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佐伯祐三と祐正という兄

先月末あたりに佐伯祐三展に中之島美術館へ行ってきましたー(どんどんぱふぱふー、って今はもう古すぎる?)

中之島美術館て面白いなぁと思う。建物の内部の造りが。今回は渡辺橋からそのまま下を通っていくルートで行ったんだけど、なるべく日に当たらないため雨の日や暑い日のおでかけ鑑賞に良いルートだなと思った。

ところで私が最も好きなのはあのひまわりの絵と自ら耳を切り落としたことで有名なヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。美術館に足を運んで海外のアーティストもちょくちょく目にしながら自分の好みというものを見定めているところなんだが、正直日本の画家についてはあまりに何も知らなかった。(大好きなゴッホですら日本画について触れているのだが…。)

佐伯祐三…そもそも名前すら知らなかったのに目にした一枚の絵があまりにゴッホに似てる気がして『絶対行く!!』となったわけです。

結論から言えば『オーヴェールの教会』という作品はゴッホをめちゃくちゃ意識し、同構図で描いていたんだけども、それ以外の作品がまたすごい。なにがって、絵の表現がコロコロ変わって、何も表示がなかったら同じ人物が描いたとわからないくらい。

フォービズムの巨匠ブラマンクに一喝されて落ち込んだ話は有名だが、その後模索しながら己の表現を獲得していったことは結果良かったのだろう。今じゃ叱責されて奮起する人も少なく、褒めて伸ばせの時代だけれども、佐伯がもしブラマンクに「それもいいね、でもこうしたほうがもっといいのではないか」などとあたたかく指導されていたとして現代まで名を残す画家でいられたかは甚だ疑問がのこる。

佐伯はすごいスピード感をもって作品を仕上げていたことで知られているけれども、これは『命』と常に隣り合わせに生きていたからだろう。遺伝的にも体が弱かったことから死を意識せざるを得なかったのではないか、そして短い生の中で何かを成す為あの一喝はガソリンとなり、疾走し続けたのではないだろうか。

佐伯は渡仏と帰国を繰り返しながら絵と向き合っていたが、父の死の間際に裕福な家の娘との結婚を許され、のちに生まれた一歳の娘と共に再び渡仏している。

当時は船に数ヶ月揺られながらの旅であろうことを鑑みると、同じ子を持つ親としてはただただすごいな、と感心してしまう。勿論残りもうわずかしかないと分かっていながらの選択であっただろう。しかし当時のパリには日本人画家が数百人ほどいたというのだから驚いた。それらは誰しも資金に余裕のある者たちだっただろうな、とぼんやりと思い巡らせたことはここだけの秘密にしておいてほしい。

佐伯の画は渡仏時の広告をメインに描いたものが有名だが、今回の展示では帰国時に描いた下落合の風景や大阪の港の船、またそれら景色に見つけた線という要素の重要性などを発見することができた。

日本滞在時の佐伯の画はどれも電柱が際立って見えることに当初違和感を覚えていたが、それは画の構造上意図的に電線を省いているから、と知ったとき合点がいった。なので電線を敢えて描いた作品などは新鮮に感じられた。

『滞船』などは線が際だって見えるが、同じ『線』にこだわるなら個人的には『目黒自宅付近』、あとは『汽船』が好みだなと思った。汽船は滞船ほど線が目立たないが、煙突からもくもくと噴き上がる煙の感じ、それによりモヤがかかった様に見えるのか、そもそも曇天だったのか、はたまたその両方か、などと想像を掻き立てられた。

新しい表現を求め訪れたモランという田舎町で描いた『煉瓦焼』などは昨年1927年までの(広告などの画)とはまた少し異なる佇まいの作品である。それまでと比較すると幾分シンプルな感じが印象深い。この1928年時に生まれ出でた画がまだ佐伯を知らなかった自分が佐伯の中にゴッホを垣間見たのだと後に分かった。ブラマンクではなくあくまでゴッホ、というところがまた興味深い。

これまで佐伯の描いた風景画について触れたが、最も今回の主題となっていた『自画像』は言うまでもなく面白かった。美術専攻の学生はその上達のために自画像を描くというのは一般的なのかもしれないが、私などは初めて知ったもので、印象の違うさまざまな佐伯の自画像を前にあれこれと思い巡らせながら館内を歩み進めたことは記憶にそう古くない。

印象的だったのは顔が黒く塗り潰された自画像でこれは佐伯が困惑して時には嘆き、それでも自分なりの表現を模索しようと足掻く様がひしひしと伝わってきた。執念と絶望と一縷の望みといったようなものが渦巻く様から彼の本気を見たような気がした。


佐伯は『黄色いレストラン』ともう一枚完成だと自負できる作品を描き上げ、これは誰にもくれてくれるなと言い残し、この世を去った。この一枚だけを眺めてもきっと気づけもしなかっただろうが、自画像や風景画の遍歴を並べ観て、なんとなく言わんとすることがわかる様な気もした。しかしそれと同時にまだ生きながらえていたら、更なる佐伯節とでもいうような何かに出会えていたかもしれない。だからと言ってこの死と隣り合わせの生活抜きに彼を語れるかは無論不可能の様に思う。

パリという舞台に魅せられた佐伯。日本には書くものがない、と漏らしながらも線という新しい要素に出会い、新しい表現を手に入れては捨て、更なる表現を追い求め続けた。巨匠の叱責をバネに疾走し続けたその人生に敬服すると共にこの画家の人生について思い馳せた時、ふと、新たな視点がふって湧いた。それは佐伯祐正、祐三の兄に当たる人物についてである。

渡仏した佐伯の身体を思い遣って日本に帰国するよう現地に足を運び促した兄の祐正は住職である父の死後その後を継いだが、その独自の思想からセツルメント活動に力を入れていた。このセツルメントという活動に私も大学時代関わっていたことから急に接点が出来たのである。

ゴッホ、佐伯祐三、兄の祐正、そしてセツルメント…とても縁を感じずにはいられず、祐正とセツルメントについて調べるなどしたことはまた別途したためたい。

とりあえず佐伯祐三展…思った以上に良かった。
有働由美子さんのナビゲートも相まって、尚更に良かった。企画してくれた人たちに感謝。

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