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月の砂漠のかぐや姫 第29話

「あ、ああ」

 予想もしなかったほどの羽の勢いに少し気圧されながら、有隣は答えました。

「竹姫は、次の日にはもう目を覚まされていたよ。どこにも怪我はされていないし、羽が心配することはないよ」

 そうです、大伴が羽と共にバダインジャラン砂漠から連れ帰ってきた際には、竹姫はぐったりとして意識がない状態だったのですが、その次の朝には、無事に目を覚ましていたのでした。
 そのため、最初は羽のことを酷く心配していた有隣も、「寝込んではいるけど、羽もそのうちに目覚めるだろう」と、安心することができていたのでした。
 とはいえ、一度自分の中で羽の状態をこうと見定めると、それ以上は無用に心配を膨らませることをしないという心の強さは、若者頭の妻として多くの経験を積んだ有隣ならではのものでした。

「そうか、無事か、良かった」

 有隣の言葉を聞いて、羽は大きく息をつきました。心配事が晴れたせいか、心も体も羽が生えたかのように軽く感じました。
 でも、体中から力が抜けてしまって、その極めて軽く感じる身体さえも支えることができずに、その場にしゃがみこんでしまいました。
 その時、宿営地の入口から、羽の聞きなれた声が響いて来ました。

「あー、もう、待ってー、小冬ー」

 竹姫の声です。しゃがみ込んだまま声の方を振り返った羽が目にしたのは、小ぶりな水瓶を抱えて歩く小冬と、同じく小ぶりな水瓶一つを不器用そうに両手で持ちながら、その後ろに続いている竹姫の姿でした。

「あ、羽兄、起きたんだね!」
「羽! 目が覚めたんだね、良かった、ほんとに良かった。心配していたんだよっ」

 二人は、天幕の傍らでしゃがみ込んでいる羽の姿を目にすると、とても嬉しそうな声を上げました。
 すぐにでも、羽に駆け寄ろうとするのですが、それぞれ水がいっぱいに入った重い水瓶を持っています。しかたなく、水を貯めている壺の方へと足を進めるのですが、その間も顔だけは羽の方を向いているのでした。
 手にしている水瓶の口から水が壺へ落ちていくのをもどかしそうに眺めながら、冬と竹姫は壺を水で満たしていきました。二人とも、長く眠り込んでいる羽のことをとても心配していたものですから、こうして羽が目を覚まして天幕の外にいるところを目にして、ほっとして、嬉しくて、早く彼の近くに行きたくて、仕方なかったのでした。
 自分の瓶の水をすべて注ぎ終えると、竹姫は瓶をその場に転がしたまま、羽の方へ駆け出しました。冬も自分の瓶を空にしてすぐに羽に走り寄ろうとしましたが、こちらはその手を有隣に掴まれてしまいました。

「なにを、するん、むぐっ」

 大好きな羽兄の傍に行きたいのに邪魔をされた冬は、有隣の方を向いて大きな声で文句を言おうとしましたが、今度はその口を有隣の手の平で塞がれてしまいました。

「むぐむぐっ」

 ばたばたと暴れて抵抗する冬でしたが、有隣の前では生まれたての子羊のように無力でした。
 久しぶりに目が覚めた羽にじゃれつこうとしていた冬を引きずりながら、有隣は天幕を離れました。それは、日頃から仲の良い竹姫と羽を、二人だけにしてやろうという、有隣の気づかいなのでした。
 冬には可哀そうなのですが、羽には、有隣のそのような気遣いに気付く余裕すら、ありませんでした。有隣に「竹姫は大丈夫だよ」と聞かされて安心はしたものの、竹姫の声が聞こえたときから、やはりその眼で竹姫の無事を確認したいという思いで心が一杯になってしまい、彼の視界に竹姫の姿しか入らなくなっていたのでした。
 座り込んでいた羽は、急いで飛び起きると、自分からも竹姫に駆け寄りました。
 天幕の傍らで向き合う、竹姫と羽。それぞれの表情には、相手のことを心配する気持ちと、こうして無事な姿を見ることができた安堵が、表われていました。

「かぐ、いや、竹。大丈夫なのか、身体は」
「う、うん。大丈夫だよ、ありがとう。わたしよりも羽こそ大丈夫なの、三日も寝込んでいたけど」

 竹姫は、羽の勢いに少しびっくりしたような様子を見せながらも、笑顔で答えました。
 砂漠から帰って来た次の日に目覚めた自分よりも、三日も寝込んでいた羽の方がよっぽど身体が大変であったはずです。それなのに、これほどまでに自分のことを心配してくれる羽の気持ちが嬉しかったのでした。
 羽は、竹姫の元気な様子を間近で見ることが出来て安心しました。どうやら、本当に大きな怪我もないようです。それに、自分が目覚めたことを、竹姫が素直に喜んでくれていることが、羽にも伝わってきました。

「ん‥‥‥」

 羽は、心のどこかでわずかな違和感を覚えましたが、それは、竹姫の元気な姿を見た喜びと安心感の前では、鼓草の綿毛ほどの重さも持ち得ず、すぐに心の外へ吹き飛んで行ってしまいました。

「良かった、良かったよ。竹が無事で本当に良かった‥‥‥」

 日頃は大人たちに交じって遊牧の仕事をすることが多くて、子供らしい表情よりも、年齢以上に大人びた表情を見せることが多い羽でしたが、この時ばかりは安堵のあまり、子供の様に両手を振り回して、全身で喜びの感情を表すのでした。


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