【掌編小説】レディ・ジェーン・グレイのダンス
「1,2,3。1,2,3。そして、ターン」
ロンドンの中心部を流れるテムズ川。その川岸では、かつてはロンドンを外敵から守るための要塞、国王が居住する宮殿として使用され、その後、身分の高い王侯貴族の収監、処刑をする監獄としても使用されるようになったロンドン塔が、硬く冷たい石造りの姿で周囲を威圧している。
ロンドン塔に潜むワタリガラスの他は、渡り鳥でさえその周囲を飛ぶことを避けるといわれるロンドン塔の一角、ナサニエル・パートリッジズ・ハウスと呼ばれる場所では、若く美しい娘が一人、石造りの部屋の中でダンスを踊っていた。
彼女の名は、ジェーン・グレイ。16歳の少女だ。
イングランド王家に繋がる彼女は、その血統に注目したウォリック伯の政争に巻き込まれ、彼の息子と結婚することとなった。そして、イングランド王エドワード6世の死後、誰もがその後に王位に就くと考えていたヘンリー8世の娘メアリーを追い落とし、イングランド初の女王の座についたのであった。
これは彼女が望んだものではなく、カソリックのメアリーが王座に就くことを恐れたプロテスタントのウォリック伯の差し金であった。しかし、事態はウォリック伯の目論見通りには進まなかった。彼はメアリーの身柄を拘束できず、難を逃れてサフォークで即位を宣言したメアリーに世論は味方することとなった。その結果、ジェーンとその夫はメアリー派に逮捕され、ロンドン塔に幽閉されることとなった。ジェーンの在位期間はわずかに9日間であった。
もともと、ジェーンに野心があったわけではない。むしろ、彼女は物静かな女性で争いを好まぬ性格であったという。そのため、ウォリック伯により政界や社交界に連れ出された彼女は、戸惑うことがとても多かった。昨日までの友が今日は敵となっている政治の世界。裏の裏を読む必要がある会話ばかりが行き交う社交界。そのような世界に彼女がなじめるはずもなかったのだ。しかし、その中で、一つだけ彼女が愛したものがあった。それは、ダンスであった。
音楽に合わせて体を動かす、その人間の根源に刻み込まれた楽しみには、表も裏もない。彼女にとって、ダンスをしているときだけが、唯一の安らげる時間だった。
彼女の意思とは全く関係がなく、彼女の周囲で物事が激しく動き、突然に「あなたが女王となりこの国を統べる」のだと言われた。神が自分にお与えになった仕事ならばと思い、「女王陛下万歳」の叫びに少しでも応えようと心を決めたのもつかの間、わずか数日で今度は「大逆の徒」と罵声を浴びせられ、ロンドン塔の一室へ幽閉されることとなってしまった。それから7か月。彼女は、硬く冷たい石造りの部屋の中で、孤独な時を過ごしているのだ。
ジェーンが幽閉された部屋は、王族が過ごす部屋とはとても思えない、片隅に粗末な寝台があるだけの部屋だった。もともとは看守用の住居として使われていた部屋なのだ。もちろん、掃除の手が入るわけもない。しかし、部屋の隅を除けば、その石床は磨かれたように綺麗だった。
なぜならば、時間と体力のある限り、ジェーンが独りでダンスを続けていたからだ。あまりにも目まぐるしく変わる情勢や今後の自分の運命に対する不安や苛立ち。そのような怪物も、ダンスをしている限り、ジェーンを襲ってくることはなかった。毎日毎日、日が昇ってから日が沈むまで、ジェーンは独り、ダンスを続けていた。そして、いつしか、ジェーンはダンスの世界の住人となっていた。
ギギギイイ・・・。
ある日、鉄枠で補強された分厚い扉が開かれると、二名の侍女を従えた神官が静かに部屋の中へ入ってきた。
部屋の中を円を描くように回っていたジェーンは、不思議なものを見るかのように暫くの間彼らを見つめると、また再び踊りだした。
神官は何も言わずに、傍らの侍女たちに手で合図を行った。侍女たちは、ジェーンに非礼を詫びながら、一人はその踊りを止め、もう一人は白い布を巻き付けて彼女の目を覆った。ジェーンはそれに抵抗することはなかったが、その足はリズムをとるように常に動かされ続けていた。
用意と言えば、ただそれだけだった。
先を歩く神官に従って、7か月を過ごした部屋を出るジェーン。その傍らには、目隠しをされた彼女を支えるかのように侍女が二人。一行の後ろには、万が一にも彼女が暴れ出した時に備えるために、部屋の外で待機していた兵士が続く。だが、ジェーンにはその必要はなかった。
「新しい舞踏会会場に移動するのだわ。こんどはどのような音楽が流れるのかしら」
神官に付き従うジェーンの足取りは、歩くというよりはダンスのステップを踏んでいるようであった。
窓が少なく薄暗い廊下をしばらく進んだ先は、タワーグリーンと呼ばれる一角であった。ゆっくりと、歩を進める一行。だが、進むにつれてその歩みは段々と遅くなっていくのだった。ジェーンが遅れるのではない。少しずつ近づいてくるあの部屋に対する恐怖が、二人の侍女の足を遅らせていたのだった。恐怖と不安という逆風は、その部屋が近づくにつれて、増々勢いを増していくのだった。
やがて、一行は、その部屋に辿り着いた。
神官は部屋の入口を警備している兵士に頷き、兵士が開けた扉からその中に入っていった。部屋の中では、全てを見届けるために遣わされたのであろう貴族らしき男が一人と、彼とは対照的な屈強な男が一人、ジェーンたちを待っていた。この部屋もジェーンが幽閉されていた部屋と同じく石造りであったが、中央に置かれた木製の台を中心として、稲わらが敷き詰められていた。稲わらのにおいだろうか。いや、植物のにおいではない、もっと別の強い臭気が、床から、壁から、天上から、立ち上がっていた。
先に部屋に入った神官は、後ろを振り返りジェーンたちに入るように促した。
ジェーンの傍らを歩き彼女を導いていた侍女たちが、その幾人もの高貴な人物の血が染みついた部屋に入ることができすに、とうとう立ちすくんでしまっていたのだった。
「どうしたのかしら」
ジェーンは急に動きが止まった傍らの二人を訝しく思いつつも、両手を前に出してゆっくりと前へ歩きだした。その姿は、パートナーに手を差し伸べるしぐさにも見えた。神官は、その手をとると、優しく彼女を部屋の中へと招き入れた。
誰しもこのような事柄は早く済ませてしまいたいと思うものだ。ジェーンが部屋の中に足を踏み入れたことを確認すると直ぐに、貴族の男は手にしていた羊皮紙を広げ、早口でジェーンの罪状を読み上げて、神官たちに合図を送った。
その合図を受け、神官はジェーンを部屋の中央へ導き、屈強な男は壁に立てかけてあった愛用の斧に手を触れた。
「あら、今度のパートナーは貴方なのね。よろしくお願いいたします」
男性の大きな手が自分の手を包み何処かへ導いていることを感じたジェーンは、膝をかがめて相手に対して挨拶を行った。今度のダンスはなんだろうか。静かな曲だろうか、それとも、明るい曲だろうか。1,2,3。1,2,3。ワルツのリズムが自然とジェーンの唇から洩れた。
果たして、神官の捧げる最後の祈りはジェーンの耳に届いたのだろうか。
神官によって断頭台に導かれる間も、ジェーンはリズムを刻んでいた。
「1,2,3。1,2,3。ゆっくりゆっくり、ナチュラルターン。大きく会場全体を回ってみよう。ダンスは笑顔を忘れずに。アウトサイドチェンジして、ナチュラルターン。もう一度、ドンッ、あれ、大きな音がし」
屈強な男が降り下ろした斧は、一撃でジェーンの首を切り落とした。その激しい衝撃で目隠しが吹き飛んだジェーンの首は、床の上で一度回転したあと、鮮血を床にまき散らしながら部屋の反対側まで転がった。そして、ジェーンの首は、その場所であたかもダンスのターンのようにもう一度回転して、神官たちの方を向いた状態で動きを止めた。
レディ・ジェーン・グレイ。16歳。
神官たちを見つめる少女の顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。
PAUL DELAROCHE - Ejecución de Lady Jane Grey (National Gallery de Londres, 1834)
※ポール・ドラローシュは、ジェーン・グレイが地下牢で処刑された様子を描いているが、実際のジェーン・グレイはロンドン塔内のタワー・グリーン(広場)で処刑されている。また、場所の他にも、衣装などについても、絵画的表現のために史実と異なるように描いている。
本作「レディ・ジェーン・グレイのダンス」は、ポール・ドラローシュの絵から発想を得たものであり、史実と異なるものであることを、申し添えます。
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