世界の光の元素になる喜びを

 初心忘るべからずと言うではないか。
 スポーツニュースなどで注目のアスリートに大会への心意気をインタビューすると、このところ皆判で押したように「皆さんを元気付けるために頑張りたい」と答える。みんなが元気になるような結果を、みんなの期待にこたえられるような結果を。細部は違えども『応援してくれている人のために』努力するというような回答をする。私はこれに強烈な違和感がある。
 支えてくれた人の感謝を忘れない、それは大事なことだろう。しかし良い結果を出せなかったら、みんなを元気にできなかったと悔やむのか、応援を成果に結びつけられなかったと落胆するのか、そうではないだろう?今の五輪は面子と利権で雁字搦めになり、その大会を目指している選手も難しい立場にあるのだろう。でも、自分がそのスポーツを好きだから努力するのではないか?それが短い現役時代の中の最高の舞台だから目指すのではないか?
 私はバイオリンを習っている。最初は母親に誉められたい(起こられたくない)から努力していた。それでもいつしか“そこ”から離れて、中級者なりの達成感、高揚感、自分がMusicaという光と一体になる感覚、音楽を通じて感じることができる素晴らしいもののためにバイオリンを手放さずにきている。しかしこの国のアスリートは競技を通じて得ることのできる喜びを語らない。いつも『みんな』に囲まれ『みんな』のために競技をしているとしか言わない。そんな言葉で後進が育つだろうか、最初に上手にボールを蹴れた時の嬉しさを忘れてしまったのだろうか。
 努力は否定しない。だが私は素晴らしいものを目指す人々の中で、どの国籍の選手が一位になろうがあまり関心はない。人間はここまで到達できるのだなと、そう思うだけだ。


今日の英語:Joy of playing

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