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マザー オブ 〇〇

お母さん。ママ。おかん。おふくろ。

呼び方は色々あるけどすべてマザー。ちなみに我が家は「母上」でした。(なお父は「父上」ではない。理不尽/笑)

母親と子という関係性のどちら側にも就くようになってから、いろんな「母と子」の関係性や「母親」について考えたりするようになった。自分が子どもとしてどのように母を見てたか、という具体までは記憶が曖昧だけども。

いろんな母親がいるよね。いろんな人がいるのだから。「ママ」というより「おかん」という代名詞の方が自分に似合って感じられるのも、きっとママはどこか「洋風な」、「おしゃれな」、「細くて」、「綺麗」みたいなイメージをママという言葉に自分勝手に付帯させているからのように思う。

自分はどちらかというと、「関西弁の」、「ゴツイ(筋肉質?)」、「おおざっぱで」、「ぶっきらぼう」、(で且つサイド刈り上げ)なゴリラなんだが、おかんという言葉に連想するものがママよりかは多少自分に近いと判断した結果おかんに属する。気がする。


私の母は形容するなら箱入りなお嬢さん、という感じなんだけども子どもの私から見てもママでもおかんでもない「母上」がしっくりくる。子どもの頃なんて呼んでたっけ、お母さん…?もう「母上」期間が長すぎてそれすらも忘却の彼方だよ…振り返ると母は放任主義、というか兄弟3人いるうちの一番上の私のことは「まぁなんとかやるやろ」と積極的な干渉はしてこなかった気がする。なんかあったら連絡してくるであろう、と特に心配されたこともなく、一人暮らしも難なく進んだ。

まぁそんなこんなで、今度は自分が母親側、としてどういう風に今後子どもと接していったらいいかなぁと考えてみたり。子育てや育児本に関しては、自分で関心を持ったものは片っ端から手に取って読んでみている。何百冊、と読んだわけじゃないけど、読めば読むほど帰結する場所がある。

「自分がどうありたいか」


子どもをどうこうする精神論や具体論など色々あるのは読んでいて面白いけど、結局自分の受け止め次第なんだよね。子どもがどうであれ、自分がその状況を受け止められなければどんな関係性・解決法であれしっくりはこず、悶々とする日々が続くように思う。逆に自分がそれを受け止められれば、たとえ正解(などと育児にあるのかは疑問だが)とは違ったものであれ、切り抜けていけるような気がする。

どんな教えのもとで学ぼうと「何のために生きているんだろう」「何のために生まれたんだろう」という疑問にぶつかったとき、人は独りなんだよね。答えを模索するのも、見つけるのも、悶々としながらも生を続けるのは自分。薄暗くつらい日々を送るのも自分。この三十数年生きてきた中で死んでしまいたいと思ったことも多々ある。別に貧困でも裕福でもない中の中層の家庭で何不自由なく生活しながら。だからこそ。

身に着けてきたクセという鎧を見つめ返して、もう一度、脱いだり、新しいものと取り換えたりしながら常に自分を歩み続ける。それは自分にしかできないこと、自分だからこそ出来ること。たった30年違うだけでも全く異なる世界に生まれてきた君を昔(自身の子ども時代)を参考にして助言したとて、どう役に立つだろうか。成長(ブラッシュアップ)が必要なのはこちら側なのだ。

ずっとこの先君が老年になる頃人生が楽しかったと思えたらいいな、と夢をみつつ、今はこの日々、喜怒哀楽を一緒に楽しんでいこう。

それがきっと私の母ちゃん像、私という一人の母ちゃん。

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