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本当に欲しい物

私はよく夢を見るのですが、
ある時その中で「お前の理想の人生はなんだ」と聞かれ、考えていると
森の中の小さな小屋と伴侶と子供が一人私と一緒に暮らしている映像が流れました。

私は夢の中の何かが「お前の望みはこれだろう?」と仄めかしているのだとなんとなくわかりすぐさま
「違う!俺の望みはこんなものじゃない!」
「俺は社会的に成功して!金持ちになって、それからもっと偉くなって...」
私は自分の現在の生活の先にあるものが自分の望むものだと主張しようとしました。一流大学を卒業しキャリアを積んでコンサルタントになり、政治家を目指す。そうやって多くの人間の生活をより良い方向に導いて歴史に名を刻んで見せる。

これは小学生の時からもっていた考え方でした。

自分は目立つし、声も大きいし、頭もいい方だ。
昔はそうでもなかったが最近は真面目だともいわれる。
口うるさい奴だとも思われるが、友人たちは私にたいしていつまでも変わらず正論を貫いてくれて安心すると言ってくれる。

私は何かしなくてはならない。
友人のために、まだ見ぬ善良な人々のために。
私を省くんでくれた友人や親や社会や国にたいして報いなければいけない。

だから私の望みはこんなものであるはずがない。

そう思いました。
私は、私だけが静かに森で伴侶と平和に暮らすことを夢見る独善的な人間ではない。私は他者のために生きているはずだ。それが正しいはずだ。

そう考えはしましたが、
夢から覚めてもその森での光景が頭を離れないのです。

もし自分だけが幸せでいいのなら、田舎にでも行って誰かと恋愛をして結婚をして子供を作って農業でもやるのが理想かもしれない。だがこの理想は私の現在の生活の先にあるものをある意味否定している。

認めたくない。何度もそう思いました。

自分を正当化するため、私は次第に
「そもそもこんな理想は叶わない。」
と考えるようにしました。たとえ本当はそうでないとしても、今の世の中は不安定であり何が起こるかわからないのだからそんな平和ボケした理想をもっていては生きていけない。

今必要なのはその森の中での生活を実現できるほどに安定していて平和な世の中を作ることだ。理性的にそう言い聞かせました。

しかし私は気づいてしまった。そんな御託を並べても、それは結局私の心が直接望んでいるものではない。競争は、この資本主義社会での生活は私の理性が仕方なく私に強いているだけの物なのだと。

私は自分がこう考えるなんて思いもしなかった。
昔から勝ち気で、一番になりたがり、リーダー役などを引き受けていた自分が心から望むことがそんな質素なものだとは思わなかった。私の心が望むもののために今ある生活は本当は必要ないのだと気づきたくなかった。

しかし気づいてしまった。
私は苦しみに基づいて今の生活を続けているのだと、社会に対する義憤、弱者に対する哀れみ、正直者が馬鹿を見るという現実に対する憎しみ。

少年だったころから私は常に問い続けている。なぜこれを行わなければいけないのかと、何のために自分は行動するのかと。何故ならなんなくで生きていけるほど私の人生は甘くはなかったからである。

この世の理不尽に対する激しい怒りと弱者へ共感、そしてそれを何とかしなくてはいけないという焦燥感だけが私を動かしている。

私の今の生活は自分の中にある感情をマイナスからゼロにリセットするためにあるのに過ぎない。そしてこれがゼロになるころには私は老いているだろう。

私は傲慢である。他者のことを考えずには生きてはいけない。
だから自分に直接関係のない事でも怒り続けずにいられない。

私は自分の理想を叶えられないばかりに世界を憎み、同じく理想を叶えられない弱者に同情し、そしてその結果として望まない闘争の日々へと身を投じることになるのだろう。

いつしか疲れ果てて自分が何のために生きているのかがわからなくなる日が来るかもしれない。自分の望みが何なのかが曖昧になる日が来るかもしれない。

そんな日のためにこのnoteをとりあえず残しておこうと思います。

あなたの今の生活と本当に欲しいものは同一線上にありますか。


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