前提が、当事者と聞き手の間でズレている可能性がある。

これは対面でのコミュニケーションでも起きることがあるのだが、圧倒的に多いのがTwitter上でのコミュニケーションだ。筆者は最近もこのような「擁護=信者/批判=無信仰 or アンチ」という構図によって「統一教会の現役信者」だと認定されたこともあった。

筆者の感覚ではこうした前提を持っている人はそれなりにたくさんいるし、学歴や社会的地位の高ければこうした発言をしないわけでもない。

発言と立場を0/1で対応させるような発想の人は、意外と少なくないのだ。

■アンチにならなければ、マトモな人間として扱ってもらえない

さて、「親と宗教はキモくて、自分はマトモ」という語り方は、「無信仰者であることの証明」として、あるいは「マインドコントロールされていない宗教家庭の当事者であることの証明」として機能していると考えられる。

価値中立的な、ある意味では中途半端な態度は取らずに、きっぱりと教団や親に対してネガティブな態度を表明することで、「私は信者ではありません」という看板を掲げることができ、そのことによって「だったら本当に信仰心が無いんだね/マインドコントロールされていないんだね」と受け入れてもらえるという状況があると筆者は考えている。

別の表現をすれば、親や教団に対するネガティブな態度の表明は、日本社会の一部において踏み絵やパスポートのような機能を果たしているということだ。

「親は親、自分は自分」という態度では「自分には信仰心がない」という証言の信憑性を高めることができず、「親はキモくて、自分はマトモ」という態度を取らなければ証言の信憑性や人格の自律性を認めてもらえないという状況には極めて問題がある。家の宗教のアンチにならなければ、マトモな人間として受け入れてもらえないのだ。

筆者は当時もいまも家族との関係が良好であり、人としても親としても両親のことを尊敬している。また、人生のなかで本当に苦しんでいた時期に地元の創価学会の人たちにお世話になり、そのことでなんとか社会復帰できた経験もあるため、地元の組織に対しては強い感謝の気持ちがある。親も地元組織の人達も、本当にすごい人達だと思っている。

そんな両親や地元組織の人達のことを「キモい」と否定しなければ、人格の自律性を認めてもらえないという状況があるということだ。

■この社会で生き延びるために出した結論

筆者もこうした状況に適応し、一時期まではリアルでもTwitterでも過度に教団をバカにするような発言を繰り返していた。

池田氏に変なあだ名をつけたり、選挙戦の終盤に公明新聞に掲載される候補者の絶叫写真をおもしろおかしくTwitterに共有したり、婦人部(当時)特有のスピーチの仕方をモノマネしたりしていた。いま考えたらあそこまでやらなくてもよかったと思うし、反省しているのだが、20代そこそこの筆者は”教団イジリ”をすることでなんとか自分のポジションを確保しようとしていたのだと思う。

教団を批判していれば、イジっていれば、たとえ現役信者だったとしても「ほかの信者よりはマシ」だと思ってもらえる。また、仮に信仰がなかったとしたら「自分の力でマインドコントロールを解いた人」だと褒めてもらえることすらある。

非信仰者がマジョリティであるこの社会において、「宗教2世」あるいは「信仰者」として多くの人々に受け入れてもらうためには、教団や親に対してネガティブな態度を取らなければいけないのだ。筆者はこの社会で生き延びるために、こうした振る舞いを身につけていった。というか、身につけざるを得なかった。

カミングアウトや家の宗教に対する態度を工夫することで、宗教2世としてなんとか世間に受け入れてもらおうとしてきた当時の筆者が出した結論は「アンチになれば世間に受け入れてもらえる」というものだった。

親と教団を否定すれば、社会は喜んで自分のことを受け入れてくれる。この状況は、現役信者であっても、脱会した当事者であっても変わらない。

ただ、ここで指摘しておかなければならないのは、すべての当事者が筆者と同じようにアンチとして振る舞うことで社会からの扱いをやり過ごしているわけではないということだ。

宗教的な背景からの家庭内、あるいは教団からの虐待を受けて両者のことを憎んでいる当事者も数多くいる。筆者もそうした被害意識のある宗教家庭の出身者と接してきた。アンチ的に振る舞っている当事者が、必ずしも意識的にも無意識的にも社会に受け入れてもらうために戦略的に振る舞っているわけではないということは、ここできちんと強調しておきたい。

ただ、社会から受け入れてもらうためにアンチ的に振る舞わざるを得なかった当事者が、筆者以外にもいることもまた事実である。

■宗教団体が起こしてきた事件や不祥事と、世間の受け止め

なぜ社会はこのような状況になってしまったのか。なぜ、宗教家庭の当事者がアンチ的に振る舞わなければ受け入れてもらえないような社会になってしまったのか。

まず、そもそもの大きな原因として、教団側が起こしてきた問題の影響が考えられる。創価学会も1950年代には折伏大行進と呼ばれる勧誘キャンペーンを行い、強引な勧誘を繰り返してきている。筆者の祖母はまさにその時代に入信しているのだが、当時の話を聞くと「東京に出てきて気づいたときには訳もわからず入会していた」と語っていた。

朝まで自宅で勧誘され続け、入会すると言うまで帰らないと語る勧誘者を追い返すために、一度は入会するといってそれ以降は連絡を取らなかった被勧誘者もいたという。筆者はそうした事例を勧誘した側からもされた側からも聞いている。

また、これは必ずしも問題とは言えないが、前回のnoteでも扱ったような公明党に対する猛烈な支援活動なども有名で、選挙のたびにかかってくる創価学会員からの電話やLINEでの連絡にうんざりしている人も少なくないだろう。

ほかにも、1990年代に週刊誌などで盛んに行われていた創価学会バッシングは、教団に対する印象を悪化させた要因の一つとなっていると考えられる。そうした報道のなかには、東村山市議の転落死事件や池田大作レイプ事件など、事実無根の主張も含まれてはいたが(*3)、教団側が影響力のある週刊誌による報道の力を掻き消すほどの反論や広報活動をやれていたとは思えない。

他教団でいえば、山上徹也被告が安倍晋三元首相を射殺して以降、もっとも話題になった教団である旧統一教会も、霊感商法や合同結婚式などで世間の注目を集め、信者や関連会社が民事裁判で敗訴するなどしている。

■決定的だったオウム事件

そして、おそらく日本人の宗教に対するイメージをもっとも悪化させたのがオウム真理教だろう。

もともとは、教祖である麻原彰晃や教団幹部がバラエティ番組などに出演するなど、キワモノとして世間から消費されていた団体だったが、地下鉄サリン事件が発生してから松本サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件などに関わっていたことが発覚し、多くの逮捕者を出した。2018年には教祖と教団幹部を合わせた13名の死刑が執行されている。

世界的にも類を見ない宗教団体による化学兵器を用いた無差別テロは、日本社会における宗教のイメージを決定的に悪化させたと言っても過言ではない。

いくつか代表的な事例を紹介したが、ほかにも幹部が詐欺罪で逮捕された法の華三法行や、宗教的、あるいはスピリチュアルな世界観を背景とした自己啓発セミナー会社のライフスペースが起こした殺人事件など、宗教団体や宗教的な世界観を背景にした団体による事件や不祥事は数多く起きている。こうした出来事によって、多くの人々が宗教に対してネガティブな印象を持つのは当然のことだろう。  

このような宗教にまつわる問題に触れてきた人々が、自分や大切な人を守るために、宗教団体やその信者との接点を持たせないようにしたいと考えることには一定の妥当性がある。

筆者が高校時代にカミングアウトした友達のひと言目が「殺さないで」だったのも、実際に殺人を犯した宗教団体がいたことを考えれば、極端な発言ではあったとしてもまるで根拠のない発言ではないとも言える。

宗教団体や宗教を信じている人たちが日本社会で敬遠されたり嫌われたりすることには、上記のような事件や不祥事が関わっていることは間違いない。そうした状況のなかで、カミングアウトしてきた宗教関係者に対して、明確に宗教団体側の人間ではないことの証明を求める雰囲気が形成されてきたのではないかと筆者は考えている。

その結果として、価値中立的で曖昧な態度では信用せず、家の宗教や親の信仰まで否定するような態度を取らなければ社会の側の人間として認めないという風潮ができあがっていったのではないか。

■宗教へのネガティブな印象を背負わされる「宗教2世」たち

宗教団体や宗教的な世界観を背景にした団体による不祥事や事件によって、社会における宗教のイメージが悪くなったという話は単純に考えれば自業自得のような気がする。世間から嫌われるようなことをした宗教団体が、世間から嫌われているというだけの話のようにも思える。

だが、もちろんこれは「宗教団体」としてひとくくりにした場合の話であって、実際には不祥事や事件を起こした教団もいれば慎ましく活動している教団もいるので、ひとくくりに評価することはできない。とはいえ、「宗教」というだけでなにか危険なものであるかのような印象が広まっていることは事実としてあり、そのことが「宗教2世」の生きづらさをより深刻なものにしていると考えられる。

そもそも、筆者を含めた宗教家庭の出身者たち、とくに現在は脱会している当事者はこれらの事件や不祥事の責任を取ることはできない。

折伏大行進については親世代が生まれる前のことであり、霊感商法や無差別テロなどは他教団の話だ。公明党に対する支援活動についても高校生の頃はまったく無縁だった。自分とはまったく関係のない家の宗教の不祥事あるいは問題や、他教団の不祥事によって蓄積していった世間の宗教に対するネガティブなイメージを、「宗教2世」が背負わされているのはあまりにも理不尽なことではないだろうか。

その一方で、筆者も含めた現役信者はこれらの事件や不祥事の責任を取れないわけではない。過去に教団がやってきたことを誠実に受け止めて反省し、同じような問題をおこさないための努力をする責任主体であるといえる。

創価学会であれば強引な勧誘行為を深く反省するべきだし、統一教会であれば霊感商法と呼ばれている宗教的な価値観を背景とした脅迫的な物品販売について深く反省するべきだろう。過去の歴史を受け止めたうえで、教団をより良いものにしていくための努力をするべきだと考えられる。

ただ、そのうえで、過去の不祥事と現在の現役信者の性質を同一視し、「あんなことをやっていたんだから、お前たちもヤバいに違いない」といった態度をマジョリティである非信仰者に取られることに歯がゆさを感じることもある。また、実質的には他教団のネガティブなイメージまで背負わされている場合もあるため、それらの責任を負うことはできない。

宗教を信じる親のもとに生まれてきただけなのに、さまざまな教団や団体の問題やそれにまつわる事実誤認も含めた報道のイメージをすべて背負わなければいけないというのが、「宗教2世」、あるいは宗教家庭の当事者の生きづらさのひとつだと筆者は考えている。

繰り返しになるが、これはあまりにも理不尽なことではないか。

■他人の価値観を踏みにじる「宗教イジりコンテンツ」

そして、宗教に対してネガティブな印象を持っている人が多いこともあってか、日本社会には「宗教とその信者を馬鹿にして良い、あるいはイジってもいい」という雰囲気が存在していると筆者は考えている。

ネットで、有名人やインフルエンサーなどの熱狂的なファンのことを「信者」と表現するのはもはや当たり前になってきているし、この表現は決してポジティブなものではない。

一連のジャニーズ報道の際にも、SNSでジャニーズに対して擁護的な発言をしたアカウントに対して「ジャニーズ信者キモい」のようなコメントがついていたのをよく目にした。おそらくこの言葉は、「夢中になって周りのことが見えなくなっている熱狂的なファン」というような意味で使われているのではないか。

もっと具体的な例を出せば、各教団の教祖や信仰を持っている有名人の写真や動画を加工してコンテンツを作ったり、宗教勧誘を"撃退"するやり取りをネタ的に動画化してYouTubeなどで公開したり、宗教団体の施設に潜入してライブ配信を行う人もいたりする。

本来であれば、他人の価値観を踏みにじるようなこうした「宗教イジりコンテンツ」は批判されるべきものだと考えられるが、実際には咎められるどころか熱狂的に支持される場合もあり、その影響力は非常に強いと筆者は感じている。

本稿ではそのなかでも、「エア本さん」と呼ばれている一連の動画について詳しく取り上げたい。

■「エア本さん動画」というヒットシリーズ

「エア本さん」とは「エア久本さん」の略で、シナノ企画という創価学会系の制作会社が作成した信仰体験についての映像作品に出演した女優の久本雅美さんの映像と音声を素材とし、それらを加工してゲームのプレイ画面などと組み合わせて作られた一連の動画を指す。

これらの動画は主にニコニコ動画に投稿されており、最初のエア本さん動画は2007年11月30日に投稿されている。経緯をまとめたサイトによると、この動画は1カ月以内に権利者の申請により削除されたという。(*4)

エア本さん動画の詳しい説明に入る前に、これらの動画の素材となった元の動画である『すばらしきわが人生 part2』の久本雅美さんに関する内容について、軽く紹介したい。

この動画で久本さんは芸能界を目指したきっかけや、お笑いに対する自信と挫折、入信するまでの経緯、信仰を始めてから「愚痴がなくなった」ということへの喜び、「テレビのレギュラー番組を一本だけください」という祈りとその成就、池田大作氏に会ったときに「面白かったね」と言ってもらえたことの感動や、そのことよって「この信仰を続けてきてよかった」と深く思えたことなどを語っている。

創価学会には「体験発表」という自身の信仰について語るスピーチのスタイルがあるのだが、久本さんのこの動画はそのスタイルを踏襲したものになっている。夢を語り、挫折を語り、信仰との出会いを語り、自身の変化を語り、信仰への感謝を語る。創価学会においてはありふれた自分史の語り方だといえる。

この「体験発表」は創価学会員にとっては非常に重要なものであり、自身の信仰生活をまとめなおすことで信仰の価値を再確認する効果を持っている。久本さんにとっても、この動画で語っていたことは自分の人生とは切っても切り離せない重要なエピソードだったと筆者は捉えている。

では、この動画をエア本さんシリーズではどのように素材化し、どうイジっているのだろうか。

■「頭がパーン」で笑うことの加害性

一連のエア本さん動画のなかで、おそらくもっとも有名なのがSFCの人気ソフトとして有名な『星のカービィ スーパーデラックス』のミニゲームである「激突!グルメレース」のプレイ画面とBGMにあわせて、久本さんの映像と音声を当てはめたものだろう。本稿にはリンクを張らないが、調べればすぐに見れるはずだ。

この動画では、久本さんが語っていることをセリフごとに分割し、「走らせていただきます」「嬉しくて感動で」「頭がパーン」「開口一番に仰っていただいたんです」「人間革命」「なんていうか暖かいっていうか」「先生から面白かったねって言うのが聞こえた瞬間」「もう本当にびっくりした」といったセリフをBGMに”音ハメ”することである種の気持ちよさが生み出されている。

また、ニコニコ動画にはコメント機能があるため、職人たちがセリフにあわせてタイミングよくコメントを配置することで視覚的な快楽もある。

正直に言うと、筆者は本稿を執筆するために初めてこのエア本さん動画を最初から最後まで視聴した。これまでの人生で、エア本さん動画をまともに見たのは20秒くらいだった思う。信仰体験や久本さんの存在は筆者にとって身近すぎるものだったため、見ることができなかったのだ。

そして、今回初めて最後まで見てみたのだが、率直に言って気分が悪くなった。

久本さんの人生にとって非常に重要なエピソードを、細切れにして再構成し、ピッチを加工してBGMの一部のように扱い、池田大作氏と出会った感動を表現した「頭がパーン」というセリフを何度も何度も繰り返しイジっていく。こんな酷いことが許されていいのかと思った。

しかも、これらの動画はさきほども述べたように権利者削除されることが多いのだが、エア本さん動画の制作者は権利者削除を「完成」と呼び、動画配信の一環として捉えているようだ。著作権侵害に対する正当な権利行使でさえ、イジりの文脈に組み込まれているということだろう。

このように、信仰者の切実な語りを踏みにじるような動画がいまでもネット上には溢れているのだ。

ちなみに、ニコニコ動画における「マイノリティイジり」についてはほかにも「淫夢」と呼ばれているジャンルがあり、一部ではホモフォビアを助長するコンテンツであると批判されている。「淫夢」批判についてはこのtogetterが参考になる。

■宗教団体を"イジる"人々

ネットに溢れている宗教イジりは動画コンテンツに留まらない。それは、ジャーナリズムの一環としても行なわれている。

安倍晋三元首相の射殺事件後、マスメディアで脚光を浴びた鈴木エイト氏は「やや日刊カルト新聞(以下、やや日)」の主筆としても知られている。やや日のサイトのヘッダーには「カルト集団・宗教・スピリチュアル産業の社会問題をいじる専門紙」とあり、まさにそれらの対象をイジることを目的としたメディアであることを謳っている。

ここからは、やや日の総裁である藤倉善郎氏(*5)の名義でクレジットされている「創価大学前で“カルト新聞配布”が警察沙汰に」という記事を取り上げたい。配信されたのは2013年5月3日となっており、いまから11年前の記事だ。ちなみに、5月3日は創価学会において「創価学会の日」と呼ばれている重要な記念日でもある。

記事の概要はこうだ。藤倉氏やエイト氏などが大学生に対して「カルト団体」に関する注意喚起をする目的で、八王子にある創価大学のキャンパスに出向き、「やや日刊カルト新聞 2013年新入生歓迎特別版」を配布した。記事の内容は「統一教会、摂理、顕正会、浄土真宗親鸞会、ヨハン教会連合(ヨハン早稲田キリスト教会)、オウム真理教(アレフ)、創価学会、幸福の科学といった、学生を狙うカルト的な団体の名称を記載。各団体の偽装勧誘や偽装伝道の手口」を解説したものだったという。ちなみに、この特別版はさまざまな大学で配布したものであり、創価大学での配布もその一環だったとみられる。

藤倉氏たちは特別版を配布しながら、

「みなさんは様々なカルト団体に狙われています」「統一教会、幸福の科学、オウム真理教、創価学会!」「勧誘されないように注意してください!」

と学生に向けて注意喚起の声かけをしていたそうだ。

大学の敷地外に「やや日刊カルト新聞」と書かれたのぼりを掲げ、特別版を配布していたところ大学職員の男性から注意を受けた。

こうした活動のなかで、藤倉氏とエイト氏は大学職員と下記のやり取りをしている。少し長いが記事から引用しよう。

ある職員が、「やや日刊カルト新聞」の1面に掲載されている写真を指指して、エイト記者に詰め寄りました。

職員A「これ、これ! うちの!」
エイト記者「ああ、池田大作さんですね」
池田大作氏の写真を指さす職員「これ、うちの!」
この職員は、藤倉主筆にも、「うちのどこがカルトなんだ?」などと威圧的な態度でつきまといます。
藤倉主筆「その理由は、この新聞に書いてあります」
職員A「読まないよ、こんなもの。あんたが書いたんだろ。なら責任あるんだから説明してみろよ」
藤倉主筆「新聞に書いてあるんだから、読んでからにしてください」
エイト記者「こういう対応がカルト的ですよね~」
藤倉主筆「この対応の下品さは創価大学特有ですね~」
職員B「下品なのはそっちじゃないですか。自分たちのことを棚に上げて何を言ってるんですか」
藤倉主筆「そうですね。ぼくらも下品ですね。すいません、目くそ鼻くそで」
職員A「カルト新聞が作ってるカルト新聞なんでしょ? え?」
藤倉主筆「そうですよ」
職員A「カルト団体が作ってるカルト新聞なんでしょ?」
藤倉主筆「いえ、違いますよ。カルト新聞という名の団体が作っているカルト新聞ですよ」

職員は、同社のことをカルト団体だと言いたかったようです。同社と創価大学との間で、お互いに目くそ鼻くそな言い合いが繰り広げられました(*6)

やや日刊カルト新聞「創価大学前で“カルト新聞配布”が警察沙汰に」(2013年5月3日)

その後、大学職員らは警察を呼び、到着した警察官は藤倉氏に対して「とりあえず今日のところは収めて」と説得したという。藤倉氏は現場から撤収する直前に、創価大学内のトイレを借りようとしたが、大学職員に断られたそうだ。

以上が藤倉氏やエイト氏が取材・執筆した記事の概要である。

■学生団体による「偽装勧誘」を指摘しているが…

大学職員の男性から「創価学会のどこがカルトなのか」と聞かれた藤倉氏は「その理由は、この新聞に書いてあります」と答えているのだが、実際にはどんなことが書かれていたのだろうか。

藤倉氏たちが創価大学などで配布していた「やや日刊カルト新聞 2013年新入生歓迎特別版」はいまでも公開されており、リンク先のページからPDFで記事を読むことができる。

創価学会に触れた箇所では、「創価学会 意外と知られていない大学での偽装勧誘」という見出しが付けられており、創価学会の学生団体が宗教団体との関連性を明示せずに学園祭に出店し、池田大作氏の著作を配布したことが問題になっていることを指摘している。

また、「友達からしつこく勧誘されたという学生もいます」という証言を紹介し、「あわよくば信者を増やそうと、学生を狙っている」と指摘している。

ちなみにこの証言を紹介しているのは「創価煎餅屋の藤倉善郎氏」となっている。おそらく、草加せんべいと創価煎餅をかけた藤倉氏なりのユーモアだろう。クスりと笑ってしまう人もいるかもしれない。

紙面には限りがあるため、学生団体が池田氏の書籍を配布したことが具体的にどのように問題になっているのかについては触れられてはいないが、本紙の別の箇所では「偽装勧誘をした時点でカルトです。偽装勧誘は、相手を騙して、宗教に入るか入らないかを自由に選ぶ機会を奪う。日本国憲法が定める”信教の自由”を侵害する反社会的な行為です。信教の自由には、教団を選ぶ自由や宗教を信じない自由も含まれているのです」とあるため、偽装勧誘行為をカルト的だと批判しているのだろう。

おそらく、この「偽装勧誘は信教の自由を侵害する反社会的行為」という指摘は、旧統一教会の元信者たちが起こした「青春を返せ裁判(違法伝道訴訟)」の判例を参照していると思われる。

本件について詳細に解説すると本稿と同等の文量が必要になってしまうので概要だけ説明すると、旧統一教会による正体を隠した布教行為が、憲法によって保障されている信教の自由を侵害するものだとして元信者が訴えを起こし、被告である教団側が複数の裁判で敗訴したものだ。興味がある読者は調べてみてほしい。

やや日はこの判例をもとに、創価学会の学生団体による学園祭での書籍配布と、学生に対する勧誘行為を「カルト的」だと批判していると考えられる。

ただ、本紙の該当箇所をよく読んでみるとその構成に違和感を覚える。

まず、学生団体による学園祭での書籍配布は創価学会員であることを明示せずに行なっているものだが、外形的に判断できる行為としては池田氏の書籍を配布したことだけであり、具体的な勧誘行為があったかどうかについては触れられていない。

また、そのあとに続く「友達からしつこく勧誘されたという学生もいます」という記述についても、この「友達」が正体を隠した学生団体の人間なのか、それとも正体を明かしていない一般の創価学会員なのか、あるいは正体を明かした創価学会員によるものなのかが明示されていないため、該当箇所で述べられていることが「偽装勧誘」にあたる行為なのかが不明確なものとなっている。

ただその一方で、見出しは「意外と知られていない大学での偽装勧誘」となっているため、紙面をパッと見ただけではあたかも創価学会の学生団体が大学内で偽装勧誘を行なっているかのような印象を受ける。

ちなみに、創価学会に触れた該当箇所の本文には「偽装勧誘」という単語は一度も登場していない。それではこの見出しは、一体なにを根拠にしているのだろうか。

一連の「青春を返せ裁判(違法伝道訴訟)」においても、正体隠し伝道の具体的な手法とその違法性や、入信後に行なわれる信仰活動の問題性、教団側が伝道する動機など、複数の要件が組み合わさって「偽装勧誘」についての判決が下されているため(*7)、「創価学会の学生組織が学園祭で正体を隠して池田氏の書籍を配布していた」ということや、正体を隠していることが明確ではない友達から「しつこく勧誘された」という情報だけでは、判例に示されている「信教の自由を侵害する偽装勧誘」であると断定することはできないのではないか。

また、本紙には宗教団体との関連を明かさずに活動しているとみられる学生団体のメンバーと思われる二人の人物が写った写真が掲載されているのだが、彼らが持っているA4用紙にはそれぞれに団体名と、日蓮が残した言葉が記載されており、用紙の隅には創価学会のシンボルである三色(青・黄・赤)のラインが刻まれている。

この三色が創価学会のシンボルであることがそれなりに知られていることを考えると、少なくともこの写真の人物は完全に正体を隠す意図があったわけではないと推測される。仮に、創価学会員であることを絶対に知られたくないのであれば、シンボルカラーの三色を分かりやすい位置に配置するようなことはしないだろう。

つまり、本紙で指摘されている学生団体による「偽装勧誘」は、「偽装」の点においてはこの写真の事例に限ればシンボルカラーを掲げてしまうほど杜撰であり、「勧誘」の点においては「池田氏の書籍を配布した」ことしか分からず、「しつこく勧誘された学生」についても誰にどのようなシチュエーションで勧誘されたのかが不明確なものだということになる。

とはいえ、さきほども述べた通り、該当箇所では「偽装勧誘」という単語は一度も登場せず、紹介されている行為自体が調節的に「信教の自由を侵害している」と批判されているわけでもないので、筆者が批判している論理でやや日が創価学会を「カルト」だと論じているとは限らない。

もしかしたら彼らは、本紙に書かれている内容を使って、まったく別の論理を組み立てている可能性もある。あるいは、本紙には書ききれなかった偽装勧誘の実態を突き止めているのかもしれない。

ただ、そうであったとしても、藤倉氏やエイト氏は少なくとも本紙においてなにをもってして創価学会を「カルト」だと主張しているのだろうか。

藤倉氏は大学職員だと思われる男性に対して、「(創価学会がカルトだという)その理由は、この新聞に書いてあります」と語っていたが、仮に職員が本紙を読んだとしても、その理由を理解できなかったのではないかと言わざるを得ない。

■根拠のない"カルト扱い"は偏見を助長するだけ

藤倉氏やエイト氏らが行なった取材活動は、これまで論じてきたカミングアウトをめぐる宗教2世の生きづらさを考えるうえで、非常に問題があるものだと筆者は考えている。

まず、よく知られているように創価大学は池田大作氏が創立者となって設立された創価学会系の大学である。筆者の周囲にも創価大学の出身者は大勢いるが、基本的に入学する学生のほとんどが創価学会員であり、なおかつ2世以降の信者が多い。つまり、学生たちのほとんどが宗教家庭の当事者なのである。

そうした当事者たちに対して、"「みなさんは様々なカルト団体に狙われています」「統一教会、幸福の科学、オウム真理教、創価学会!」「勧誘されないように注意してください!」"などと声をかけることは、家の宗教や親に対する偏見を助長し、不信感をいたずらに煽る行為だと言える。あるいは、そのように主張することで、非信者の学生に対しても根拠なく教団への不信感を煽っているとも言えるだろう。

また、創価学会とそのほかの教団をひとくくりに「カルト団体」として並べているが、それぞれの教団が抱えている問題は異なっており、無差別テロ事件を起こして解散命令が下ったオウム真理教と同様の問題があるかのような印象を与える"注意喚起"は不適切ではないだろうか。

さらに、さきほども述べたとおり、彼らが「(創価学会がカルトだと言える)その理由が書かれている」と語っていた新聞にも、その根拠が明確に示されているわけではなかった。特定の宗教の信者や関係者が多くいる場所において明確な根拠もなく教団をカルト扱いするということは、偏見を助長するだけのただのいやがらせだと言われても仕方がないだろう。

これまでも述べてきたように、「家の宗教についてのカミングアウト」は当事者にとって非常につらく困難なことである。筆者のようにある程度の語り方を身に付けることによって精神的な負担を軽減することも可能だが、日本社会における宗教への嫌悪感や、「宗教の事はバカにしてもいい/イジってもいい」といった風潮のなかで「家の宗教についてのカミングアウト」をすることはとても精神力を使うことである。

仮にカミングアウトによって友達や恋人などの大切な人から嫌われてしまうような経験をすれば、それ自体がトラウマになってしまうリスクもある。

筆者の実感としても、また、いままで会ってきた限りでの宗教2世たちも、「家の宗教が世間からヤバいものだと思われている」という実感を常に持ちながら生活している。もし自分の家が創価学会だとバレたら、旧統一教会だとバレたら、幸福の科学だとバレたら、非常に苦しい思いをするかもしれない。そんな予感に怯えながら生活している当事者は少なくない。

さきほど取り上げた「エア本さん動画」や、やや日によるこうした取材行為は、宗教団体や当事者への偏見を助長し、宗教家庭の当事者たちをさらに怯えさせ、ますます生きづらくなる社会を作るひとつの原因になっていると筆者は考えている。

■笑い声によってかき消される当事者たちの悲痛な声

また、やや日主筆の鈴木エイト氏は、安倍元首相射殺事件が起きた数日後に下記のようなツイートをしている。

「どの段階で各メディアが『統一教会・家庭連合(天の父母様聖界 世界平和統一家庭連合)』の名を報じるか。

同教団の現役信者、脱会者、2世(現役・脱会者問わず)たちへの偏見を助長しないよう細心の配慮が求められる。」

「以前、このツリーにも書いたが、分派を含む同教団の現役信者・脱会者・現役2世・脱会した2世たちへの偏見を助長しないよう細心の注意を払ってほしい。」

このようなツイートをするのであれば、かつて自分が、根拠が不明確であるにもかかわらず「創価学会はカルト」という主張をすることで、創価学会員や宗教家庭の当事者に対する偏見を助長するような振る舞いをしていたことに思いを馳せて欲しいものである。

配布された特別版の内容や、創価大学周辺での活動、大学職員への振る舞いは"細心の注意"を払ったものだったのだろうか。

もちろん、本稿で取り上げた記事は11年前のものなので、藤倉氏やエイト氏の考え方や取材力・執筆力が大きく変わった可能性もある。ただ、やや日は2024年の1月4日に阿佐ヶ谷ロフトAで【カルト新年会2024「カルト教祖死屍累々あけましておめでとう!」】というイベントを行っている。

藤倉氏はこのイベントについて下記のようなツイートをしている。

「1/4、毎年恒例「カルト新年会」です。大川隆法さん、浅井昭衛さん、池田大作さんが死んでしまいました。統一教会は解散命令請求が出され、エホバの証人は児童虐待に性虐待まで指摘されてだいぶピンチ。あけましておめでとうとしか言いようがない、死屍累々新年会です。」


このイベントタイトルは、2023年に宗教団体の創始者や指導者が相次いで亡くなったことを受けて作成されたものだと考えられる。彼らの死去を悲しんでいる教団関係者も数多くいるなかで、藤倉氏の「あけましておめでとうとして言いようがない」というコメントはあまりにも無神経すぎる。

やや日主筆のエイト氏は、ジャーナリズムに関する賞を複数受賞していることもあり、彼らの取材・執筆活動にもなにかしらの価値があることは間違いないだろう。また、彼らは現在、「宗教2世の人権を守るべきだ」などと語っており、市民社会的な価値観から取材活動を続けているようにも見える。

ただ、筆者からすれば、彼らは「宗教イジり」という点においては10年前となにも変わっていない。宗教団体や信者をイジり、あえて不謹慎な発言をし、そのことによって関係者を怒らせ、怒った関係者を笑いものにしているとしか思えない。仮に取材対象が在日外国人やセクシャルマイノリティであれば、即座に炎上しているだろう。そう考えると、この社会は「宗教イジり」に対して非常に寛容な側面があるとも言える。

彼らがかつてこうした記事を書き、下品だと言われても仕方のないような取材活動をしていたということは改めて検証されるべきだ。特に、やや日のメンバーと関わりのある報道関係者や研究者の方々には、彼らのこうした取材手法や記事の内容ときちんと向き合っていただきたい。

「カルト集団・宗教・スピリチュアル産業の社会問題をいじる専門紙」を標榜するやや日によるこうした宗教イジりは、笑える人にとってはとても愉快なコンテンツかもしれない。ただ、とはいえ、取材者や読者にとって面白ければなにをやってもいいわけではないということは、何度でも指摘しておきたいことだ。

エア本さん動画を見て笑い、やや日を読んで楽しんでいる人達は、家の宗教が世間にバレることに怯えながら生活している当事者と同じ社会で暮らしていることを少しでもいいから理解してほしい。その笑い声によって、当事者の悲痛な声はかき消されていくのだ。

■"ウォッチ"の対象となった教団と当事者

「宗教2世」の当事者は、教団や親による身体的・心理的・性的・経済的な虐待を受けているケースもあるが、その一方で、筆者が前回のnoteで紹介したような「家庭内での投票依頼」や、本稿で論じた宗教イジりなど、教団からも、家庭からも、社会からも波状攻撃を受けている。

また、マスメディアは行政を動かしやすい虐待などの事例については報じているものの、宗教イジリについてはほとんど報じていない。そればかりか、例えば「毎日新聞カルト・宗教問題取材班」というアカウントは、自著を紹介してくれた紀藤正樹弁護士のツイートに対し「今後も旧統一教会や宗教2世をめぐる問題をウォッチしていきたいと思います。」と引用RTしている。

「紀藤先生からご紹介いただきました。ありがとうございます。今後も旧統一教会や宗教2世をめぐる問題をウォッチしていきたいと思います。」

宗教2世をめぐる問題についての報道は、取材者から「ウォッチ」の対象となるところまで来ているのだ。

もちろん、記者がなにかしらの対象を取材するのであれば、そこには必ず「ウォッチ」の要素が含まれるのは当然のことだ。ただ、「今後も旧統一教会や宗教2世をめぐる問題を取材/報道/追及していきます」ではなく「ウォッチしていきます」という単語を選んでいることに違和感がある。

マスメディアの記者が取材活動を行うのであれば、一連の取材やその成果物であるところの記事の内容には公共性が担保されている必要がある。ラーメン好きの記者が、ラーメンをたくさん食べたいがために「取材」と称してラーメン屋をめぐっていたとしたらそれはただの趣味だろう。取材には必ず公共性を帯びたなにかしらの目的が必要だと考えられる。

これは踏み込んだ表現かもしれないし、筆者の当事者性が強すぎて敏感な反応になってしまっているかもしれないが、この「ウォッチ」という表現からは当事者をめぐる問題が”見世物”のようにされている感覚を覚える。

教団や当事者は「ウォッチされる側」であり、マスメディアは「ウォッチする側」という関係性が固定化していったとしたら、この社会に存在する「宗教イジり」の風潮は解消されないだろう。

■家庭内でも社会でも「一人の人間」として認めてもらえない

前回のnoteで論じた虐待とも言い切れない家庭内でのしんどさも、本稿で論じた「宗教イジり」などの社会から受けるしんどさも、基本的には誰も助けてくれない。

教団や親を告発する被害を受けた当事者として振舞うことで、もしかしたら社会は受け入れてくれるかもしれないが、「親は親、自分は自分」という語り方をすれば「まだ、マインドコントロールが解けていない」などと言われてしまう可能性は十分にある。また、仮に社会から受け入れてもらったとしても、教団や親の問題は解決されるわけではなく、むしろ親から「マスコミやネットの情報に騙されている。教団のことを本当の意味で理解できていない」などと言われてしまうおそれもある。

自身の経験をもとにした率直な意見として「親は親、自分は自分」という態度を取ったり、「教団や親はこういうところが間違っている」と発言しても、社会からは「マインドコントロールされている」と言われ、親からは「マスコミに騙されている」と言われてしまうのであれば、宗教2世はどうすれば自律的に判断ができる存在として認めてもらえるのだろうか。

社会に認められてもらうためには、これまで論じてきたように「教団と親」の両者を完全に否定することで「自分は教団側の人間ではない」ということ証明する必要があると筆者は考えている。

一方で、教団と親に認めてもらうための手っ取り早い方法は、世俗的な価値観における努力よりも、宗教的な価値観における努力のほうが価値が高いと認識していると伝えることだろう。これは社会を否定するようなアプローチだと考えられる。教団や親に対してそれまで反抗的な態度を取っていれば「やっと分かってくれたんだね」などといったことを言って受け止めてくれるだろう。

つまり、宗教家庭の当事者は、一定の条件を満たさなければ社会においても家庭内においても「自律した人格を持っている」と判断してもらえないのだ。

そして、こうした感覚は具体的な虐待の有無や、信仰心の有無、組織活動の有無にかかわらず、当事者の多様な苦悩を生み出す根源的な原因になっているのではないかと筆者は考えている。

家庭内においても社会においても、「一人の人間」として認められない「宗教2世」の苦悩は深い。

■「教団・親・社会」のそれぞれに問題がある

それでは、こうした当事者の苦悩をもたらす原因を改めて整理してみたい。前回のnoteでの議論とあわせて考えていくと、宗教2世を取り巻く三つの領域があると考えられる。

それは「教団・親・社会」である(*8)。

本稿で論じたように、宗教2世問題でよく取り上げられる教団はさまざまな問題を起こしており批判の対象となることが少なくなかった。

そもそも、教団が問題を起こさなければ社会全体から批判されるような事態にはならないということを考えると、教団による問題のある振る舞いを無くしていくことは最重要の課題であると考えられる。

親についても、教団との関係や自身の信仰心によって家庭内の子どもを苦しめてしまう事例が報じられている。実際に子どもと接するのは教団よりも親である割合が高いと考えられるため、ある意味では加害者として注目されやすい領域だといえる。前回のnoteでも論じたように、子どものことを「一人の人間」として見ることができるかどうかが問われている。

そして、社会においても「宗教はバカにしてもいい」という風潮や、ネット上での「宗教イジリ」、一部のマスメディアによる問題のある報道姿勢など、宗教2世の当事者が怯えて生活しなければならない状況を作り出している重要な領域のひとつだといえる。

仮に教団が変わり、親の態度が改まったとしても、「宗教はヤバい」「信者はマインドコントロールされている」「いつ事件を起こすか分からない」といった認識が社会に根付いていれば、当事者の生きづらさは解消されないだろう。

実際に、創価学会は「折伏大行進」が話題になった1950年代に比べれば、圧倒的に社会化した教団だと言えるが、エア本さん動画や、やや日による問題のある取材行為など、いまだに社会からの偏見や加害にさらされている。

逆の観点から言えば、社会からの偏見が完全になくなったとしても、教団と親が変わらなければ当事者の被害や生きづらさは解消されない。

「教団・親・社会」という三つの領域すべてにおいて、現在抱えている問題が解消されなければ宗教2世の当事者にとって生きやすい社会が実現されることはないだろう。また、これまでなされてきた報道や出版や学術研究の分野において、「教団・親」の問題が指摘されることはあっても、「社会」の問題が指摘されることはほとんどなかったように思う。

当事者を苦しめている重要な領域のひとつとして、教団や親だけでなく、「この社会」が抱えている問題についても注目が集まるべきだと筆者は考えている。

■「ウォッチする側」なんて存在しない

本稿では、筆者の体験をもとに「家の宗教についてのカミングアウト」の困難さを論じ、資料を用いて社会における「宗教イジり」の問題点について論じてきた。

筆者の見立てでは、この二つのテーマは強く結び付いている。宗教2世の生きづらさを解消するうえで、教団や親だけではなく、社会の問題についても論じられるべきだ。

「教団・親・社会」が宗教2世問題に関連する領域なのだとすれば、コミットメントの濃淡はあれど、すべての人がなにかしらの意味で宗教2世問題の関係者だと言える。

怪しげな宗教団体の信者の家庭内で行なわれている悲惨な出来事として、自分とは関係のない「かわいそうな人たち」の話として、宗教2世問題を捉えている人もいるかもしれないがそれは違う。

まさに、あなた方の振る舞いが宗教2世の当事者たちの生きづらさを形作っている可能性があるということを知って欲しいのだ。

この問題において、ウォッチする側とされる側といった非対称的な関係を持ち込むべきではない。見世物小屋の外から見物していると思っているあなた方も、日々の生活のなかで加害的な振る舞いを行なっているかもしれないのだ。

■「宗教2世」が苦しまずに生きられる社会を願って

筆者はこの社会で生き延びるために、カミングアウトにおける様々な語り方を習得してきた。それらの語り方は自分にフィットするものもあったし、そうでないものもあったが、「教団・親・社会」の問題が解消されていればこんな努力をしなくても済んだはずだ。

少なくとも、教団と社会の問題が解消されていれば親を否定する必要はなかった。

「アンチになれば社会に受け入れてもらえる」という結論を出した筆者も、現在は「現役信者」として日々を生きている。ただそれは、教団と親を肯定し、社会を否定することにしたわけではない。

教団にも親にも社会にもそれぞれ問題があるし、それぞれにもいい面はあるわけだから、それぞれに対し批判するところは批判し、肯定すべきところは肯定している。

いまだに自分のことをただの属性として見てくるような人たちの言葉に傷つくこともあるが、それまでに工夫してきたカミングアウトの経験やアンチとして振る舞ってきた経験のおかげで、以前よりもそのダメージは軽減されている気がしている。

筆者は宗教2世としての使命を果たすために生まれてきたわけではないし、社会に受け入れてもらうために生まれてきたわけでもない。自分らしく生きるために、いまの生き方を自覚的に積極的に選んでいる。

そのことを、人にとやかく言われたくないし、ましてや「マインドコントロールされている」や「教団に騙されている」なんて言われる筋合いはない。苦しんできた当事者に対してそうした発言を投げかけるのは、端的に言って失礼でしかない。

この何十年にわたって悩み苦しんで掴み取った結果が、この生き方だということをいまは誇りたい。

もうすぐ、安倍元首相の射殺事件から2年が経つ。異常だとしか言いようがないほど、長期間にわたって勾留され続けてきた山上徹也被告の裁判もそろそろ始まる。事件直後に比べて宗教2世問題についての報道も落ち着いてきたが、問題はまだまだ解決されていない。それどころか、重要な問題が見逃され続けている。

「教団」と「親」だけではなく、「社会」の側にも問題があることが多くの人に伝わることを願って本稿を終えたい。

昔の筆者のように、当事者が苦しみながら、カミングアウトの語り方を工夫せずにすむ社会が来ることを心から願っている。


【注】

(*1)本文中では論じられなかったが、宗教2世の当事者が抱えているカミングアウトの重要な問題として「親へのカミングアウト」というものがあることをここで指摘しておきたい。

「親に対するカミングアウト」というのは、「家の宗教を信じていないし、関わるつもりもない」と親に伝えるというものだと筆者は定義している。宗教家庭に生まれ育ち、教団や親の価値観に触れながら成長していったうえで、「私には私の考え方や生き方がある」などと親に伝える場面を想定している。このようなカミングアウトをする機会としては、実家を出るときや、非信者の配偶者と結婚するとき、あるいは他の宗教に改宗するときなどが考えられる。

ただ、あらかじめ伝えておかなければいけないのは、筆者は「家の宗教についてのカミングアウト」についての経験はそれなりにあるものの、「親に対するカミングアウト」の経験はあまりないということだ。

これは前者の対象となる相手が無数にいるのに対して、後者は対象が親に限られていることにも起因するが、筆者が親に対して脱会に関するカミングアウトをしたことはないことがもっとも大きな原因だ。なので、ここで紹介するのはほかの当事者から聞いた話になる。

私が聞いた「親へのカミングアウト」の事例では、退会することを親に伝えた際に「いままでお世話になった人たちに対してそんな恩知らずなことをしてもいいのか!」と怒鳴られたというものがあった。

特に創価学会では「不知恩」という振る舞いがよく批判されるため、「恩知らず」という言葉が定型化している面もあるのではないか。

宗教2世のなかでも、教団や親から被害を受けてきた当事者は、「親へのカミングアウト」をする際に強い精神的な負担を感じていると筆者は考えている。

(*2)本稿は創価学会の2世以降の現役信者である筆者が経験した、「家の宗教についてのカミングアウト」のエピソードを中心に構成されているが、他教団における「家の宗教についてのカミングアウト」についてはまったくフォローできてない。

それぞれの教団において「家の宗教についてのカミングアウト」に対する態度は同一のものではないと考えられるため、各教団の宗教家庭の当事者によって抱えている苦悩の質が異なっている可能性がある。また、本稿の後半部でも論じるが、当事者を取り巻く環境によっては「教団・親・社会」の三領域における問題の比重が異なっていると考えられる。

たとえば、2023年年11月20日に公表された「宗教団体「エホバの証人」における宗教の信仰等に関係する児童虐待等に関する実態調査報告書」によると、「エホバの証人」では子どもに対して知人や友人への信仰告白を指示または推奨しており、本調査によれば調査対象者の80%が教団関係者からの指示または推奨を感じたことがあると回答している。

少なくとも、筆者が見聞きしてきた範囲では、創価学会には教団や親が子供に対して信仰告白を指示または推奨する教義や慣習がないため、こうした慣習のあるエホバの証人の2世当事者とは「家の宗教についてのカミングアウト」への捉え方が異なる可能性は十分考えられる。

その一方で、筆者がこれまで出会ってきた宗教家庭の当事者のなかには、親から「他人に対して家の宗教のことは教えちゃだめだよ」と幼少期から教えられてきたというケースもある。本稿でも触れた通り世間に対して家の宗教がバレることに怯えている当事者も多く、親世代も子供がいじめられないために信仰を隠すように伝えるようなケースもある。

本稿は筆者個人の体験であると同時に、あくまでも「創価学会の2世以降の信者の体験」をもとにしたエッセイだということを前提にして読んでいただけると幸いである。

(※2024/6/10 8:45追記)
Twitterでの本稿に対する感想のなかで、創価学会家庭の出身者から「私の地域では中学に進学したら友人などに対して信仰をカミングアウトする文化があったし、自分だけではなく同世代のほかの地域の出身者からもそのような話を聞いている」といった趣旨の指摘があった。

指摘してくださった方と筆者は世代がひとまわりほど違うこともあり、世代差による経験の違いの可能性もあるのだが、筆者が生まれ育った東京のある地域では親からもひとまわり上の世代からもそうした話を聞いたことがなかったので、世代や地域によってこうした文化がまだらに存在していたと考えられる。

創価学会でもエホバの証人に対して行われたような調査が実施されれば、教団内におけるカミングアウトへの指示・推奨の実態が見えてくるだろう。

創価学会は非常に大きな教団であり全国各地に会員がいるため、こうした「地域差・世代差」が発生しやすい。注の冒頭で、【他教団における「家の宗教についてのカミングアウト」についてはまったくフォローできてない。】と述べたが、そのうえで、創価学会内におけるカミングアウトに関する文化の多様性もフォローできていなかったということになる。

ご指摘いただいた方にはこの場を借りて改めて感謝の意を表したい。

(*3)
本件のWikipediaによれば、いままでの裁判で朝木氏の死因を他殺だと認定したものはひとつもない。また、教団側は原告としてメディアや当事者、保守的な市民活動家に対する訴訟を起こし、そのすべてで勝訴している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/朝木明代市議転落死事件

また、池田大作レイプ事件についても、裁判所は原告側の訴えを「訴権の濫用」として退けている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/池田大作に対する訴権の濫用

ちなみに、オウム真理教や旧統一教会に関する著作を複数出していることで知られるジャーナリストの有田芳生氏は、この東村山市議に関する件についてすでに否定されている疑惑を「事実」だとするツイートをしている。

https://x.com/aritayoshifu/status/1589441472331665408

また、本文では触れられなかったが、ネットにおける反創価学会的な言説の担い手として、いわゆる「ネット右翼」があげられる。有田氏が「事実」だと述べ、裁判では事実認定されなかった東村山市市議についての疑惑も、「行動する保守」の代表的な人物として知られている瀬戸弘幸氏やその周辺が疑惑の拡散を行っていたことが知られている。

実際に、瀬戸氏の協力者は東村山市議についての疑惑について街宣活動中に事実無根の発言を行い名誉毀損で提訴され、裁判所から110万円の賠償命令などが下されている。また、瀬戸氏は「池田大作は在日朝鮮人である」という説を唱えており、排外主義的な主張を行なっている人物でもある。

筆者が中学生のころに、友達から「池田さんって在日なの?」と聞かれたことがあるのだが、こうしたしんどいイベントが発生する原因は瀬戸氏にあったということだろう。

(*4)エア本さん動画についての詳細は下記の記事を参考にして執筆している。
https://dic.nicovideo.jp/a/エア本さんhttps://w.atwiki.jp/atamagapan_2nd/pages/176.html
https://wikiwiki.jp/cookie2/エア本

本文でも触れたが、エア本さんの動画を確認する作業は本当に苦痛だった。20代の頃になかば自覚的にアンチとして振る舞っていた筆者にとっても、この動画を観るのは辛いことなのだ。

筆者の周囲にいる30〜40代の熱心な信仰を持つ創価学会員の一部にとってはこの動画はトラウマのようになっている側面もあるため、本稿で触れるかどうか最後まで悩んだ。このことを掘り返すことで、改めて動画に注目が集まるようなことがあれば元の木阿弥になってしまうからだ。

ただ、エア本さん動画の問題点を指摘せずにスルーしてしまえば「宗教をイジって笑いものにしても構わらないし、そのことに対して誰も怒らない」という社会の風潮はおそらく変わらない。

こうした状況に異議を唱えなければ苦しんでいる人がいるということすらも伝わらなくなってしまうため、あえて動画の詳細に触れることとした。

(*5)やや日総裁の藤倉善郎氏は幸福の科学への取材の過程で建造物侵入罪に問われ、地裁で「罰金10万円、執行猶予2年」の有罪判決が下り、控訴審でも有罪となっている(その後、上告している)。

https://www.fujikura-hs.com/

判決の詳細に触れた一般紙の記事が見当たらなかったため、やむなく幸福の科学広報局のリリースにも触れておくこととする。
https://happy-science.jp/news/public/17544/

(*6)創価大学の職員とのやり取りにおいて、藤倉氏とエイト氏の振る舞いは、対話を拒否し、下品なものであると言わざるを得ない。

例えば、職員が「うちのどこがカルトなんだ」と質問した際に藤倉氏は「新聞に書いてあるんだから、読んでからにしてください」と返し、エイト氏も「こういう対応がカルト的ですよね~」と述べている。

新聞の内容を読まないという大学職員の態度はやや日の主張を聞くつもりがないようにも見えるが、「あんたが書いたんだろ。なら責任あるんだから説明してみろよ」と応答していることを考えると、口頭での説明であれば話を聞く態度を示していると理解できる。また、本文中でも論じた通り、実際に紙面を読んだとしても創価学会のどこがカルトなのか理解できるような内容にはなっていないと筆者は考えている。

にもかかわらず、エイト氏は「こういう対応がカルト的」だと述べており、藤倉氏も「この対応の下品さは創価大学特有ですね~」と大学職員の対応を下品だとしているが、急に現れてチラシのような"新聞"を配り始めた人物の書いたものを読まなければいけない義理はないだろう。一連のやり取りは、大学職員の対応を「カルト」だと言いたいだけのように見える。

大学職員の言う通り、「創価学会はカルト」だという主張に根拠があると考えているのであれば、筆者としての責任を果たして口頭での説明にも応じるべきだと考えるのが常識的な発想ではないだろうか。

そのあと職員は「下品なのはそっちじゃないですか。自分たちのことを棚に上げて何を言ってるんですか」と言い返し、藤倉氏は「そうですね。ぼくらも下品ですね。すいません、目くそ鼻くそで」とさらに言い返しているが、対話を拒否しているのはやや日のほうであり、下品なのはやや日だけだろう。

(*7)「青春を返せ裁判(違法伝道訴訟)の原告代理人である郷路征記弁護士が執筆にした記事に「偽装勧誘」に触れた箇所の判決内容と解説が掲載されており、本稿もこの記事を参考にしている。
https://clnn.org/cln/6483

(*8)宗教2世問題において、「教団・親・社会」という三つの領域それぞれに注目するという捉え方は「もの(@MONO_ISHI)」さんというTwitterアカウントから強く影響を受けている。筆者も、以前から親や教団だけの問題ではなく、社会からの加害についてもその問題を指摘するべきだと考えていたが(例えばこうしたツイートなど )、ものさんによって問題の捉え方がより一層クリアになったと感じている。あらためて感謝の意を表したい。

(※)
本稿を執筆したことをきっかけとして、セクシャルマイノリティにおけるカミングアウトの実態とその困難さに関する論文をいくつか読んだのだが、非常に参考になる部分があった。ただ、執筆前に読んでしまうと記憶を思い起こしながら書いている昔の体験の受けとめに影響が出てしまうおそれがあったため、大部分を執筆してから論文に目を通した。

また、いわゆる「宗教2世」に関するカミングアウトの問題と、セクシャルマイノリティにおけるカミングアウトの問題を同列に扱うことはできない(あるいは、筆者にはその適切な手続きについての学術的な知見が不足している)ため、あくまでもこれらの論文は筆者にとって参考になったものであるということを強調しておきたい。

論文で示されている研究結果のなかには、一見すると本稿の議論の参考となりうるものもあったが、上記の前提を加味して本文中においても注においても引用はしないという判断に至った。以下が参考になったと感じた論文である。

鈴木文子,池上知子「カミングアウトによる態度変容 ジェンダー自尊心の調整効果」(『心理学研究』91巻,2020年4月)

大坪真利子「性的マイノリティのカミングアウトの根拠としての「不可視」論再考」(「WASEDA RILAS JOURNAL No.8」,2020年10月)

田中みどり,今城周造「性的マイノリティの自己受容とカミングアウトの関連性の検討」(昭和女子大学生活心理研究所紀要 Vol.23 59-74, 2021年3月)


謝辞

本稿は、宗教2世の当事者や筆者の友人など多くの方に草稿を読んでいただき、彼らの有意義なコメントのおかげで議論をさらに深めることができました。注も含めたら3万字以上もある長いエッセイを注意深く読み、的確な指摘をしてくれた友人たちには感謝しかありません。ですが、本稿の内容や主張の責任は全面的に筆者が負うものです。


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