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【短編小説】タヤの神様はどこに居るのか

     Ⅰ グレゴリー

「やれやれ、疲れた……」
 重い木戸を勢いよく押し開け、大柄な男が小屋の中へ入って来た。
 日焼けした肌。毎日の労働で鍛えられた筋肉。
 肘や膝にしっかりと当て布を施した衣類。
 ゴトンと鈍い音と共に壁に立てかけられた斧と大きな荷物を見るまでもなく、肉体労働で糧を得ている男であることが一目でわかる。
 この男の名はグレゴリーと言う。彼が入って来た粗末な小屋は、エルプルス山の裾野に広がる森の中に建てられている。
 グレゴリーは、春と夏は黒海近くの村に降りて農作業を手伝い、秋と冬はこの小屋に上がって炭焼きをしている。短い夏が終わり、時には涼やかな風が吹くようになってきたので、彼は炭焼き小屋へと生活の拠点を移すことに決め、重い荷物を抱えながら山道を登ってきたのだった。
 小麦の刈り入れの時期には村に降りて手伝いをするし、森で切り出した木の一部を薪として村人に売ったりもするので、小屋に籠りきりになるという訳ではない。だが、これまでの村の中での賑やかな共同生活から一変して、次の春が来るまでの間は、自然と向き合う静かな生活が続くのであった。
 沈みつつある夕日の光が小屋の中に届いているうちにと、急いで部屋の奥に行き囲炉裏に火を起こす。燃やす物には事欠かない。炭焼きに使うにも薪として村で売るのにも適さない端くれが、ここにはいくらでもあるのだから。
 囲炉裏の炎が安定したのを見届けると、ふうっと安堵の息が漏れた。ボボウッと元気よく揺れる炎は夜の闇と冷気から彼らを守ってくれる力強い味方で、それを暗くなる前に確保できたことが、大きな安心感をもたらしてくれるのだ。
 ググッと伸びをして緊張をほぐしながら、半年ぶりに訪れた小屋の様子を確認するグレゴリー。
 そこに、荒い息を吐きながら、新たな男が入って来た。
「はぁはぁ、酷いよ、父ちゃん。先に行ってしまって……。はぁ、ああっ、疲れたぁ」
「ハハッ、悪かったな、アレク。どうしても日が暮れる前に囲炉裏に火を入れたかったんだ。それに、もうこの近くまで来ていたしな。お前にとっても、ここらは慣れた場所なんだから、先に行かせてもらっても大丈夫だと思ったんだよ。な、大丈夫だろ?」
「そ、そりゃ、俺ももう子供じゃないんだから、大丈夫だけどさっ」
 ゴンッとこちらはいささか軽い音を立てながら、小ぶりな斧を壁に立てかけたこの男は、グレゴリーと比べると腰までほどの背丈しかない。顔つきが幼いのも当然だ。この男は、まだ十歳にも達していない少年なのだから。
 彼の名は、アレクセイ。グレゴリーの息子である。
 グレゴリーの妻、つまり、アレクセイの母親は、アレクセイの弟を産み落とした際に死んだ。そして、ヴァーンと名付けられた赤子も、翌年の誕生日を迎えることなく死んだ。
 後に「中世ヨーロッパ」と呼ばれるようになるこの時代・地域では、栄養状態や衛生環境が十分ではなく、出産の際には母親と赤子の命は大きな危険にさらされていた。また、無事に誕生したとしても、乳児の死亡率は非常に高かった。そのため、グレゴリーのように妻や子供を亡くした男は珍しくなかった。
 幼くして母を失ったアレクセイ。グレゴリーが村で農作業を手伝っている間は、雇い主に彼の面倒を見てもらうことができたが、森の中ではそうはいかない。グレゴリーは息子を連れながら木を切り炭を焼くようになったから、アレクセイの方もこの辺りの事を良く知るようになったのだった。
「さあ、荷物を置いたら、寝床の準備をするぞ。なにせ半年ぶりだからな、敷き藁に虫がいないか、腐っていないか、よく確認をしてくれ。任せたからな」
「わかってるよ。あーあ、しんどいなぁ」
 口をとがらせながらでもきびきびと動くアレクセイを見て、グレゴリーは苦笑する。口では文句を言いながらでも、息子は何かを任されるのが嬉しい年ごろなのだ。
 窓にはめ込まれた板を外し、小屋の中に新鮮な空気を入れる。格子越しに覗いた空は、茜色から藍色へと変わり始めていた。黒々とした山陰の上では、数多くの星たちが存在を主張し始めている。
「明日も良い天気になりそうだな」
 グレゴリーは、満足げな表情を浮かべ頷く。
 今日はもう遅い。山を登って来て疲れてもいるし、早々に休むことにしよう。
 小屋の真ん中には、彼の父の代から使われている机と椅子が置かれている。
 グレゴリーは椅子に着くと、息子にも座るように命じた。
 二人は神妙な顔をして目を閉じると、胸の前で両手を握り合わせた。
 グレゴリーの口から落ち着いた声で、一日の終わりを無事に迎えることができる感謝の祈りが、神に捧げられた。
 キリスト教がこの地域に伝わってから、もう数世代は経つ。生きることが辛く困難であるこの時代では、信じる者は死後に神の下で幸せに暮らせるという教えが、人々の心の支えになっているのだった。
 祈りを終えたグレゴリーは、ベッドへ息子を連れて行く。
「祈りを唱和する声が大分眠そうだったが、仕方がない。ここまで上がって来るのに、疲れたんだろうしな。ゆっくり休んで、明日からは頑張ってもらわないと……。ああ、そうだ」
 横にした途端に眠りに落ちそうになる息子に、グレゴリーは語り掛けた。
「アレク、明日は仕事に行く前にタヤの所に寄るか」
「うんっ、そうだよ! タヤの所には絶対に行かなきゃ、父ちゃん!」
「よし、決まりだ。じゃあ、ゆっくり休んでくれ。アレク」
「お休みなさ、い。とう……」
 やはり、小さなアレクセイは相当に疲れていたのだろう。おやすみを言い終わるやいなや、彼は寝息を立て始めていた。
「タヤ、か」
 タヤという名前を聞いた時に浮かんだ心からの笑顔のまま眠りに落ちたアレクセイ。その寝顔を見つめるグレゴリーの表情は、息子のそれとは対照的に、親しみや気がかりが複雑に入り混じったものだった。

 翌日、周囲が明るくなるのと同時に活動を始めたグレゴリー親子は、パンとエールの朝食を手早く済ませると、一日の無事を神に祈った後で、小屋を出た。
 これからしばらくの間は、適当な木を見つけて切り倒し、炭焼きに使用する材に加工してからしっかりと乾燥させるという作業が続く。だが、その仕事に入る前に、今日は行くところがあるのだった。
 グレゴリーもアレクセイも、商売道具である斧は小屋に置いたままだ。仕事に出る時よりはずいぶんと身軽な格好で、林立するカラマツの間を走る小道を進んでいく。
 ここはほとんど通る人がない道だから、獣道と大して変わらない。これが人の住む所へと続く小道であることは、知っているものでないとわからないほどだ。それに、自然の様子は日々変わるというのに半年ぶりに小道に足を踏み入れたものだから、グレゴリーは度々立ち止まって、自分が正しい方向へ進んでいるかを確認しなければならなかった。
「父ちゃん、こっちだよ」
 その度に方向を指し示したのは、道端で拾った小枝を上機嫌で振り回しながら歩くアレクセイだった。
 父よりも息子の方が良く道を覚えているのは、大人よりも子供の方が記憶力が良いからなのか、それとも、目線が地面に近いからなのか。いや、グレゴリーには、自分よりも息子の方が、タヤに対する思い入れが強いからだと思えた。
 小道は何度も折り返しながら、勾配を登ってゆく。木漏れ日が描くまだら模様を踏みしめながら小一時間も進むと、僅かに海の匂いを感じるようになる。そして、道は急に開けたところに出る。
 エルプルス山の裾野に広がる森林の縁から、黒海に向かって小さな高台が突き出しているのが、前面に見える。それはまるで、海風を嗅ぐために突き出した驢馬の鼻先のような形をしている。高台には木柵で囲われた一角があり、グレゴリーの炭焼き小屋と同じほど古い小屋が立っている。小道はその高台の小屋へと続いていた。
 小屋の方からは、山羊の啼く声が鶏の鳴き声を伴って伝わって来る。木柵の中で飼われているのだ。
「ありがたい、山羊があそこにいるということは、家の中か裏の野菜畑にタヤがいるということだ。彼女が山羊を連れて薬草取りに行っていたら、出直しになるところだった」
 グレゴリーは、タヤへの土産として右手に下げている、荒縄で縛った小さな木樽を持ち直した。アレクセイの方はと言えば、既に「タヤーッ」と歓声を上げながら駆け出している。
 アレクセイの声が届いたのだろうか、小屋の中から人が出て来た。大きく膨らんだスカートの様子から、離れたところからでもそれが女性だとわかる。
「アレクーッ、グレゴリーさーんっ」
 大きな声でこちらに呼び掛けながら、女性は右手を振った。
 小鳥の声を思わせるような、涼やかで良く通る声。やはり、グレゴリーの思ったとおり、その女性はタヤだった。
 グレゴリーは、木樽を左手に持ち替えると、大きく右手を振り返した。

「半年ぶりだねー。大きくなったね、アレクー」
「こらっ、頭撫でんなよ、タヤ。俺はもう子供じゃないんだからな」
「なんだとー。生意気だ。こうしてやる、ワシワシワシッ」
「うわ、わわわ。髪をグシャグシャにすんなっ」
 高台へと駆け上がったグレゴリーたちは、タヤの小屋の中でくつろいでいた。
 実の姉弟のようにじゃれ合うタヤとアレクセイを、グレゴリーは笑いながら見守っている。
 タヤはこの山小屋に一人で住んでいる、まだ二十歳にならない若い娘だ。頭巾の下からは満月を映したような淡い色合いの金髪が腰まで伸びていて、細身の身体が軽やかに回る度に、白鳥が広げた翼のように宙に舞う。寡黙でゆっくりとした動作のグレゴリーとは対照的だ。
 父親のそのまた父親の代からあの炭焼き小屋を使っているグレゴリーとは違って、タヤはこの土地の人間ではない。十年ほど前に、彼女は母親のクレテに連れられて北の方からやってきたのだ。
 実のところは、タヤが住むこの小屋も、適当な木を切って炭を焼き、それが終わると、森の中を移動して新たに適当な木を探す、ということを繰り返す炭焼きが使う作業場の一つだ。この地にやってきた彼女と母親が、村の中に落ち着くところを見つけられずに困っていた時に、グレゴリーの父親が「あまり使っていないから」と小屋の一つを貸し与えたものだ。
 その事については、村人の中からグレゴリーの父親を非難する声も上がったと言う。一方で、教会の司祭からは、父親に感謝の言葉が贈られたとも聞く。
 彼女たちが余所者だから、村人はそれを嫌ったのだろうか? もちろん、それも幾らかはあった。だが、この村にはヨーロッパから黒海沿いに南下してきた街道が通っていて、それはコーカサス山脈沿いにカスピ海にまで繋がっていた。余所者を見かけたり、その者たちが村に滞在したりすることは、それほど珍しいことではなかったから、その事だけで彼女たちがこの地に留まることを嫌がったわけではなかった。
 では、彼女たちが異教徒、例えば、過去にこの地でキリスト教徒と勢力争いを繰り広げたゾロアスター教徒であったり、近年カスピ海側の隣国にまで勢力を伸ばしてきたイスラム教徒であったりした、というのが理由だったのだろうか。
 いや、そうではなかった。仮に彼女たちがそのような異教を信じる者であったとしたら、炭焼き小屋を提供したグレゴリーの父に、教会が感謝の言葉を贈ることは無かっただろう。
 では、何が問題だったのであろうか。
 それは、クレテとタヤの親子が、イスラム教などのはっきりとキリスト教と敵対する教えを信じる者ではなかったが、かつてこの地で信じられていた自然信仰の徒であるということだった。
 キリスト教会、特にこの地に広がっている正教会は、体系化されていない土着の信仰を積極的に自らに取り込むことで、信者を増やしていた。つまり、教会にとっては、昔からの言い伝えを信じる者は敵ではなくて、閉じている眼を開いて正しい教えに導いてやるべき迷える子羊なのであった。だからこそ、彼女たちに手を差し伸べてやったグレゴリーの父親に対して、教会は感謝を示したのであった。
 一方で、村人にとっては、自分たちより前の世代が捨て去った教えを未だに信じる者は、誤った考えに固執する頑固者であり、得体の知れない者であった。異教徒と言う、明確に自分たちと相容れない存在ではないものの、積極的に彼女たちと付き合いをしたいとはとうてい思えなかったのだ。
 母親とタヤがこの小屋で過ごし始めた頃は、グレゴリーにとっては妻と下の子供を失って直ぐだった。彼も始めは母親とタヤに対して距離を取っていたが、戦に巻き込まれて父が死に、一人で森の中で作業をしながらアレクセイを育てなければならなくなった後では、同じ森で暮らすクレテとタヤの力を借りるようになっていた。
 グレゴリーたちとタヤたちとの距離が大きく縮まったのは、いまから五年ほど前に、まだ三歳だったアレクセイが高熱を出して寝込み、その世話をクレテが行った時からだ。
 グレゴリーはタヤの顔を見る度に、あの時の事を思い出す。そして、感謝と申し訳なさで胸が熱くなるのを感じる。タヤが彼に対して恨み言を言ったことは一度も無いが、グレゴリーは彼女に大きな負い目を感じていた。

「グレゴリーさん、良かったらお昼を食べていきませんか。せっかくの葡萄酒もいただきたいですし、山羊の乳で作ったチーズも食べていただきたいです。あ、それに、鍛冶屋のセルゲイさんから薬草を差し上げたお返しにと貰ったパンもありますよ。ね、食べてくよね、アレク?」
「うん! いいよね、父ちゃん?」
 一頻り賑やかな挨拶を交わした後で、タヤは二人を昼食に誘った。
 まだ、森に戻って来てから何の仕事もしていないのだが、タヤと会うのは半年ぶりで色々と話をしてみたい。それに、アレクはもうすっかりとその気になって、先に椅子に腰かけているほどだ。
「ありがとう。じゃあ、ごちそうになるよ」
 グレゴリーが彼女に答える声は、自分でも意外なほど明るいものだった。

     Ⅱ アレクセイ

 季節は進み、森の一部では木々が黄色や赤色に装いを変え始めている。
陽が落ちるのもずいぶんと早くなったので、グレゴリーとアレクセイの親子が屋外作業を切り上げる時間も早くなってきていた。
「ふああーっ。つっかれたー!」
 パンとスープの夕食を済ませたアレクセイは、大きな欠伸をしながらベッドに向かった。
 部屋の奥にある囲炉裏には火が入っているものの、夜になると炭焼き小屋の中にまで冷気が忍び込んでくる。ベッドに潜り込んだアレクセイの胸の上まで、グレゴリーはしっかりと毛布を引き上げた。
「アレク、ちゃんと寝る前のお祈りをしたか? お祈りをしないと悪い気が入って風邪を引いてしまうぞ。始めの頃に切り倒した木は、もう十分に乾いたからな。そろそろ、野宿で炭焼きをしなければいけないんだ。いま風邪を引かれると困る」
「大丈夫。ちゃんとお祈りしたよ、父ちゃん。それに、もし風邪を引いても、タヤに来てもらったら大丈夫だよ」
「馬鹿。そんなこと考えるなっ」
 珍しく語気を荒げてアレクセイの頭を叩くと、グレゴリーは囲炉裏の前に戻って行った。
「どうして父ちゃんは怒ったんだろう。風邪を引いても良いなんて気が抜けてるぞって言うことなのかな」
 残されたアレクセイは、自分がどうして父親を怒らせてしまったのかが良くわかっていなかった。父親にそれを聞いたって教えてくれるはずもないから、彼は毛布を頭の上にまで引き上げて、暗がりの中で楽しいことを考えながら眠ることにした。
「この間タヤの所に行って一緒にご飯を食べたのは、すごく楽しかったな。いつもタヤは俺を子ども扱いして揶揄うけど、本当は良い奴だ。それに、とても綺麗だ。下の村にいる女の人を合わせたって、一番綺麗だと思う。
 そう言えば、タヤはあの小屋に一人でいるけど、寂しくないのかな。俺だったら寂しいけど。
 やっぱり、タヤってちょっと変わってるよな。ご飯を食べる時にも、神様に感謝のお祈りをしないしな。父ちゃんもするし、俺もするよ、お祈り。ご飯を与えてくれてありがとうございます、神様って。
 だけど、なんて言ってたっけ、タヤは。ああ、そうだ。山羊も鶏も、森の木もパンになる小麦も、みんな命を持っている。命を持っている者は、この世界に生まれ来て、やがて死に去っていくお客様なんだって。タヤも俺もお客様なんだって。だから、タヤはご飯を食べる時に、その命を分けてくれたお客様に『いただきます』って言うんだって。
 タヤの言うことは何だか難しくて、良くわからなかったよ。この世界は神様が作ったんだよ。俺達人間も神様が作ったんだし、ご飯になる動物やパンも神様が用意してくれたんだ。だから、神様に感謝のお祈りをするのが当たり前だと思うんだけどな。
 俺がそう言ったら、タヤは良く知ってるねって褒めてくれたっけ。動物は人間を助けてくれるし食べたらおいしい。森の木や麦も人が生きていくのに必要だし、第一綺麗だ。人間も困った時には助け合える。そういうこの世界にやって来た『お客様』の良いところに『神様がいる』って考えたらどうかな、って言ってたけど……。
 なんだか、タヤの言う『神様』って、天におられる『神様』とは違う感じがするんだよね。父ちゃんは、神様は天にお一人しかいないって言ってた。それに、良いことをした人は死んだ後に神様の所に行ってずっと幸せに暮らせる。だけど、悪いことをした人は地獄に落とされてずっと痛いことをされるって言ってた。それで、俺の母ちゃんも弟も天国で幸せに暮らしてるって言ってた。そうだよ。だから俺も良いことをしないといけないんだ。天国で、母ちゃんに会うんだから。
 ふぁあ……。そうだ、今度タヤに会ったら言わなきゃ。お客様じゃなくて、ちゃんと天の神様にお祈りしなさいって。
 それに、そうだよ……。俺がもっと大きくなったら、結婚してあげるって。そうしたら、タヤももう一人で寂しくないから、二人で良いことをして、死んだ後は天の神様の所で幸せに暮らそうって……」
 眠りに落ちたアレクセイ。夢の中の彼は、タヤを見下ろせるほどに背が高くなっていた。幸せそうに微笑むタヤとアレクセイは顔を見合わせると、しっかりと手を握り合って、高台の縁から宙に向かって歩き出す。抜けるような青空の中を、二人は歩いて登ってゆく。その先には真っ白い雲が大きなお城の形になって二人を待っている。きっとその中には神様やキリスト様が座しているのだろう。雲の縁に立って、さかんに二人へ手を振っているのはグレゴリーだ。その横にいる赤ん坊を抱えた女の人は、きっと……。

 ベッドの中で寝息を立て始めたアレクセイに背中を向けたままで、囲炉裏で燃える火に薪を足すグレゴリー。彼の目は炎を見ておらず、何かを思い出しているかのように宙を泳いでいた。
 アレクセイが寝しなに言った言葉は、彼の心にいまも残る傷を鋭くついたのだった。
 タヤはあの高台の小屋に一人で住んでいる。もう結婚していても不思議はない年ごろだが、未だに多くの村人は彼女と距離を取っていて、薬草や香草を貰うなどの理由がなければ、あそこを訪れようとはしないから、縁談も無いのだろう。
「彼女が一人になってしまったのは、自分たちのせいだ」
 グレゴリーは、そう思っていた。
 五年前の冬。グレゴリーは幼いアレクセイを連れて、炭焼きを行っていた。
 炭焼きでは、切り出して乾かしておいたナラなどの木材を円錐状に組み合わせた後、その上から土や麦藁を被せて、空気孔を残して全体を密封する。内部の木材に火を点けたら、その火加減を十分に観察しながら空気穴の調整をして、最期にはその穴を塞ぐ。一度始めたら最後まで眼を離すことはできない。
 あの冬は雨や雪が多く、数日間晴れが続く炭焼き日和は少なかった。山にかかる雲の動きや肌に当たる風の湿気から、これという日を選んでグレゴリーは作業に入ったのだが、そこでアレクセイが高熱を出して寝込んでしまったのだ。
 もう木材を円錐状に組み上げ始めていたから、雨や雪でそれが湿気てしまう前に、炭にするところまで作業を進めなければいけない。しかし、それは多くの木材を使うので、小屋の近くではなくて、森の中で野宿をしながら行う作業だ。
 もちろん、高熱のせいで立ち上がることもできないほど弱っているアレクセイを、その作業に連れて行くわけにはいかない。そんなことをすれば、息子は死んでしまうだろう。自分が作業をしている間は、アレクセイを小屋に一人で残しておくしかない。だが、小屋も火を焚かなければ、凍えるような寒さになってしまう。囲炉裏の残り火では、冬の寒さを凌ぐにはとても足りないのだ。
 弱り切ったグレゴリーは、せめて熱を下げる薬でもと思い、クレテの小屋へと走った。すると、事情を聞いた彼女は、グレゴリーが炭焼きで小屋を離れている間は、彼の代わりに自分がアレクセイの面倒を見ようと言ってくれたのだった。その時のタヤはいまのアレクセイと同じぐらいの年頃だったから、高台の小屋に一人で残しておいても大丈夫だと思ったのだろう。
 グレゴリーにとって、これ以上有難い申し出はなかった。彼は何度も礼を言いながら、クレテを連れて自分の小屋へと戻ったのだった。
 果たして、グレゴリーは数日を森の中での作業に費やしたが、良い炭を焼きあげることができた。急いで炭を保管場所へ片付けると、小屋へと彼は走った。作業中も息子の様子が気になって仕方がなかったのだ。
「アレク、調子はどうだっ! ……と、ととっ」
 ドンッと木戸を押し開けて中に入ったグレゴリーにぶつかってきたのは、すっかり元気になったアレクセイだった。
「お帰り、父ちゃんっ。おれ、元気になったよっ。クレテのくれた薬は苦かったけど、がんばって飲んだっ」
「そうか、それは良かった!」
 喜んで息子を抱き上げるグレゴリー。アレクセイの顔を正面にまで持ち上げると、頬が艶々としているのがわかる。本当に元気になったのだ。
 アレクセイの面倒を見るのに疲れていたのだろう、椅子に腰かけていたクレテもゆっくりと立ち上がり、グレゴリーを出迎えた。
 グレゴリーはアレクセイを左手で抱き上げたままで右手を差し出すと、クレテの手を力強く握った。
「ありがとう、本当にありがとう。この恩は絶対に忘れない」
 グレゴリーの言葉は大げさでも何でなかった。この時代は満足な薬も無ければ栄養状態も不十分であるので、大人でも病を得て命を落とすことが日常的にあったのだ。アレクセイのように小さな子が高熱を発したということは、文字通り命の危険があったということで、クレテは単に仕事でグレゴリーが不在の間に子供の面倒を見たのではなく、アレクセイの命を救ったのだと言っても間違いは無いのだった。
 「今日焼いた炭を選別したら、一番良いものをクレテに届けるよ」と約束して、グレゴリーはクレテが自分の小屋に帰るのを見送った。
 だが、その約束が果たされることは無かった。
 数日後、クレテの小屋を訪れたグレゴリーを迎えたのは、タヤだった。彼女は泣き顔を隠しもしなかった。彼が訪れるほんの少し前に、クレテが息を引き取ったところだったからだ。
 おそらくは、アレクセイの世話をしたときに、彼のかかっていた熱病がクレテにうつっていたのだろう。そして、自分の小屋に帰ってから発症した熱病が、彼女から命を奪い去ってしまったのだ。
 グレゴリーはクレテに改めてお礼を言い、最上の品質の炭を手渡すつもりだったのだが、それは叶わなかった。彼が行えたことと言えば、泣き続けるタヤの背中をさすって落ち着かせ、彼女が望むとおりの弔いをし、その最後にクレテを埋葬する迄の手伝いをすることだけだった。

     Ⅲ タヤ

「こちらこそありがとうございます。小道には凍っているところもありますから、気をつけてお帰り下さいねー」
 タヤは明るい声を出して、小屋から去る村人を送り出した。
 ヒュウッと風が吹くと、その冷たさで頬がピリピリと痛む。もう年の暮れだから、雪が降る日も多い。小屋の周辺はそれほど積もってはいないが、少し登ればもう一面の雪世界だ。タヤは早々に木戸を閉めて、室内に冷気が入るのを最小限に留めた。
「ああ……あ。なんだか、疲れちゃったなぁ、あたし」
 ため息交じりの声が、タヤの口から洩れた。
 最近、タヤの小屋を尋ねて来る村人が多くなってきていた。山に登るには適さない季節になってきたにもかかわらず、である。
 実のところ、タヤを尋ねる村人の数は、夏よりも冬の方が多い。それは、彼女の下を訪れる主な理由が、単に親交を深めるためではなくて、「薬を求めること」だからだった。今日小屋を訪れた男も、熱病に効く薬とパンを交換しに来たのだ。
 毎年冬場になると、高熱を発して命を脅かす病が流行するのだ。もちろん、村にも医者や薬草を扱う者はいるのだが、彼らの治療や投薬があっても、たくさんの命が失われていく。そのような中で村人たちが一番信用したのが、先祖から伝わる薬だった。それは、エルプルス山の高地に僅かな数が残る柳の仲間の樹皮を煎じたものだったので、いまでは山に住むタヤぐらいしかそれを作っている者がいないのだった。
 定期的に薪や炭を届けてくれるグレゴリーは、そのような村人の態度を見て、「日頃は寄り付かないくせに、虫のいい奴らだ」と貶していたが、そのこと自体はタヤの心を乱してはいなかった。自分と母親がこの土地に来た時のことを、タヤは覚えている。自分がここでは余所者であることを認識しているので、冬場だけでも頼られるのが嬉しかったのだ。
 ただ、なんだろう。
 特に、ここ最近は強く思うようになった。
 あの目。面と向かっている時には、できるだけ顔を合わせないように下を向いているのに、薬草を取るためなどに別の所を向くと、サッと向けられるあの目。
 そして、ここを出るや否や唱えられるあの「神よ護り給え、アーメン」という、災い除けの言葉。
 それらに出会うと、自分がうず高く積もった新雪に埋もれているかのように感じられ、心と身体が冷たくなって動くのがとても困難になるのだった。
 一人でこの小屋にいること自体を、寂しいと思ったことはない。
 この世界は様々な命が集まって成り立っている。小屋の周りに溢れる草や木は常に成長を続け、同じ顔を二度とは見せない。飼っている山羊や鶏も同じだ。それらは、この世界に一時だけやって来た旅人で、幸運にもその短い滞在時間の中でタヤが交わることができたお客様だ。
 もちろん、自分や死んでしまった母親、それに、親しくしてくれるグレゴリーやアレクセイもそうだ。この世界にやって来て、やがてはどこかへ去っていく。それは変えることができないし、変える必要もない。その理は全てのお客様の中にあって、もしもそれを言い表すのであれば、「神」と言う言葉が一番ふさわしいように、タヤは思う。

 もうそろそろ、暗くなり始める時間だ。
 冬場の朝夕は、コーカサス山脈沿いに吹き抜ける風が特に強くなる。昼間に覗いた外の様子では、今日は特に強い風が吹きそうだ。防寒のために換気口を除いた窓にはすべて木の板をはめ込んでいるが、それが外れることの無いように、タヤは点検をすることにした。
 タヤは木槌を持ち、木枠と木板の間にはめ込んだ木片の頭をトントンと叩いていく。その軽い音に、前触れもなくゴゴンッと何かが壁を叩く音が重なった。
「わわっ、な、何? 風の音?」
 思いかけずに強い風が吹いたのかと想像したタヤ。しかし、それは強風が壁を叩いた音ではなかった。
 バン、バババンッ。ドンッ。
 続けざまに何かが壁にぶつかる音が響く。それは、広がりのある風が壁面を一気に叩く音ではなく、例えば石礫のようなもっと硬くて小さなものが勢いよくぶつかる音だった。
 ガン、ガンッ!
「タヤッ、コラッ、出てこい!」
 壁に何かがぶつけられる音に混じって、男が怒鳴る声が聞こえて来た。タヤはこの声に聞き覚えがあった。たしか、鍛冶屋のセルゲイだ。母親が体調を崩したからといって、夏頃から最近までずっと、月に二、三度は薬を貰いに来ていた男だ。
「どうしてくれるんだ、お袋は死んじまったぞ! お前の薬は効かなかったじゃないか! 出てこい、そして謝れ!」
 セルゲイは次々にタヤの小屋に向けて石を投げながら、叫び声を上げ続けている。
 「ああ、そうなのね」と、タヤには思い当たることがあった。頻繁に小屋を訪れるセルゲイの顔色が、最近は暗く沈んだものに変わってきていると思っていたのだ。あれは、母親の病状が悪くなってきていたからだったのだ。そして、その母親が、とうとう亡くなってしまったのだ。
 しかし、それについて謝れと言われても、タヤに責任があるではない。彼女はセルゲイに請われたとおりに薬草を煎じ、それを渡しただけなのだから。
 とは言え、鍛冶の仕事で鍛えられた筋肉を持つ男が、外で狂おしいほどの怒りをぶちまけているのだ。自分が出て行って正論を説いたとしても、聞き入れてもらえるはずもない。いや、そもそも口を開く余裕も与えてくれないかもしれない、とタヤは思った。
 彼女は外へ出て行く代わりに、戸口に閂が差してあるかをすばやく確認すると、ベッドに潜り込んで毛布を頭からかぶった。
 ドン、ゴン。
 ドンドドンッ。
「おいっ、いるのはわかってるんだよっ。インチキな薬をばらまいて恥ずかしくないのかっ。お袋を返せよ!」
 ドオオウンッ、ドウンッ!
「出てこい! 謝れ! 俺に、母さんに、神様に謝れ!」
 小屋に籠って出てこないタヤに増々怒りをたぎらせたのか、セルゲイの放つ怒号は木戸の前から聞こえるようになり、戸板を殴ったり蹴ったりする音がタヤの耳を打つようになった。
 両手で耳を塞ぎ毛布を被っていても、恐ろしい騒音は次々とタヤの心を傷つけていく。
 そこへ、急に別の男の声が混ざり込んだ。セルゲイのタヤを責める声は途絶え、代わりに二人が言い争う声が聞こえて来た。
「おい、何やってるんだ、セルゲイ!」
「うるさい、お前には関係ないだろうっ」
「関係ないことはない、ここはうちの炭焼き小屋だぞ」
「ああ、そうだ。そうだったな。考えてみれば、お前の親父が余所者にここを貸したのがいけなかったんだ、グレゴリー!」
 小屋の木戸に取り付いて、タヤを責め立てていたセルゲイを止めたのは、グレゴリーだった。森で木を切っていたところに、血相を変えて小道を駆け上がるセルゲイを見かけたのだ。明らかにおかしい彼の様子に不安を覚えたグレゴリーは、急いでその後を追いかけてきたのだった。
「なんだと。クレテもタヤも良い奴だ。彼女たちが一体何をしたって言うんだ。それに、親父のしたことにケチをつけようって言うなら、俺も黙っちゃいないぞっ。教会の司祭様だって、親父に礼を言ってたんだからなっ」
「ああ、教会の司祭様はお人がよろしいんで、あいつらに騙されたんだよ。その証拠に、ここに居つくようになったあいつらに司祭様がいくら促しても、あいつらは一度も集会に参加していないし、告解も行っちゃいねぇ。許されない罪がとんでもなく高く積み上がってるんだ。素直に告解を行って許されれば良し、そうでなければもうここへは置いとけねぇっ」
「この炭焼き小屋は、いまは俺のものだ。ここに誰を置くか、お前にとやかく指図される言われは無いぞ、セルゲイッ」
「ここに罪人を住まわせて俺たち村人を困らせるなら、力づくでも排除するぞ。俺だけじゃなくて、みんながこいつらを気味悪がってるんだからなっ」
 二人の争いは、言葉だけでなく拳をも交えるものに変わりそうな勢いだった。
 そこへ、息を切らせながら、アレクセイが走りこんできた。アレクセイはグレゴリーと一緒に作業をしていたところ、突然「ここに居ろっ」とだけ言われて放り出されていたのだ。アレクセイもセルゲイの姿を見ていたし、グレゴリーが珍しく慌てているのもわかったから、大人しくそこで待っていることなど到底できずに、ここまで急いで駆け上がってきたのだった。
「は、はぁ。ね、ねぇ。何を怒ってるの。駄目だよ、タヤがびっくりしちゃうよ」
「来たのか、アレク。えっとだな……」
「おう、アレクか。俺はな、ここの女に謝らせに来たんだよ。こいつの作った薬のせいでお袋が死んじまったんだ。なのに、こいつは教会に行って告解をするどころか、閉じこもって出て来やしねぇ。俺にも一言も謝らないんだぞっ」
 どのように状況を息子に説明したものかと言い淀んだグレゴリーとは対照的に、セルゲイは言いたいことを一気に言い放った。アレクセイの耳に届いたのは、もちろん、セルゲイの声だった。
 この時に、自分がタヤに投げかけた言葉が正しかったのかどうか、アレクセイは長い間悩み続けることになる。ただ、この時の彼にはこの言葉しか浮かんで来ず、この言葉の正しさを疑おうという気持ちはまったく無かったのだった。
「ねぇ、タヤ! 駄目だよ、悪いことをしたらちゃんと謝らないと。そうしたら神様はきっと許してくれる。神様は全てをお許しになるって、司祭様も言ってたもん。それに、お客様の中の神様じゃなくて、天の神様にちゃんとお祈りしなきゃ。ねぇ、タヤ!」

 小屋の外で相手に向けて投げつけられている言葉は、ベッドの上で固まっているタヤの耳にも届いていた。「聞いては駄目、聞いては駄目」と思いながらも、タヤはその言葉に耳を傾けずにはいられなかった。
 そもそも、セルゲイの母親が亡くなったことにタヤの責任はない。彼女もまたこの世界を訪れたお客様の一人であり、時が満ちたのでお帰りになっただけのことだ。
 もちろん、セルゲイたちがそのように考えられないことは、これまでの経験でタヤにもよくわかっている。だが、彼らが信じるキリスト教の教えについて、グレゴリーやアレクセイから聞いたところでは、良い行いをした人は死んだ後に神の御下で幸せに暮らすことになっているのではなかったか。そうであれば、ここまで怒り狂う必要がどこにあるのだろうか。いずれ自分が死んだ後に、またそこで会えるのであろうに。
 自分を守ろうとして、グレゴリーが責められていることにも、タヤの胸は痛んだ。
 グレゴリーはクレテが死んだことに強く責任を感じて、タヤにあれこれと気を使ってくれている。だが、そこまで責任を感じずとも良いのだ。母も、一時だけこの世界を訪れたお客様の一人に過ぎない。きっと、あの時に還る刻限が来たのだろう。
 タヤは、酷い疲れを感じていた。
 セルゲイの言うとおりに、謝ることなどない。何も悪いことはしていないのだし、謝る先を信じてもいない。タヤは、神様はこの世界を訪れている全てのお客様の中に存在する、と考えているのだから。
 だからと言って、それを話してこの場をどうにかできるとも思えない。それに、もしもグレゴリーがこの場を治めてくれたとしても、この先もこのようなことが続くのは目に見えている。
「はあ。なんだか、すっごく疲れちゃったな」
 心の底から湧き上がろうとするそのような言葉を、タヤはグッと飲み込んだ。口に出してしまったら、全てが終わってしまうような気がしたからだ。
 そのタヤの耳を打ったのは、アレクセイの甲高い声だった。
 その善意と心配に溢れた声は、それ故にタヤの身体と心を強く痺れさせた。
「あは、ははは。あはははっ。あたし、すっごく疲れちゃった!」
 笑い声と共に、タヤの独り言が毛布の中に零れ落ちた。
 命あるものは全てお客様。この世界を一時的に訪れているだけのお客様。鳥も木も麦も花も。もちろん、タヤ自身も。

 言い争いを続けるグレゴリーとセルゲイの後ろで、閂が外される小さな音がしたと思うと、木戸が開かれた。
 そこから飛び出してきたタヤにセルゲイが手を伸ばすが、グレゴリーに阻まれる。彼女は二人には構わずに、目的の場所へ一直線に走り出した。
「おい、タヤ! 待てっ」
 その背を追ってグレゴリーたちも走る。タヤが行きついた先は、黒海に向かって突き出した高台の先だった。
「ねぇ、何するの、タヤ……。危ないよ……」
 その時は夕暮れ時で、黒海を挟んで向こう側に広がる黒々とした大地へと沈む太陽をタヤは背負っていたから、彼女がどのような表情をしていたのか、アレクセイにはわからなかった。
 それに、遮るものの無い高台の縁では強風が黒海の水を崖に打ち付ける音が響き渡っていたから、彼女が最後に何と言ったのかも、はっきりとはわからなかった。
 ただ、アレクセイには、タヤが最後に言った言葉が、「ありがとう」だったように聞こえた。ひょっとしたら、タヤがそう言ったように、彼自身が思い込みたかったのかもしれないが。
 そして、タヤは高台の際から宙に向かって、全く逡巡することなく歩きだした。
 そこは、アレクセイが夢に見た場所だった。夢の中でアレクセイとタヤは手を繋ぎ、この高台から宙に向かって歩き出した。その先には神様がいらっしゃる雲のお城があって、二人はそこへ向かって歩いて行ったのだ。
 だが、一人で宙に向かって歩き出したタヤは、宙を踏みしめながら空のお城に向かって昇って行くことはなかった。
 宙へと足を踏み入れた次の瞬間には、大きな波しぶきを上げている黒海へと、彼女の身体は落下していったのだった。

(了)








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