感想:ドキュメンタリー『カフェ・ソスペーゾ 〜優しさがつなぐ一杯〜』メディアとしてのコーヒー

【製作:アメリカ合衆国、イタリア、アルゼンチン 2017年公開】

イタリア・ナポリ。この街のカフェには、余分に代金を支払うことで、誰かが無料でコーヒーを飲む権利を買える、「保留コーヒー(カフェ・ソスペーゾ)」という文化がある。
保留コーヒーを軸に、コーヒーを介して構築される人間関係や、ナポリの文化・社会においてコーヒーが果たす役割を、複数の人物の取材を通して描くドキュメンタリー。

見知らぬ誰かが無料で飲食できるよう、その分の代金を払う「保留」の文化は、近年日本でも取り入れられるようになっている(例:福岡『屋台 けいじ』の保留ラーメンなど)
これは困窮している人が食べ物やサービスにアクセスできるようにすることを目的としたシステムであり、直接(顔を見て/現金という形で)渡すことがない分、支援する側もされる側もコミットしやすい仕組みだ。

ナポリにおいて、「保留」システムはパン屋や美容室など、様々な商品・サービスに導入されているが、本ドキュメンタリーではコーヒーに焦点が当てられる。
このシステムやコーヒーそのものの「間接性」に注目し、様々な人を媒介する「メディア」としてのコーヒーを取り上げた作品だ(このため、支援・福祉という側面はあまり詳細には追求されていない)。

本作では主に3つのプロットがあり、それぞれ異なる環境にいる人々に、コーヒーとの関わりを取材している。映像を交錯させながら、3本の筋を展開する構成だ。
それぞれのプロットがテーマとするものは以下の通りである。

①支援・福祉としての保留コーヒー (少年犯罪などで保護観察処分を受けている人の職業訓練・実習の場としてのカフェ。当事者ジョンカルロと紹介支援者に取材)

②文化としてのコーヒー(ナポリ式コーヒーおよびそれに付随する文化の紹介。父がイタリア出身で、コーヒーを囲んで語り合う習慣をより浸透させるべくパーコレーターを販売する米国人エリザベスに取材)

③人と人との結節点としてのカフェ/コーヒー(境遇の異なる人どうしが時間を共にする場所としてのカフェ、そこにあるものとしてのコーヒーを取り上げる。あるカフェで執筆を行う小説家マルティン、同カフェのバリスタを取材)

それぞれのテーマは共通する要素を持ちつつも、完全に重なり合うことはない。
ジョンカルロや支援者が置かれた切実な生活の現状と、エリザベスが語るナポリ及びコーヒーのロマンティックなイメージは乖離している。
ただ、そういった異なる背景や環境の人々を結びつけるものとして、コーヒーは機能しているともいえる。(これがマルティンのセクションにあたる)

飲料としてのコーヒーの歴史は、15世紀後半にイスラム神秘主義者が利用したことから始まるとされる。飲用できる状態にするまで手間がかかり、人間の生命維持に資する飲食物とはいえないコーヒーは嗜好品であり、そのために積極的に付加価値がつけられた。
宗教的な場面での利用をルーツに持つことからも、コーヒーは人が集合し、社交する場にあるものという特徴がある。当初コーヒーの淹れ方を実演し、コーヒーそのものを普及させるためにつくられたコーヒー・ハウスは、次第に人が集まることそのものに重点が置かれるようになり、社交クラブへとその性質を変えていった。
本作でエリザベスが述べるように、ナポリのコーヒー文化は人を媒介するものとしての性質を色濃く受け継いでいる。
ナポリでは知人にコーヒーを飲もうと誘うことで、時間に縛られず何時間も語り合う場が生じるという。こうした「余剰」の時間が豊かな人間関係をつくるのだとエリザベスは語る。
コーヒーは人が交流する契機をつくる。この性質は、支援・福祉の側面でもみられるものだ。

保護観察対象者はカフェで仕事を覚え、客と接することを通して、社会で生活基盤を整えるために必要な姿勢やスキル、精神的な余裕を身につけていく。
また、同カフェは少年刑務所の傍にあり、裁判官や弁護士がしばしば利用する。保護観察対象者が彼らにコーヒーを出すことは、立場の境界を越えたコミュニケーションになりうる。
職業訓練の支援紹介者は、カフェでの職業訓練を「保留コーヒー」になぞらえて「少年たちの人生を"保留"する」という。システマティックな流れの中では困窮や苦境に陥りやすい彼らに対し、トレーニングと雇用の中間にある安定した場所を設けることで、観察期間後に社会で円滑に生きていくための手助けを行うのだ。

本作は複数の取材対象の身の上話を交互に重ねることで展開する。ジョンカルロや、マルティンの通うカフェのバリスタ(トランスヴェスタイトであり、夜はショーパフォーマンスを行う)など、マイノリティの立場にある人の語りと、エリザベスやマルティンなど、どちらかといえばマジョリティの立場にいる人の語りは、コーヒーを共通項として同じ映像の中に収まる。
作品のレベルでも、コーヒーが人と人とを媒介する構図がとられているといえる。

本作は、様々なショットサイズで取材対象を捉え、語りの内容に合わせて映像を編集している(取材時には特に意図のないものだったかもしれない沈黙や視線の迷いを、映像の文脈に合わせて配置し、「意味を持たせる」など)など、映像としてはフィクショナルな性質が強い。
しかし、取材対象の顛末は「予定調和」とは大きく異なるものだ。
ジョンカルロはインタビュー内では自分の心情を素直に吐露し、カフェで順調にスキルを身につけ、自らの状況を肯定しているようにみえる。
しかし、終盤で唐突に、彼が保護観察期間を残してナポリから姿を消したというテロップが挿入される。
また、作家のマルティンは取材途中で急死し、「彼は会話を"保留"してしまった」と表現される。
ドキュメンタリーというジャンルが「つくられた」ものであること、その枠組みを現実が越えていくことを裏づける作品であり、映像が技巧的に編集されているだけにそのギャップは印象深かった。
コーヒーや映像といったメディアはあくまで媒介であり、その後の望ましい展開の契機にはなっても、それを保証するものではない。この点でも、本作はメディアや人間の関係を俯瞰的に表した作品だといえると感じた。

参考:臼井隆一郎『コーヒーが廻り、世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』中公新書、1992年

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