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変貌するシルクロードの国・ウズベキスタン鉄旅:②なぜかお盆に日本兵の墓地に引き付けられる

 アフラシャブ号で、サマルカンドから乗り込んできた一人の日本人の若者が私の隣の席に座った。彼はこの年の3月末で会社を辞めて世界放浪の旅を続けているとか。この間、東南アジア、ネパール、インドを回ってウズベキスタンへ入り、これからトルコ、エジプト、モロッコ、西ヨーロッパ、ロシアへ行き、南北アメリカを回る予定とのことだ。なんとも羨ましい話だ。きっと彼には、世界を見てみたいと言う意思と、それなりのタイミングやチャンス、ちょっとした勇気とそれなりのお金があり、実現できているのだろう。

タクシーでブハラへ向かう

 その彼とブハラ駅から旧市内までのタクシーをシェアすることにした。そして、途中に日本人墓地があることを知り、立ち寄ることにした。
 第二世界大戦中、中国東北部(満州)でソ連の捕虜になった日本兵が戦後も長期にわたりソ連に抑留された。その一部は極東から遠く離れた中央アジア、ウズベキスタンやタジキスタンまで連れて来られて過酷な建設事業などに従事させられた。そのなかには、病気や怪我によって望郷の願いを果たせず、遠い異郷の地で無念の死を遂げた人々多かったそうだ。

シベリア抑留兵は中央アジアを含めソ連全体へ(舞鶴引揚記念館の展示より)

 ブハラ郊外にこうした日本人のお墓があったのだ。隣にはドイツ人やロシア人のお墓もあった。
 日本人墓地に刻まれたお名前を数えさせていただくと159人だった。この一つ一つの墓標の下に、それぞれの人生があり、またその人たちの帰りを待ち望んだ家族や友人たちがいたと思うといたたまれない気持ちとなった。
今でこそウズベキスタンには簡単に来ることができるが、あの当時は交通手段もさることながら、体制の違いがあり、おいそれと行き来できる状況ではなかった。ここれ連れて来られた人々は、本当に地の果てに来たと言う気持ちだったのではないか思う。

日本人墓地の墓標

 世界旅行中の彼と一緒に、墓標に向かって手を合わせた。折しも8月15日、お盆であり、日本の敗戦の日である。
 彼とはブハラ市内で別れた。名前を聞いたが、忘れた。袖振り合うも多生の縁というが、お盆にたまたまアフラシャブ号の隣の席に座り、意気投合して遠い国の日本人のお墓に参ったというのも不思議な縁です。何かに引きつけられたのかも知れない。最近、想像力たくましくなっているので、輪廻転生があるとすれば、彼も私も前世は、ウズベキスタンの地で生涯を終えた日本兵だったかもしれない、などと思ったりしている。
(つづく)


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