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二木先生/感想

様々な出版社の編集者が大絶賛するコメントが並ぶこの一冊の表紙の上部右端にあった大文字で書かれた『Aの皮を被る。』という文字。

何か腹黒いものを抱え生きる人間の様子が描かれているのだろうかと関心を持たずにはいられない。また、今書店に並ぶ分については青色の期間限定カバーが黄色いカバーに付属している。尚良い。そもそもカバーデザインが好みだ。

あらすじはこうある。

誰からも馬鹿にされてしまう「イタイ」男子高校生×秘密を抱えた「ヤバイ」先生。生徒と教師のスリリングなやり取りを通じ、社会からはじき出されてしまう個性を持つ人間がいかに生きうるかを描いた驚愕のデビュー作。2019年ポプラ社小説新人賞受賞作。

イタイと誰からも馬鹿にされるという青年の「個性」、そして先生が抱えたヤバいとされる「秘密」への疑問。それらがいったいどんな相互作用でストーリーを展開するというのだろうか。


以下読んだ人向け。


この作品はストーリー全体に「普通じゃない僕らが普通の人間を装って生活を営むためには」という主題がある。

主人公の高校生・田井中広一は発達障害などの診断こそ降りていないが、限りなくグレーでどこか「浮いている」存在として描かれている。その実態は文字に色が見えたり、ここで周囲と合わせるべき(というかその方が出る杭打たれない)と思われる場面であっても自己主張を曲げなかったり、また一つにはまると寝食を忘れてのめり込むといった具合である。浮いているかと聞かれれば私には疑問符だが、田舎特有の環境では確かに生きやすくはないかもしれない。

対して美術教師かつ担任の二木良平は実はロリコン(小児性愛者)である。YESロリータNOタッチを自身の宗教と掲げ、創作には至っても絶対に手は出すまいと「Aの皮を被」って生活をしている。ひょんなことから広一に創作物のHNを知られ、弱味を握られてしまうわけだが、薄々そのような写メは存在しないと分かっていてもなお、広一に付き合い続けている。

Aという多数派、Bという少数派

自分が少数派であると知った時、多数派がどう物事に反応し、受け止めるのかを学ぶことは不用意に傷つくことから身を守る。しかし自分の意見が多く支持される側であると知っていてもそれが正解であるとは限らないという点で多数派側も少数派に属する意見は考慮すべきだ。

だが人間の心理で「みんなとおなじ」はその安心感のためか、よほど思慮深くなければ内容を吟味する工程にまで至らない。またそこまで考慮できていたとしても敢えて口を挟むという選択を取られないことも多く、様子見して周囲を伺いながら雰囲気で流されるという感じもある。

美術の授業で二木が投げかけた静けさを表しているのはAかBかという問い。多くがAを選択し、田井中のみがBを選んだ。実質Bを選んだ者はもっといたのかもしれない。しかし手を挙げて主張するまでに至らなかった。

出る杭は打たれる、このクラスはすでにそういう雰囲気が根強かったのではないかと思う。Bという立場で孤軍奮闘するには「あの人はああだから」という特別枠でいる必要がある。それは「変」だというネガティブなものではなく、何か秀でた要素でなければならない。だが、それがどんな褒められるべきことであっても16,7の思春期を過ごす彼らは空気を乱しても頭ひとつ飛び出ることを良しとするなどといった精神性は持ち合わせていないだろう。ほとんど同じクラスで進級する場合など特に目立たない事が重要視される。溶け込む、とよく揶揄されるその状態が一番良いわけだ。

タブー視されている性の取り扱い

二木は表面上いたって普通の美術教師である。仮にもし広一がこの秘密を握ることもなければ、穏便な生活がただ展開されただけであろう。この人物が「やばい」と描かれるのは、それが「小児性愛」というタブー視される性愛の持ち主であるためだ。

ここで小児性愛とはいったいどういうものかをおさらいしてみる。

小児性愛障害は、小児(通常13歳以下)を対象として性的興奮をもたらす強い空想、衝動、または行動が反復的にみられることを特徴とします。小児性愛では、男児のみ、女児のみ、または男児と女児の両方が関心の対象になり、小児だけの場合もあれば、小児と成人が対象になる場合もあります。
小児性愛の診断は、小児に対する関心のために強い苦痛を感じているか、日常生活に支障をきたしている場合、または衝動を行動に移した場合に下されます。治療としては、長期の精神療法に加えて、性衝動に変化をもたらし、テストステロンの血中濃度を低下させる薬剤を使用します。

小児性愛はパラフィリアの一種です。他者に危害を及ぼすことから、精神障害とみなされます。

MSDマニュアル 家庭版
https://www.msdmanuals.com/ja-jp/home

「普通じゃない」という大きな括りでは田井中も二木も一緒だろうが、実際には小児性愛はパラフィリアの一種、また精神障害であるとみなされておりそもそも個性ではない。

だが仮に該当したとてそれを周囲に口外し、懸命に治療に臨むことが出来る人がどれだけいるだろう。重病に罹ったことを家族に打ち明けることはただでさえ勇気のいる事、ましてや小児性愛となれば怪訝な目で見られることは不可避。それまで得られていた生活はとたんに脅かされ、地獄の様な日々が待ち受けるかもしれないのだ。黙っていれば、独り墓場まで持っていければ得られた「普通」を捨ててまで正しくあろうとするだろうか。

「性」は昨今でも同意の取り付けなどが話題となり、大人であれ非常にデリケートな問題である。非力な子どもが大人の目論んだ行為に進んで同意するなど有り得ない。小児性愛者による事件は後を絶たず、日本でも日本版DBSが成立するなど法整備が続々と行われている。子どもをもつ親であれば誰でもこの手の話には神経をとがらせていることだろう。我が子が知らぬまにどこかで何者かに大きなトラウマを植え付けられることから阻止せねばならない。「ヤバい」という視点は防衛本能であり、必要なものなのだ。

広一は秘密を知ったことから、二木に対して強く出た。それは場合によってはやりすぎではという印象をも与えただろうが、それは二木の持つ小児性愛という特殊性から来る広一の防衛本能の裏返しだったのかもしれない。

これが男子高校生とのやり取りではなく、女子高校生だったらどうだったろうか。

また高校生ではなく小学生・中学生ともっと年齢層が低ければまた話の様相も違って見えただろう。たとえ本著同様に二木がAの皮を被っていたとしても内容はアブノーマルな匂いを増し、より犯罪に近い感じがして嫌悪したように思う。それもまた、読者である私の防衛本能かもしれない。


BはBのままで?

物語の終盤、二木が語った身の上話を録音したスマホは吉田によってクラスメイトに勝手に打ち明けられてしまう。何かあった場合の保険、そしてお守りとしてそれを持っていた広一はキッカケは何であれ全体にばらしてしまったうしろめたさからか、ロリコンなのは自分だと口外して二木を庇った。

二木は確かに「ヤバい」性的趣向の持ち主だ。だがそれを本人が一番自覚していること、誰とも親しい間柄になろうとせず墓場まで持っていくつもりで過ごしていることを、やり取りを介して広一は誰よりも知っていた。変態と罵った彼がどうにかAを生きようと努める姿を見習い、自分もああいう風に振る舞うことができればと思うほど、他は普通だった。二木はすべてを打ち明けて職を辞することを話すが、それすらも広一は拒んでいる。、

ストーリーは媚び猫が二木のスニーカーにすり寄るところで終わる。広一の説得もむなしく、きっと二木は宣言通り学校をやめるだろう。だがもし二木が学校に残ったとてAの皮を被り続けたまま定年を迎え、誰にも危害を加えず一生を全うできただろうか。

保証などどこにもない。だが不可能とも言い切れない。強靭な精神は必要となるだろうが、すべての人が犯罪者となるとも限らないのだ。

当事者だって普通じゃないということをずっと苦しんでいるのかもしれない。誰にも打ち明けられずに孤独を抱えているかもしれない。小児性愛は個性ではないが、あくまでそれを自覚した大人が普通を振る舞い、無害であり続ける努力を重ねる姿は少なくとも思春期の「普通」に悩む青年の心を動かした。

勿論子どもに危害を加えるなどもってのほかだが、そうした闇を抱えながらも必死にもがく人にも内面次第で広一の様に多少の思い遣りを持てるのかもしれない。

物事はその言葉の持つニュアンスがネガティブなほど否定的に見られ、考える余地もなく毛嫌いされがちだが、決めつけるのではなく慎重に向き合っていければなと考えさせられる一冊だった。

勿論、相手の非を見つけた時にそれを勝手に晒し上げてつけこんでいいわけではないという認識も改めて。(昨今のSNS事情を鑑み)


二木先生、怒涛の面白さ、でした。

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