見出し画像

信仰心がなかった私が、親から「選挙は公明党にお願いね」と言われたときに思っていたこと


■「宗教2世問題」における教団ごとの特徴

本稿では、いわゆる「宗教2世問題」における当事者の被害や苦悩を生み出す要素のひとつとして、創価学会で行なわれている「家庭内での投票依頼」の問題を現役信者である自身の体験をもとに論じたい。

ただ、筆者の狙いは「創価学会の闇」の暴露や、自身や周囲の人間の被害を告発することではない。本稿が目指しているのは、「宗教2世問題」において創価学会という教団が抱えている問題を筆者の経験をもとに論じ、当事者の苦悩を軽減するための足がかりを作ることだ。また、必ずしも虐待とは言えず、マスメディアにもあまり取り上げられないような「伝わりにくい被害や苦悩」を語ることの重要性についても述べたい。

マスメディアで報じられてきた「宗教2世問題」の被害は、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)における高額献金や、エホバの証人における鞭打ちなど、教団を代表するような特徴があるとされている。厚生労働省は信仰を背景とする児童虐待の事例をまとめており、児童虐待の4類型である「身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクト」に沿う形で事例を整理している。下記の図は、厚生労働省の見解を日本経済新聞が2022年12月27日付の記事でまとめたものだ。

日本経済新聞【「宗教虐待」4類型例示 厚労省が指針、児相に対応促す】2022年12月27日付より

教団ごとの特徴的な被害が報じられているなかで、創価学会においても特徴的な被害や苦悩を生み出す要素があると筆者は考えている。それは政党に対する組織的で猛烈な「支援活動」だ。

創価学会が公明党の支持母体であることは広く知られている。ただその一方で両者の関係に触れることはタブー視されている雰囲気もある。たとえば、国政選挙の際に放送される選挙特番でジャーナリストの池上彰氏が両者の関係性に”切り込む”ことがあるが、こうした池上氏の振る舞いが"池上無双"などとネットで話題になるのも、両者の関係のタブー視が前提となっていると考えられる。

創価学会員による「支援活動」の熱心さも有名で、本稿の読者も普段はあまり連絡してこない友人から「今回の選挙なんだけど、、、」といった電話がかかってきたことがあるのではないだろうか。

この「支援活動」の一環として慣習的に行なわれている「家庭内での投票依頼」が、創価学会の2世以降の信者(*1 )を悩ませ、苦しめることがある、と筆者は考えている。

■政治活動を行っている教団は少なくないが…

ただとはいえ、「選挙の支援活動に関わる宗教」はなにも創価学会だけではない。「宗教2世問題」でよく取り上げられる教団でいえば、旧統一教会と幸福の科学が支援活動に関わっていることで知られている。旧統一教会では、自民党などの公認候補に対して支援活動をしていることが報道されており、選挙において自民党の議員に投票することもあれば、選挙スタッフや秘書として議員を直接サポートすることもあるようだ。

幸福の科学は幸福実現党という政党を設立しており、設立された2009年に行なわれた衆議院選挙では337名の候補者を擁立するなど活発に活動していた時期もある。

ただ、筆者が両教団の現役信者や脱会者に聞き取りを行なったかぎりでは、創価学会ほど熱心に投票依頼を行なっているわけではないようだ。

たとえば、旧統一教会では自民党の特定の候補に対して投票しようという雰囲気はあるが、熱心な創価学会員のようにひとりで何十人にも投票依頼をし、自身が立てた目標達成のために日々奔走するようなことはないとも聞く。また、創価学会の信者は信仰心が強ければ強いほど、支援活動にも熱心になる傾向があるが、旧統一教会にはそうした信仰と支援活動の必然的な結びつきら見られないという。一方で、なかには親からの依頼で特定の候補に投票させられる2世信者もいるようだ。

選挙スタッフについても教団からの指示がある場合もあるが、世間のイメージに反して参加するのは信者のごく一部だという。幸福の科学における支援活動もあまり活発ではなく、友人への投票依頼や親子間の投票依頼も筆者がヒアリングした限りでは、なされていなかったという。

とはいえ、これはあくまでも筆者がヒアリングを行った限りでの見立てに過ぎず、実証するためには厳密に設計された調査を行う必要がある。

ただ、参考になる調査として、『宗教2世』(太田出版)に掲載されている宗教2世を対象にしたウェブアンケートにおいても、統一教会とエホバの証人に比べて、創価学会は教団や家族から政治活動を要求される割合が高いことが指摘されている。(*2)

そもそも、統一教会は教団独自で政党を立ち上げておらず、幸福の科学は立ち上げた政党の支援を始めてから15年間で国会議員を一人も当選させられていない。統一教会の現役信者によれば、所属教会ごとに支援の方針も異なる場合が多く、ときには旧民主党などの野党候補を支援したこともあるようだ。

一方で、創価学会は約60年間にわたって公明党を支援しており、結党前においても国政選挙や地方選挙に独自で候補を擁立してきた歴史がある。そうした背景を考慮すると、上記二つの教団と比べて支援活動における組織力や熱量が異なると考えるのは不自然なことではない。

では、「家庭内での投票依頼」はどのように行なわれているのか。そして、それは2世以降の会員をどのように苦しめているのか。そこで、この苦悩の一例として筆者が子供のころに見てきた「支援活動」の様子と、「家庭内での投票依頼」を受けるまでの流れを紹介したい。

まずは、筆者が覚えている「支援活動」に関するもっとも古い思い出から話を始めよう。

■楽しかった「マル付け」の思い出

筆者が人生のなかで最初に公明党のことを意識したのは、おそらく小学校低学年の頃だ。

たしか、衆議院選挙だったと思う。投開票日の夜、家族全員で開票速報番組を見ていた。NHKや民放各局では当確の基準が異なっていることや、情報に時差があるため、公明党の当確がもっとも多く出ているチャンネルを探してじっと画面を見つめる。

リビングの壁には、日本地図に公明党の候補者名と出馬している選挙区がプロットされた巨大なポスターが貼ってある。候補者に当確が出ると「うおー!!」と声を上げて喜び、ポスターに記載されている候補者名のところに赤色のマッキーでマルをつける。これがとても楽しい。

両親に「ほら、○○さんのところに丸をつけてあげて」と言われるたびに、私や兄弟の誰かが赤色のマッキーをもらって候補者名にマルをつける。当確が出るたびにポスターは赤いマルで埋まっていく。接戦になると選挙結果が出るのも遅くなるため、ときには日付が変わるまで開票速報を見つづけることもあった。いつもなら22時までに布団に入らないといけなかったので、接戦になると夜更かしできたこともうれしかった。

最後まで結果が出ていなかった候補者に当確が出たとき、家族全員で大喜びし、ポスターに最後の赤マルをつける。すべての候補者名に赤マルがついたポスターを、うっとりと眺めていたのをいまでも覚えている。

子供だった筆者は選挙速報をゲームのようにただただ楽しんでいただけだったが、「支援活動」に奔走していた両親は応援していた候補が当選するたびに心の底から喜んでいたように見えた。

■ほとんど旅行と変わらなかった”交流”

ほかにも、「支援活動」には”交流”と呼ばれている動きがある。ひと言でいえば、自身の居住地域ではない選挙区に出かけていき、現地に住んでいる友人に投票依頼をするというものだ。情勢によっては苦戦を強いられている選挙区の候補もいるため、「今回は○○さんが危ない」といった情報が上層部から降りてくれば応援に行くこともある。

筆者も子供のころに親に連れられて”交流”に行ったことがある。友人を食事に誘ったり、友人が経営しているお店の近くに待ち合わせをして「今回の選挙なんだけど、、、」と親が頼んでいたのを覚えている。

”交流”の目的は「支援活動」ではあるが、友人への投票依頼を除けば基本的にはただの旅行だと筆者は感じていた。家族でドライブを楽しみながら各地の美味しいものを食べたり、大きな公園で遊んだりしていた。また、”交流”で一度だけ大阪に行ったことがある。首都圏在住の筆者が初めて関西圏に行ったのはこのときだった。人生初の大阪で食べたお好み焼きはあまり美味しくはなかったが、とにかく長距離移動が楽しかった。ただただ楽しかった。筆者にとって「支援活動」というのは、ある時期までとても楽しいものだったのだ。

その後、筆者は色々あって「創価学会アンチ」となった。"丸つけ”や”交流”に参加する機会もなくなり、信仰や公明党のことについて両親と議論する機会が増えていった。ただその一方で、基本的に家族仲はよく、父親とはよく2人でカラオケに行ったし、母親とも2人でスポーツを楽しむこともあった。信仰の話になると少しギスギスはするものの、仲のいい家族だったと思う。

そして、成人した筆者はついに"あの瞬間"を体験することになる。そう、「家庭内での投票依頼」だ。

■「選挙は公明党にお願いね」

20歳ごろの筆者は色々あって人生がバグっていたこともあり、とにかく時間があったので創価学会の集会に顔を出すようにはなっていた。ただ、もともとアンチだったことや、一時期はほかの宗教の実践をしていたこともあり、組織の雰囲気には馴染めていなかった。

というか、馴染めていなかったどころではなく、とにかく生意気で、教義に関することや公明党の政策などについてことあるごとに先輩に食ってかかっていた。あのとき、忙しいなかで時間を割いてクソ面倒くさい自分に付き合ってくれた先輩には、本当に感謝しかない。

当時を振り返れば、筆者にはほとんど信仰心がなかった。自分に付き合ってくれる先輩たちは好きだったが、「自分は創価学会の信仰を持っている」と胸を張って言えるような状態ではなかった。

そんな状態だったので、友人に投票依頼をすることもなく、周囲が選挙で慌ただしくしているのを見て「大変そうだなぁ」とひとごとのように受けとめていた。そんななか、投開票日の1カ月前くらいに親から「ちょっと話がある」と仏間に呼び出された。なにかやらかしたかなと思ったら、選挙の話だったのである。

そのとき「ゆでは公明党に対して色々と言いたいことがあるとは思うけど、選挙は公明党にお願いね」といった趣旨のことを言われたはずだ。ついにきたか、と思った。もともとアンチだったこともあり公明党に対しても素直に応援したいという気持ちはなかったので「あーはいはい、考えておくよ」みたいな返事をしたと思う。なんにせよ「うん、わかった」とは言わなかった。

■「一票」としてカウントされることの苦しさ

それから数日後、筆者が創価学会の集会に参加した際に、地域の責任者をやっていた先輩が信者の情報をまとめた名簿を見ながら投票状況について確認していた。

「Aさんは期日前、Bさんは当日、Cさんは期日前に投票に行く予定だったよね。ということはZ2のJ1だね(*3)。あれ、ゆでくんは当日に投票行くんだっけ?」

そう聞かれたとき、なんだかすごくゾッとした気持ちになった。あれ、これってもしかして、親からも同じようにカウントされているのかな、と思ったのだ。心がぎゅっとなった。

ただ、これは先輩が自発的にカウントしているだけかもしれない。先輩には「まだどこに投票するのか決めたわけではない」と伝え、動揺を隠しつつ「これは組織全体でやっていることなのか」という趣旨の質問をしたら、答えはイエスだった。筆者は創価学会の「支援活動」において「J1」という数としてカウントされていたのだ。

ショックではあったが、よくよく考えて見れば「自分が数値化されてカウントされる」という経験自体は一般的にたいして珍しいことではない。友人との飲み会に参加すれば「1名の参加者」としてカウントされるし、就職や転職する際に書類を提出すれば「1名の志望者」としてカウントされる。誰かから数えられるということは社会で生きていればよくあることだ。だが、この「支援活動」において「J1」としてカウントされていたのは、それらとは明らかに感覚が違った。

このことを言語化するのは難しいのだが、おそらく信頼している人やよく知っている人から、「自分が共感していない価値観にもとづく目的を達成するための手段」として見られているような気がしたのだと思う。

具体的に言えば、広宣流布のため、池田先生のため、という価値観にもとづいて「公明党の議員を当選させたい」という目的を達成するために、筆者を一票として認識し手段として用いている、と受け止めたことで違和感や忌避感を覚えたのだと思う。それは、飲み会の参加者や就職や転職の希望者としてカウントされることとは違う。共感できない目的に巻き込まれ、手段として扱われているという自覚が芽生えたのだ。

■よく知る人が「まったく知らない人」に見えてくる

これは、非創価学会員がいままで普通に接してきた友人からの電話で、「今回の選挙なんだけど、、、」と投票依頼されたときに抱く感覚と似た感覚なのかもしれない。よく知っている相手から、よく分からない目的を達成するための手段として認識されているという感覚そんなに気持ちのいいものではないだろう。

あるいは、友人から投票依頼されたことで初めて相手が創価学会員だと知った場合、「よく知っている相手が、共感していない価値観に基づく目的を達成するための手段として見ていたことを知ることで、まったく知らない人のように見えてくる」という事態が起きている可能性も考えられる。これはそれなりに衝撃を受ける出来事ではあると思う。なんだか裏切られたような気持ちになる人もいるだろう。

筆者もこれに似た経験をしたことがある。それは会社の同僚からマルチ商法の勧誘を受けたときだ。同僚から健康食品のセールストークを聞かされたとき、急に知らない人と話しているような感覚に陥った。それなりに知っている人なのに、デトックスについて饒舌に語る同僚は筆者にとってまったく"知らない人"だった。

自身が積極的に関わっていない「支援活動」において「一票」としてカウントすることは、カウントしている側の意図を離れて結果的に「自分が共感していない価値観にもとづく目的を達成するための手段」として機能してしまっている。そして、このことは「宗教2世問題」とも深く関係していると筆者は考えている。

■手段として扱われることで、親への信頼が揺らぐ

さきほども紹介したように、筆者は学会アンチになるまでは選挙があるたびに両親にくっついて公明党を応援してきた。投票することはできなかったし深く考えていたわけでもなかったが、開票速報や”交流”を通じて「公明党の議員に選挙で勝って欲しい」と素朴に考えていた。

ただ、思春期を経て色々と自分でも考えるようになり、ある意味では反抗期の要素も混ざった形でアンチになったため、公明党の政策や価値観を支持しているわけではなかった。そしてなにより、創立者である池田大作氏のことを尊敬していなかった。そのため、「一票」としてカウントされたときは「『池田先生のために』のようなピンとこない目的を達成するための手段」にされているという感覚を覚えたのだろう。

このときから、あんなに楽しかった公明党に関する思い出を、自分の歴史のなかに上手く位置づけることができなくなってしまった。アンチになってから少しずつ支援活動に対する見方は変化していたのだが、このことをきっかけに開票速報や”交流”の思い出が本当に楽しかったのか分からなくなってしまったのだ。

■「投票依頼=加害行為」というわけではない

ここで念のため指摘しておきたいのだが、筆者は投票依頼という行為そのものに問題があると考えているわけではない。普段の生活でそこまで強く意識することはないが、投票依頼はこの社会においてありふれたものでもある。

創価学会でなくても、たとえば各地域の商店街や商工会に政党関係者がいれば、「今回の選挙なんだけど、、、」とお願いされることもあるだろう。また、政治活動でいえば投票依頼ではなくても共産党員による赤旗の購読依頼や、特定の政策に対する反対署名など、必ずしも依頼された側が共感していない価値観をもとにして「一部/一筆」を促される経験は存在している。

ただ、本稿で紹介している「家庭内での投票依頼」というのは、まさに家庭内という閉じた環境において、親子という結びつきの強い関係性のなかで行われていることであるため、上記のような事例とは異なる性格を持っている。

親子という、結びつきが強く簡単には逃れ難い関係性のなかで、親が自分のことを「共感していない価値観にもとづき、目的を達成するための手段」として見ているのではないかという感覚を抱くという経験は、親への信頼を失わせるものでもある。共感していない目的のために親が自分を手段として見ているのであれば、「親は自分よりも目的のほうを優先しているのではないか」と感じてしまうこともあるだろう。

これはそのほかの「宗教2世問題」とも共通していることだが、親子という関係性の複雑さと、教団内における特定の価値観との組み合わせから生じる被害や苦悩がそこにあると考えている。

親が自分の人格を目的としてではなく手段として扱っているのではないかという予感は、大袈裟に聞こえるかもしれないが子供の尊厳の深いところを傷つけてしまうおそれがある。

■「伝わりにくい苦しみ」をどう扱えばいいか

「親から手段として扱われていると感じる」というエピソードは、親が教団に対して多額の献金をしてしまい経済的に困窮しているというような旧統一教会における特徴的な被害や、親から鞭で打たれたことがあるといったエホバの証人における特徴的な被害と比べたら、もしかしたら地味なものだと思われるかもしれない。だからこそ、メディアではあまり取り上げられないのだろう。

経済的な被害や、体罰などの暴力を伴った被害は「宗教2世問題」に限らず子供を苦しめているし、社会全体として共有しやすい苦しみや被害だと言える。一方で、「家庭内での投票依頼」に関する苦しみ自体は存在するものの、もしかしたら「そもそも、なにが苦しいのか」ということが伝わりにくい事例なのかもしれない。

ただ、個人的な体験として親から投票依頼を受け、それが組織的に行なわれていることだということを知ったときに筆者は強いショックを受けたし、それまでの楽しかった思い出もあやふやなものになってしまうような感覚に陥ったことを考えてると、分かりやすい被害ではないにせよ、2世以降の信者がしんどさを感じるきっかけになりうる出来事だと考えられる。

開票速報中に行われる選挙ポスターの赤マルつけや、”交流”のような経験など、当時は楽しかった経験があるからこそ、余計にしんどい気持ちになったというのが、筆者が経験した「家庭内での投票依頼」による苦悩である。親子関係が良好であればあるほど、あるいは親に対する信頼度が高いほど、「自分は手段として扱われているのではないか」という疑念がわき上がってきたときのダメージは大きい。

もちろん、「家庭内での投票依頼」を受けても上手く対応してそれまでの親子関係を維持できれば問題ないし、そのように対応できている人もそれなりにいるとは思う。ただとはいえ、関係が悪化した場合に「上手く対応できない子供が悪い」という話にするべきではないだろう。投票依頼はあくまでも教団や親の都合で行なわれている行為なのだから、候補を当選させるために組織的に投票依頼を進めている教団と、そのなかで実際に投票依頼をする親に責任を求めるべきではないか。

ただ、この問題を根本的に解決するのは非常に難しい。創価学会による公明党への支援活動がここ数年で終わることはおそらくないだろうし、創価学会と公明党が存在し続ける限り、「家庭内での投票依頼」はなくならないと筆者は考えている。

では、この問題に対してできることはないのだろうか。解決方法を示さないこのnoteに存在価値はあるのだろうか。おそらく価値があるとすれば、そうした苦悩があるということを社会に伝えることにあると筆者は考えている。

■「被害告白」の難しさと、事件後の変化

宗教2世問題でよく指摘されるのが、「被害の自覚があったとしても、そのことを誰にも伝えることができない」ということだ。

被害を告白するということは"家の宗教"についてカミングアウトすることにもつながり、そのことによって社会からの偏見に晒されてしまうリスクもある。特に、山上徹也被告が安倍晋三元首相を射殺する以前は、一般社会において「宗教2世問題」そのものの認知度が低かったこともあり、被害や苦悩を語ること自体にハードルを感じてしまう側面もあったのではないか。

家の宗教のことを告白したうえに、話した相手から被害に対して共感してもらえないようなことになれば、被害告白はデメリットしかないものになってしまう。

ただ、事件後にテレビや新聞などで「宗教2世問題」が取り上げられるようになったことで、以前よりも被害の告白に対するハードルが下がったと感じている人もいるだろう。本稿の冒頭でも述べた通り、各教団における特徴的な被害内容が繰り返し報道されたことで、聞き手も「よくあること」として被害の告白を受け入れやすい状況になったという側面もあるかもしれない。被害を受けた宗教2世の告白は、以前よりも世の中に届きやすくなっている。

その一方で、明確な被害や、伝わりやすい被害を受けていない宗教2世の発言は世の中に届きにくいままになっているという印象もある。本稿の冒頭で「宗教2世問題」における各教団の代表的な被害としていくつかの事例を取り上げたが、当然ながら当事者が感じている苦悩をマスメディアがすべて取り上げているわけではない。

各教団の2世以降の会員が抱えている苦しみは、ある程度の特徴や傾向はあると考えられるものの、個人ごとに異なるものだろうし、本稿で取り上げた「家庭内での投票依頼」のように、各教団や当事者ごとに伝わりにくい苦悩も存在している可能性がある。その一方で、報道が加熱し、ある種の”型”のようなものが出来上がってくると、どうしても「典型的な被害」や「わかりやすい被害」に注目が集まるようになってしまう。

また、いわゆる「宗教2世」のなかには被害意識のない当事者も少なからずいるので、そうした当事者の存在が見えにくくなってしまい、あたかもすべての「宗教2世」が被害者であるかのような偏見が助長されてしまうおそれもある。こうした状況のなかで、”型”からこぼれ落ちた被害に注目することは、「宗教2世問題」を立体的に捉えるうえで必要なアプローチではないだろうか。

■「ここに苦しみがある」と伝えることの重要さ

本稿で述べてきたような「家庭内での投票依頼」がもたらす苦悩は特に報道もされていないし、こども家庭庁がまとめた「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」で取り上げられている事例に当てはまるものだと断言することもできない。

当事者としては間違いなくしんどいものではあるけれど、筆者の感覚からすれば、社会に対して堂々とこのしんどさを訴えられるものではないという気持ちが強い。世間にもあまり知られていないし、虐待なのかもわからない話だが、それでも信仰や教団の活動を背景にした構造がもたらす苦しみがここにあると言うべきだと筆者は考えている。

そのほかの宗教2世問題もそうであったように、まずは苦しみがあるということを伝えなければなにも始まらないからだ。

おそらく、この苦しみに対して行政が介入するのは困難であると考えられるし、さきほどのも述べたように創価学会と公明党が同時に存在する限りこの構造が大きく変化することはないかもしれない。早期に根本的な解決がなされることはないだろう。

ただ、こうした問題があるということが周知されることで、しんどい思いをしている2世以降の会員が声を上げやすくなる環境になってほしいと考えている。また、筆者も含めた現役信者の意識改革も必要だ。

■「目の前の一人を大切に」とは言うものの…

「家庭内での投票依頼」において、親は子を「一票」という数字で見てしまっているのではないか、という問題について実体験をもとに論じてきたが、それでは創価学会には「子供を数字として見ても構わない」という趣旨の教義が存在するのだろうか。筆者が知る限り、そうした教義は存在しない。むしろ、「一人の人間を大切にするべきだ」という価値観が重要であるという認識が会内でそれなりに広まっているという印象を持っている。

具体例をあげると、昨年の11月に亡くなった池田大作氏の有名な指導にこのようなものがある。

「目の前の『一人』に向き合い、どこまでも『一人』を大切に、『一人』を救い切っていく。ここにこそ、仏法の真髄があります」(*4)

『大白蓮華』2021年5月号 p.52

この指導は創価学会において非常に重要なものであり、さまざまな書籍や『聖教新聞』の紙面などでたびたび引用されている。長期間にわたって活発に活動している現役信者で、この指導に触れたことのない人を筆者は見たことがない。おそらく、そうした人がいるとしてもごく少数だろう。

とはいえ一方で、筆者が経験したように実際には「家庭内での投票依頼」において実質的に子供を「一票」という数字として認識してしまっている現役信者も少なくない。「目の前の一人を大切に」という指導が有名だったとしても、すべての現役信者がこの言葉通りに実践できているかといえば決してそうではないと筆者は捉えている。

信仰を持っていたとしても、あるいはまったく信仰を持っていなかったとしても、「目の前の一人を大切に」という価値観を実生活に落とし込むことは決して簡単なことではない。言うは易し、行なうは難し、というよくある事態が起きていると考えられる。

「家庭内での投票依頼」においては、自身の子供を「一票」として見るのではなく、一人の人間として向き合うことができるかどうかが問われているのではないか。(*5)

■虐待ではなかったとしても、しんどい体験は存在する

本稿では、創価学会における「家庭内での投票依頼」に起因する2世以降の会員の苦しみについて論じてきた。

熱心な信仰を持っている会員であれば、支援活動にも熱心になるのが創価学会の特徴でもあるため、信仰に熱心な親を持つ子供は選挙があるたびに投票依頼をされる可能性が高く、そのことにしんどさを感じている2世以降の会員も存在する。その一例として、筆者の体験を紹介した。

選挙があるたびに子供は「1票」としてカウントされ、親は地元組織に報告をあげる。このことによる苦悩は高額献金などによる経済的な問題や、いわゆる虐待ともいえない話ではある。さらに言えば、創価学会の2世以降のすべての信者がこの苦しみを抱えているかどうかもわからない。ただ、この「家庭内での投票依頼」には、2世以降の信者が信仰を背景にした親子関係の苦悩を感じる構造的な問題があると筆者は指摘したい。

■苦悩や周囲の環境は、当事者ごとに異なっている

いわゆる「宗教2世問題」に関する報道に触れていると、その被害の内容が実に多様であることがわかる。高額献金、恋愛禁止、身体的な虐待、進学先への過度な介入、参加したくない集会への強制参加、医療行為の制限などさまざまなものがある。本稿で紹介した特定の政党に対する投票依頼に関するやり取りについても、苦しんだ経験のある当事者が筆者以外にもいるはずだ。

ただ、それらの被害は教団ごとに特徴があるとはいえ、さきほども触れたように当然ながらその内容は当事者ごとに異なる。教団ごとの特徴的な被害事例は、あくまでも"特徴的なもの"にすぎず、当事者個人が抱える被害や苦悩のすべてが社会に共有されているわけではない。親や教団との関係や、宗教に対してネガティブな感情を持つ人からの加害行為や差別などの経験など、当事者の周囲を取り巻く環境もさまざまだ。

また、マスメディアなどでは「宗教2世問題」といえば「信仰のない2世信者が経験した被害」として取り上げられることが多い印象を受けている。その一方で、現役信者に対する社会からの偏見や差別も根強く、こうした被害も間違いなく「宗教2世問題」として取り上げられるべきだろう。

■「宗教2世による連帯」とそこからこぼれ落ちた当事者たち

マスメディアの報道によって多様な立場の当事者が見落とされてしまうおそれがある一方で、彼らが特徴的な被害を報じることにも重要な効果があると考えられる。

現在、「宗教2世問題」において取り上げられている被害には、高額献金などによる経済的な被害や、宗教的な価値観を背景として心理的、精神的な虐待などがあり、これらの被害を構成する要素の一部は「宗教2世問題」以外の領域においても問題化されているため、行政が対応しやすいというメリットがある。まさに、行政が対応するためのガイドラインがさきほども取り上げた「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」だ。

「宗教2世問題」に取り組むうえで政治的な対応を行っていくことは非常に重要なことであり、そうした働きかけの流れを作るためにマスメディアが果たした役割は多い。

特徴的であり行政が対応しやすい問題を報道することで、「典型的な宗教2世像」のようなものが出来上がってしまうリスクはあるものの、そうしたイメージを政府に対して共有することで問題の解決に向けた具体的な指針が見えてくるという側面もあるだろう。

こうしたマスメディアと政府のコミュニケーションは、限られた予算の中で出来るだけ多くの人を救うということを目的とした場合、大きな効果を発揮することが期待される。たとえば、昨年12月に可決された旧統一教会をめぐる問題を念頭においた「被害者救済特例法」はその成果の一つだと言える。

また、特徴的な被害事例や、典型的な宗教2世像が報道などによって形成されていくなかで、ある種の連帯が生まれつつある。特定の教団に限定した当事者グループや、広い意味で「宗教2世」の当事者であれば参加できるようなイベントなども開催されるようになってきている。

現役信者や被害意識のある「宗教2世」たちが、報道で取り上げられたり活発に活動している一方で、こうした動きからはこぼれ落ちている当事者がいるという現実にも目を向ける必要がある。特徴的な被害事例や、典型的な2世像に必ずしも当てはまらない当事者たちは、これらの連帯からはじき出されることになる。当事者同士の連帯によって世間に届けられた声の背後には、無数の「声にならない声」が存在している。

事件後のうねりのなかで少しずつ形成されてきた「宗教2世」の連帯は、すべての当事者を代表するものではない。これは現役信者によるものであっても、被害意識のある2世以降の信者によるものであってもその事情は変わらない。私たちの目に触れる当事者の背後にも声をあげていない多くの当事者がいるということは、どれだけ意識してもしすぎることはないほど重要なことだと筆者は考えている。

■「宗教2世」でもあり「目の前の一人」でもある

だからこそ、本稿をここまで読んでくれた読者に対してひとつお願いがある。もし、宗教2世の当事者から話を聞く機会があったら、「宗教2世当事者」としてだけではなく、「目の前の一人」として話を聞いてもらいたいのだ。

当事者のなかには親と教団に対して強い憎しみを抱いている人もいれば、親は好きだけど教団は嫌いという人もいるし、親は嫌いだけど教団の人間にはお世話になったという人もいる。また、信仰もなく被害意識もない人もいるし、筆者のように現時点では信仰心がある一方で過去に苦悩を抱いていた人もいる。

さらに言えば、マスメディアなどではあまり取り上げられないケースとして、親や教団に対して特に思うことはないが、社会からの偏見によってつらい思いをしてきた当事者も存在する。

本稿で取り上げたような教団ごとの特徴的な被害が存在するということと、「目の前の一人」がどのような思いを抱えているかということは本質的にはあまり関係がない。事件後に宗教2世たちがいままでよりも声を上げやすくなったことは確かだが、それでも社会からの偏見は根強いし、せっかく勇気を出して自身の経験を語ってもうまく受け入れられずに心を閉ざしてしまう当事者もいるだろう。(*6)

それこそ、本稿で論じた「家庭内での投票依頼による苦しみ」のような話は、マスメディアで取り上げられるような話と比べたらインパクトに欠けるかもしれないし、普段からテレビや新聞で壮絶な被害事例に触れている人は「こんなことで悩んでいるのか」と思うかもしれない。

もしかしたら「そんなことをしてきた親はひどいね」と同情してくれる人もいるかもしれないが、当事者の親との関係は複雑な場合もあるので、よくある「宗教2世問題」のイメージを前提にして接することで逆に当事者を傷つけてしまう場合もある。

マスメディアによって報じられてきた「特徴的な被害」や「典型的な宗教2世像」から一度離れて、「目の前の一人」として話を聞く態度を取れるかどうかで当事者固有の被害や苦悩の語りやすさが変わってくるのではないか、というのが筆者の仮説であり、同時に読者への提案でもある。

当事者が自身の経験を語ったとしても、聞き手がパッケージ化された「宗教2世」の話として受けとめていることが伝わってしまえば、語れる内容が狭まってしまうような事態が起きることは想像に難くない。

■「声にならない声」をどう受け止めていくか

さきほども述べた通り、被害の内容は多様であり、当事者による受け止めもさまざまだ。

当事者があなたに自身の経験を語り出したということは、おそらくあなたは当事者から一定程度は信頼されているはずだ。勇気を持って経験を語ってくれた当事者に対して、繰り返しになってしまうが、「宗教2世」であると同時に「目の前の一人」として接してあげてほしい。

そうした振る舞いによって、根本的な解決はできないかもしれないが、宗教2世の当事者が抱える苦悩を部分的に軽減する手伝いができると筆者は信じている。

いままで声を上げることすら思いつかなかった当事者や、声をあげたいと思っていても勇気が出なかったり、声を上げることを意識的にも無意識的にも阻害されてきた当事者の、声にもならない声が受け入れられることは、被害や苦悩から立ち上がるための大きな一歩となるはずた。

そうした場面が少しでも増えることを願って、本稿を終えることとする。

またね。


【注】

(*1)創価学会は90年以上の歴史がある古い新興宗教団体である。筆者の周辺には4〜5世信者が複数いるため、ここではあえて「2世以降の信者」としている。

(*2)荻上チキ編『宗教2世』(太田出版)p.52

(*3)これらのアルファベットは創価学会の支援活動で用いられている隠語である。『週刊東洋経済』や『週刊ダイヤモンド』などでもこの隠語が紹介されたことがあったが、「Z」は期日前投票を、「J」は投開票日当日の投票を意味している。「F」がフレンドの略であることはよく知られているが、これは投票依頼のことではなく、「友人に公明党のことを話した」というふわっとした定義のKPIである。そのため、マスメディアでよく紹介される「F票」というワードは、投票依頼の意味を含まない「F」と票をかけ合わせてしまっており、概念としてちぐはぐなものになっている。実際、支援活動の現場で「F票」というワードを聞いたことは一度もなく、打ち合わせなどで配布される資料でも見たことはない。

(*4)この指導は『大白蓮華』2021年5月号51頁からの引用だが、「目の前の一人を大切に」のような趣旨の指導は無数にあるため、本稿で引用したのはそのなかのひとつである。

(*5)2024年7月11日に講談社選書メチエから刊行されるレヴィ・マクローリン氏の『創価学会 現代日本の模倣国家』は、原書を読んだ友人によると本稿で述べたような創価学会における選挙活動や2世以降の信者に対する宗教教育や信仰の実践などにも触れており、非常に興味深い内容になっているとのこと。Amazonの商品紹介にも「二〇年以上にわたって創価学会員コミュニティに分け入り、彼らと交流を重ねたフィールドワークの成果と、文献資料を渉猟しての綿密な理論的分析が、ここに結実した。」とあり、日本の宗教社会学ではあまりみられなくなったアプローチによる創価学会研究書になると期待している。また、ほぼ同時期に社会学者で東京大学大学院准教授の開沼博氏が関わっている『「外部」と見た創価学会の現場』という書籍が、創価学会系の出版社である潮出版社から刊行される予定だ。こちらはもともと聖教新聞に連載されていたものであり、開沼氏がフィールドワークをもとに創価学会を「外部」から論じるものになっていると予想される。創価学会研究に関心がある方は、どちらも手に取ってみるといいかもしれない。

(*6)社会からの偏見に対する筆者の向き合い方や、そのことによる身体性の変化については別稿で改めて論じたい。noteのタイトルは【友達に信仰告白をしたら「殺さないで」と言われた"宗教2世"が、この社会で生き延びるために出した結論】となる予定だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?