生きづらさと承認欲求とルッキズム

ここ数日、SNSでゲイであることで生きづらさを感じるというツイートを見かけることが増えた。もちろん自分も、ゲイであることで生きづらいと感じることを多く抱えるひとりだ。それについては自分がここで書いている詩の中にも多く表れている。

たとえば昨日2/14はバレンタイン…よりも自分なら「ふんどしの日」のほうがしっくりくるだろうか。自分も六尺ふんどし(ていうか黒猫だと思うけど)を模したゲイにも人気のあるブランドのパンツやゲイバラエティショップで売っているふんどし用のさらしを持っているけれど、ほとんど身につけたことがない。ましてやSNSで晒せるほどの身体をしていないので、そこでは肌色を晒すこともない。

自分も過去にスポーツクラブに通っていたことはあった。けれど今はそんな時間も多く取れなくなってしまった。その補填ではないが、今は介護の入浴介助をメインとした仕事で身体を動かすことが中心になっている。本当はそれにスポーツクラブを足した鍛え方のほうがいいのは分かっている。それができていないから、晒せない身体という部分でコンプレックスがある。

今はSNSがあり、OnlyFansやJustForFansなどのようなセックスを晒しても大丈夫なメディアがある。それらの効果は絶大なのだろう。ただ自分はSNSでセックスを晒せるような度胸などない。よくできるよなぁって寧ろ感心するほどだ。それが稼げるものと分かったら手を出すしのめり込んでいくんだよな。もし自分にあるHIV+や発達障害的なものがなくて、顔も身体もそこそこ良かったらやっていたのかな。それでもやっぱり怖いか。

自分は過去に詩誌『て、わた し』6号にエッセイを寄稿した。『SNS時代にひとりのゲイとして思う「生きづらさ」を重ねて』というタイトルだ。掲載された歌人の鳥居さんの短歌と歌、トランスジェンダーの詩人であるクリストファー・ソト氏の詩と連動したものである。そこから自分の中にあるゲイとしての生きづらさやコンプレックスについての一考察を、自分が当時書いた文章をもとに記そうと思う(2019年5月に記す)。

「ゲイである」ということで「生きづらさ」を感じることがある。
16 年前は転職を口実に上京し1ヶ月だけ営業職に就いたのだが、なかなかアポイントメントを取れずにいた。そのときに「アポが取れたら(女性が相手の)風俗連れていくぞ!」と上司に言われたが、ただ既にその頃にはゲイを公言していたためか、苦痛で仕方なかったのをふと思い出す。
また「生きづらさ」を感じることがあるといえば、本人が深く考えすぎて他人には些細なことかもしれないが、「コミュニティへのコミットメント」だ。私は飲みに行くことも少なくクラブイベントも殆ど行かない。ジムも休会してから1年ほど復帰していない。ゲイとしては末端だ。例えばジムに行っているゲイは多くいる。時折 SNS でジムでの自撮りを見かける。身体を鍛えているところやその過程、そして成果を見せることで良い反応や応援が欲しい人たちが多くいるのだろう。その流れで鍛えられたモデルが穿くアンダーウェアを買ったり、私が殆ど行かない飲みやクラブイベントに行ったりする。何かにコミットメントしていないとコミュニケーションとしては置いてきぼりを食らう。
金子みすゞさんが詩の中で「みんなちがってみんないい」とは言う。だが今は人と違えば爪弾きにされてしまう。私自身、「ある程度」は迎合しているのかもしれないが、それらは「仕方なく」「合わせざるを得ない」のだろう。そう、ひとつでもそれにしがみついていなければ乗り遅れる。しかしそれは私にとって「窮屈」にほかならない。
(詩誌『て、わた し』6号に寄稿のエッセイより)

自分は寄稿の通り、飲みに行くこともクラブに行くことも殆どない。当然ながらもうハッテンなんて縁遠くなってしまった。これはゲイに限ったことではないが、何を置いても見た目は言われてしまう。顔はどうにもならないけれど、身体については鍛えれば取り戻せるのかもしれない。しかし自分はネガティブの権化なので、鍛えたところでなんにもならないし、仮に晒したとしてもふーんで終わってしまうかクソリプが来るかとしか思っていない。時間が過ぎるにつれて、疲れてしまった部分も正直ある。

そして自分のコンプレックスの象徴として挙げるのは本とアンダーウェアだ。いつのまにか本は積ん読になり、アンダーウェアもゲイに人気のあるようなブランドのものを手にしてはどこかで安堵してしまっているのだろう。本を買ってしまうのは自分に知識がないからだ。アンダーウェアを買ってしまうのはどこかでしがみついてなきゃという焦りからだろう。誰かに(誰にも)見せるわけでもないのに、見せたところで何かあるわけでもないのに。いつのまにか負債だけが増えてしまった。

「承認欲求」。SNS がその旗印になり、人から「いいね」をもらえることや称賛ないし共感によるリツイートが多くあることで増していくものだ。例えばそれをゲイに当てはめるとするなら、ジムの過程だろうか。良い反応があればモチベーションになるが、中には心ない中傷もある。それに対しては「なにくそ!」と跳ね返し、良くしようとさらに自らを追い込めるかもしれない。だがそのコメントを無視しても心のどこかには残る。あるいはそのような繋がりや好かれたいがための行動、いつのまにかされているマウンティングに疲れが出てくるかもしれない。本当なら好きなことを好きなだけやって自由を謳歌したいはずが、現実として抜け出せなくなり、迎合せざるを得ない生きづらさに繋がっているのではないか。
(中略)
「承認欲求」に忙殺され、重なるかのように当事者も含めた心ない声に殺される、何個命があっても足りないような世の中を生きている。声を聞きすぎているのかもしれない。聞こえすぎているのかもしれない。だがその「聞きすぎている声」「聞こえすぎている声」の中にはマイノリティとして生きる中で心を殺されそうな人たちの助けを求める声があるように思う。
(詩誌『て、わた し』6号に寄稿のエッセイより 一部修正あり)

すべては「承認欲求」のために廻っているのだろうか。

ツイートで見た中にゲイコミュニティの窮屈さとして「ルッキズム重視」を挙げていた。自分もそう思っている。すべては見た目。たとえばGOGOもビデオモデルも顔と身体(そしてアレもな)の見た目が揃ってなければ売れない。当然ながら見た目の良くない自分はそんなものにはなれない。SNSで鍛えた身体をこれでもかと見せつけてくるようなインフルエンサーのような人にもなれやしない。そしてそんな中でもマウンティングされているんだなと思うと、こんな世界ではシャイニーではない自分など生きづらくて当然だと思う。

この世の中は、自分が自分で居ることさえも許してくれない空間だ。男である自分の周囲は「男らしさ」を求めてくる。ゲイであるとこれが色濃い気がする。身体を鍛えることが男らしさであるのなら、自分はもうそこで淘汰されたようなものだ。そこにバックボーンの属性として学歴や会社、収入や友人の多さとか入ってこようものならもうそこにはいたくない気分になる。

そしていつからか勝ち組負け組とグルーピングされて、ピラミッドのようなヒエラルキーが構築されていった。その中には当然ながら自分も巻き込まれているだろう。けれど少しでも勝ち組だとかピラミッド上の層に上りたい、そうは思っても心のどこかで疲れた自分もいる。そんなものに媚びたっていいことがあるわけでもない。本当ならそんなものから抜け出して、自分が生きたいように生きるのが理想ではあるのだが、自分はその理想にさえ追いついていない。現実においてすっからかんだからだ。そんな社会で生きているゲイの自分は哀れんで見られているかもな。

そんな縛りから脱却して、もう少し自由に生きられたらいいのに。

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