80以上の国を訪問してきました❷ ~シリア編(2010年10月)~
これまで80か国以上訪問してきました、の第二弾です。
これはNewsPicksのNew Schoolのビジュアルコンテンツに参加した際に、
自己紹介用に作成したスライドの抜粋を元に作成しています。
気が向いたときにぼちぼちと書き足していって、7大トピックはカバーしたいと思っています。
以下が7大トピックです。候補として30くらい挙げたのですが、場所をなるべく分散させ、ネタ的に使いやすいものを選びました。今回は以下の❹のパルミラ遺跡についての話です。
1.前書き
2010年、シリアを訪問にすることにしました。目的地はパルミラ。当時、塩野七生先生の「ローマ人の物語」が1992年から1年に1冊ずつ出版。15年をかけて第15巻で2006年に完了。出版されるたびにほぼリアルタイムで読了。ローマ帝国への思いが募り、ローマ帝国界隈への旅を計画するに至りました。
前年の2009年にはローマを訪問。その際に思い立ってローマ訪問を1日潰してチュニジアへ飛び、カルタゴ遺跡を訪問。現在ではキリスト教世界のヨーロッパとイスラム教世界の北アフリカと分離されているが、ローマ時代には同じ国の中にあったんだ、ということを自分の目で確認し、その面白さに興奮。この2010年には諸々の検討の結果、中東シリアのパルミラを訪問することを決めました。
【参考】ローマ人の物語 wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E
【参考】パルミラ wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A9
地図で表すと以下のような位置関係になります。ローマ帝国の領土が最大版図となったトライヤヌス帝時代の地図です。
この旅を振り返り、一番思い出されるのは、訪問した時のことではなく、訪問の半年もたたない間に始まったアラブの春、シリア内戦、イスラム国による占領、そして遺跡破壊により、二度と訪問できなくなった、ということ。また今度行けばいいや、と思わずに、行きたいときに行っておいてよかった、というのが正直な感想です。
2.旅程
2010年10月、遅めの夏休みをとった。1週間+土日を2回で計9日間だったと記憶。ローマ帝国の辺境を積極的に旅していた時期で、色々なところをうろつき回りたいと思い、以下のようなチケットを購入。
①東京⇔デュバイ(UAE)⇔アテネ(ギリシャ)【エミレーツ航空】
②個別でチケットを買い足し
・アテネ→ロードス島
・ロードス島→クレタ島(フェリー)
・クレタ島→アテネ
・アテネ→アンマン(ヨルダン)
・ダマスカス→デュバイ
(以下の地図では、赤矢印は飛行機、黄色矢印は船、青色矢印は車です。)
地図①ルートで辿ると、東京→デュバイ→アテネ→ロードス島→クレタ島→アテネ→アンマン→(陸路)→ダマスカス→デュバイ→東京。今更ながら、無茶苦茶なルートだな、という率直な印象。塩野七生先生の「ロードス島攻防記」というロードス騎士団の本を合わせて読んでいたこともあり、無理くり組んだ旅程だったと記憶する。
※ 全編を書くとキリがないので、今回のnoteではシリアに特化します。
3.シリアの首都ダマスカスへ
上記のように、シリアの首都ダマスカスには、ヨルダンの首都アンマンからタクシーをチャーターして移動。
ただ、真っ直ぐに向かったのではない。
前日の晩にアンマンの空港からホテルに向かう際に、タクシーの運転手にチャーターを打診した際に「ヨルダンに来て、ペトラ遺跡も見ずに出ていくのは許さん」と怒られてしまい、
・已む無く朝6時に出発してペトラ遺跡を見学(片道4時間)
・アンマンに戻ってきてから、再度4時間をかけてシリアの首都ダマスカスまで移動、というチャーターをするハメとなった。
(シリア国内での往復移動も含め、合計15時間41分の車での移動と
なっているが、実際はもっとかかったという体感)
また已む無く訪問したと言っても、ペトラ遺跡も素晴らしい遺跡であり、是非とも訪問することをお勧めします。ここでは写真を1枚。
ちなみに往復の道はこんな感じの殺風景な景色が延々と続きます。
朝食を食べた食堂。
ヨルダンとシリアの国境のイミグレで、たまたま知り合った日本人3人を拾って、そこから渋滞などに巻き込まれつつ2時間程度かけてダマスカスに。3人を別のホテルで下ろした後、自分の予約したホテルに到着。朝6時から始めたタクシーでの移動は20時に終了に。
チェックインの後少しぐったりとしてから、ホテルに紹介された高台にあるイタリアン・レストランに。ダマスカスの夜景が堪能できる場所とのこと。そこでの写真が以下。
(もっと高精度のカメラで撮影しておくべきだったと後悔)
ここで残しておきたいのは、カルボナーラの味が抜群だったことでもなく、着飾った女性が美しかったことでもなく(シリアの人は白人にかなり近く、自分がどこにいるかわからなくなる瞬間ありました)、アサド大統領の宣伝カーが走り回っていること。
政治体制により色々な手法があるのだろうが、日本だと映画やCDの宣伝で使われていたりする手法で、大統領自身の宣伝をする必要があるのか?!、選挙があるわけでもないのに、と頭の中に?????と浮かんだこと。
今でもその疑問は解消されていない。
4.パルミラへ
翌朝、バスステーションに向かい、パルミラ行きのチケットを購入。無事バスに乗り込む隣にたまたま座ったのがドイツ人。アラビア語を勉強するためダマスカスに留学しており、その日は休日でドイツ人友達2人と計3人でパルミラ見学とのこと。当時、ドイツで目覚ましい活躍を見せていた香川真司の話題を振ってみるが、シリアにいるためか全く知らないとの反応。
ダマスカスまではバスで3時間。
現地で、ドイツ人3人と割り勘でタクシーを雇ってパルミラ遺跡観光。有名地点で思うがままに歩き回り、写真を撮りまくる。日本人は写真を撮ってばかりだ、という批判が以前はあったが、この時はどの国の人間も同じだな、と感じた次第。
ここでは写真を2枚。
ただ、特に説明も何もなかったため、遺跡の名前までは認識できず。ただ、中東の地でもローマ帝国が治めていた時代があったんだ、ということを確認、実感し、自分の知見が1つ増えたという満足感を得ることが出来た。
途中、移動販売車棗椰子などを売っている車が散見。
ドイツ人トリオとは別れて、帰りは別の車でダマスカスへ帰途に。途中「IRAQ」や「BAGHDAD」という文字が標識に。改めて自分がいる場所を実感することに。
イラクに行ける日が来るのであろうか。訪問時から10年以上経過しているが、いまだによくわからない。。。
5.ダマスカスの街について
ダマスカスの街につい手の印象。正にイスラム教の国っぽい雰囲気と、近代的な雰囲気と、両方を併せ持った大都市というものだった。
長くなってきたので、ここでは写真を3枚+1枚。
①ダマスカスの繁華街
②女性用のスカーフ(ヒジャブ)屋さん
このカラフルさが、イスラム教の厳格度合を表しています(サウジアラビアだと黒だけ)。スカーフをしていない女性も結構多かったと記憶しています。
③アイスクリーム屋のおじさん
海外に行くと、あるある話ではあるが、その中でも意味不明な言葉の一つ。一体どういう意図でこの文字の入った服を着ているのだろうか。。。日本人観光客がが来る場所でもなかったのに。。。
④ダマスカスのCOSTAコーヒー(Segafradeの看板も)
先ほどの商店街からこのカフェに場所を移すと、ヨーロッパの雰囲気を感じました。
6.最後に
訪問から半年も経たない内に、アラブの春、シリアで内戦が始まり、その後イスラム国が出現し、パルミラの遺跡が破壊された、と聞いている。自分の訪問した国が、その直後に騒乱に巻き込まれる、という初めての事態に。
もう見ることはできない、と思うと切ない気持ちになります。
今あの場所はどうなっているのか、会った人たちはどうしているのか、と。
よくあのタイミングで訪問してしたものだ、と今でも時折思い返す旅です。行きたい国・場所があれば、行けるうちに行っとくべき、という思いをより一層強くする契機となりました。
コロナ禍が続き海外との往来が困難となっている今、その思いをより強めています。
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