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他では書いていない自己紹介、してみます。

1. まずは私がやってきたことと、やっていること。

初めまして。「ゆでたまごのすけ」こと、多賀大祐です。フリーランスの求人広告制作マンです。コピーライティングを軸としながら、ディレクションも手がけるスタイルで約25年、やってきました。大手求人サイトに掲載を希望される企業様の原稿制作が中心ですが、そこから派生したホームページやパンフレットなどの制作にディレクションとコピーライティングで携わったり、採用広報にとどまることなく説明会の企画・運営から内定者フォローまでトータルにコンサルティングしたりと、最近では自分が「何屋」なのかがわからなくなるような幅広い領域に対応しています。そんな経験を活かす機会として、市議会や中学校のホームページ制作をコーディネートした、などという実績もあります。

2. いずれ有料記事、書きます。

具体的にどんな案件を手がけてきたのか、知りたいと思う方もおられることでしょう。でも、このオープンな記事の中では具体的な案件名には触れません。今後、有料記事を掲載していこうとも思っていますが、そこでほんの少し、具体的な話をさせてもらうこともあるかもしれません。何せ「求人広告の制作」を手がけてきた人間ですから、「黒子」意識は常に持っているものなので(笑)。そのうち私が有料記事を掲載するようになったら、「おっ、有料でないと読めない話が出てくるのか?」と期待してもらっていいと思います。そんな期待にお応えできるネタのストックは、約25年の間に大量にしてありますから。なんていう、やらしいことは先に申し上げておきます。

3. 私がフリーランスになったワケ。

初回の記事として「自己紹介」というタイトルにしてみましたので、SNSやブログなどで語っていない「私がフリーランスの求人広告制作マンになった理由」を語ってみようかと思います。

一言で言えば、「成り行きで」です。元も子もない回答ですが、一言で言えばそうなります。私が現業に就いたのは25歳の時のこと、1995年からになりますが、それ以前は小さな編集プロダクションのような会社でサラリーマンをやっていました。サラリーマンになった理由は、当時つきあっていた彼女と結婚しようと思ったから。彼女の母親が「サラリーマンの人でないと結婚したらダメ」とおっしゃっており、じゃあしょうがない、とばかりに就職をした、という話でして。今から考えれば、そんな自分の人生の岐路を人のせいにして選択するなんて、なんとバカげたことをしたんだろうと思いますが、それも経験しないと気づくことのないことである、という話はまた別の機会にさせてもらうとして。

そんなこんなでサラリーマンになってはみたものの、とにかくお給料が安くて、毎年の昇給もほんのわずかという状況に「これはたまらん」と。転職を考えて求人誌(当時は求人情報と言えば求人誌でした)に目を通していたところ、業務委託契約による求人広告の制作ディレクター募集が掲載されていた。求人情報大手企業の募集で、その企業が展開する事業所での常駐になり、報酬は完全出来高制。「これだ!」と思ったわけですね。サラリーマンになって結婚をして、一人目の子どもも産まれていたのですが、どうせ反対されるだろうと思って家族には一切相談せず、応募しました。それで面接(この場合「面談」ですかね)を受けて、「勤務地(常駐先)はどこがいいですか?」と聞かれたので、「どこでもいいですけど、今は住まいが埼玉なので、大宮ですかね」と答えたら、スルッと常駐先が大宮の事業所に決まりました。それが、私のフリーランス人生をスタートさせた経緯になります。

4. 生き延びてこれた理由も、いずれ書きます。

そこから約25年、ずっとフリーランスを続けてきました。同じように業務委託契約で制作ディレクターを務めていた人たちもたくさんいましたが、リーマンショックをきっかけに、例えば求人情報大手企業の代理店にサラリーマンとして入社したり、他の仕事に移ったりした人も少なくありませんでした。そんな中でもなんとか生き延びてこれたのは、ステレオタイプですが自分のまわりにいる人たちに支えられてきたからだと思います。ステレオタイプな話ではなく、具体的になぜ生き延びてこられたかを語る記事も、いずれ書いてみようと思っていますので、どうぞお楽しみに。

長くなりましたが、他では書いていない自己紹介をさせていただきました。今後も定期的に記事をアップしていこうと思いますので、末長くよろしくお願いいたします。

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