親といるとなぜか苦しい: 「親という呪い」から自由になる方法/感想
親という呪い、恐ろしい響きだ。しかし『親といるとなぜか苦しい』とは誠に切実な訴えであり、昨今で定着しつつある親ガチャや毒親といった言葉が示すものから、表面的にはもっと平穏そうな「一般的な」という仮面をかぶった謎にモヤモヤする親子関係に何年も苦しめられてきた、または現在進行形で苦しんでいる人たちがいることを示している。
私がこの本の紹介を読んでパンチを食らった気分になったのはこの冒頭の「家庭環境は平凡です。だけど親が嫌いです」という一文である。平凡だが嫌い。一般的には中の上または下くらいの暮らしぶりという自覚があるのだろうか。
勿論好き嫌いやウマが合う合わないは人それぞれだと思う。しかしこの一言にはそれ以上の何か根深いものを感じさせられた。監訳に岡田尊司氏の名が並んでいるのも相まってこの本を手に取るキッカケとなった。
以下私目線でのまとめ。
まず大前提として、親に(精神的に)欠陥があるということを見つめる、というのは子どもにとってとてもショックなことだ。
しかし同時に今抱える何らかの問題がそれを原因としているかもしれないと考えることはその問いに一筋の光を与える。モヤの出所が分かることで対処がしやすくなるかもしれないのだ。
早く仕事に就く/性に対し積極的になる/早々に結婚する/軍隊に入隊する
精神的に未熟な親に育てられた子どもはまだ若いうちからこのように進んで大人の仲間入りをすることが多いらしい。(つまり上記の様な傾向がある。)早いうちから大人の相手をすることを余儀なくされたことにより精神的な時間の流れは同年代よりも幾分早く進んでいるのかもしれない。
では精神的に未熟な親とはいったいどういった状態の親を指すのだろうか。
●精神的に未熟とは
・感情にあまり関心がなく、自分の感情を表現する言葉もとぼしいので、たいていの場合、精神的なニーズを言葉ではなく態度で表す(情動感染)
・ほかの人の気持ちなど理解する必要はないと考えている
感情的な反応や無神経な反応をしておいて、「正直に思ったことを言っているだけ」だとか「自分を変える事なんてできない」などと正当化する
・自分の要求をはっきり伝えずに、意地悪く自分の思いを察してくれというプレッシャーをかける
・”子どもに”自分を理解してもらい、ミラーリングしてもらいたいと思っている
(心理学的にみて大人のミラーリングが正確にできる子どもなどいない)
・ほとんどのタイプが苛立ちに対する耐性が低く、自分の望みをかなえたければ、言葉でのコミュニケーションよりも精神的な駆け引きをしたり、
相手を脅したりする
・子どもが怒りの感情を示すと、まず間違いなく子どもを罰する
といった傾向を示す親のことをさす。
またそうした親もおおよそ4つのタイプ毎に分かれるらしい
なんだか呆然としてしまう内容である。
しかし該当する内容が横断的であったりパッとした印象を得られない場合もあるかもしれない。そこで以下に具体的な例を載せる。
親を兄弟の様に感じてきた人、また兄弟の中でも自分ばかり理不尽な対応を求められたと感じる人は「未熟な親」に育てられたのかもしれない。私個人は後者に該当する様に思えた。不愉快なエピソードがこの例に酷似しているように思われたのだ。
では逆に未熟ではない親とはどういう状態を示す親なのだろうか。
●精神的に成熟しているとは
・ボーエン(1978)
他者と深い精神的なつながりを保ちながら、客観的かつ概念的に考えることができることをいう。精神的に成熟した人は、自分の判断で動くことができる。深い愛着を持ち、その独自性と愛着の両方を生活に自然にとり入れている。自分の望みをまっすぐに追い求めるが、そのためにほかの人を利用することはない。自分が育ってきた家庭の人間関係を引きずることなく、自分なりの人生を築こうとする
・コフート(1985)
じゅうぶんに発達した自我
・エリクソン(1963)
(十分に発達した自我と)アイデンティティがあり、近しい人たちとの関係を大切にする
・ゴールマン(1995)
相手の気持ちにしっかりと寄り添うことができ、衝動も抑えられ、精神的な知性もある。心がおだやかで、自分の気持ちに正直でいられるし、ほかの人ともうまくやっていける
・ボーエン(1978)
ほかの人の精神生活にも関心があり、彼らと精神的に親密に心を通わせあっていて、それを楽しんでもいる。問題があれば、相手と直接やりとりをして、食いちがいをとりのぞいていく
・ヴァイラント(2000)
意識して自分の考えや気持ちを処理しながら、ストレスにも現実的に、前向きに立ち向かっていく。必要なら自分の感情をコントロールし、未来を見越して対策を講じ、現実に対応し、相手の心に寄り添い、ユーモアを交えながら、難しい状況を和ませ、相手との絆を強めることもできる
・シーバート(1996)
客観的であろうとし、自分をよくわかっていて、欠点も認めている
●これから出来る心構え
私は自分が今どのような状態で、またどのように育ってきたかを見つめ返し、腑に落ちるまで葛藤や納得を繰り返すことは自分が親となって負の遺産を子に引き継がないためには必要な工程だと考えている。自分自身の思考や癖が無意識に子どもに継がれる可能性は大きいためだ。
この過程は親をバッシングすることとは違う。親は親なりに精一杯自分という子どもを育てるべく努力したのかもしれない。
勿論そういった努力を放棄してきた親もいるだろうから一概には言えない。しかし壁を築くことに全精力を傾け、気持ちを正直に話したり、処理したりすることを避けることで心が傷つけられることを親自身が子どもの頃から身に着けてきた結果かもしれないという視点を持つことは一つ理解の一助になるやもしれない。
自分の中の「内なる子ども」は親が変わることを期待してしまうが、我々がすべきことは大人として自分の考えをしっかりと持ち、独立した一人の大人として親と付き合うことだと著者は述べる。
血が繋がっていようと親は親、子は子。
別個の存在であると、背中を押してくれる。