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神はいるのか、いないのか(後編)

方々に散った神達はまた再び元の地へと帰り着いたであろう頃。

前回老いという視点から大人を考える、という記事を書いた。

今回はその続きについて。少し前にネットで記事を読んでいたら現れた九星気学占い、というものをやってみたところ、どうやら私は三碧木星に該当するらしい。そもそも九星気学に詳しくないけれども、そこに記載されていた流れというものに言いたいことが多分に含まれる気がしたので引用してみる。

変化のなかにあることを、誰もがそれぞれのかたちで実感するとき。人によっては、「主役はもう自分たちの世代ではない」ということを認める、受け入れることもあるのだろうと思います。ただそれは「退場」や「傍観者になる」という意味合いではなく、役割が変わるという話なのでしょう。自分が下の世代のために何が出来るか、本格的かつ具体的に考え始める人もいそうです。「この人を幸せにしたい」と思うことのあたたかさが、秋が深まるなかで心に染みていきそうです。

【11月1日~14日・三碧木製の運勢】
真木あかりの九星気学占い

「主役はもう自分たちの世代ではない」ということを認める、受け入れることもあるのだろうと思います。ただそれは「退場」や「傍観者になる」という意味合いではなく、役割が変わるという話なのでしょう。自分が下の世代のために何が出来るか、本格的かつ具体的に考え始める人もいそうです。という文の中の「役割が変わる」という点が最もらしいかもしれない。

ひとつ思うのは、自分の人生の主人公は自分であり、主役という点では変わらない、ということ。しかし大きな社会の一員としての自分はもはや主役の座にはついていないということ。

つまりショーのエキストラであってもそのエキストラの人生を謳歌していい。ヒーローやヒロイン、はたまた二枚目三枚目といった主役級に固執しない、と言ってもいいかもしれない。

人生を有限と捉えれば年を重ねるほど残される日数が少なくなるのは当然のこと。では今のこの時間からいつか来る死までの時間をどのように過ごすのか。望むことすべてが叶う人生だったらば、どんなに幸せだろうか。もしくは、不幸せだろうか。多くを成すにはあまりに人の一生は短く、また叶わないことが沢山あるからこそ叶えていくものを選択する、ということに意味があるのだと思う。

外国のコトワザに「人間は一度に二枚の服は着られない」というのがあると教えられて、選んで生きることの大切さを痛感したことがある。人間が生きるという行為は、必ず何かを捨て、何かを取ることなのだ。

老いの冒険
曾野 綾子

「断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ」三木は希望にも断念にも「ほんとに」「真の」と限定をしています。初めからすべてを諦めているような人は、本当の意味で断念することを知らないのです。反対に、何も断念できない人は、真の希望を持つことはできません。

「今、ここ」にある幸福
岸見 一郎

その意味で大人は常に選択を迫られていると考えられる。自由に選択できる場合もあれば、やむなくその選択肢に頼らざるを得ない場合も少なくはないだろう。そうした選択の後にふと沸き上がる寂しさや悲しさを多少抱えながらも、それでもこの選択肢で良かったと自身を納得させられるか。そっと執着を手放し、今手元にあるもので満足することができるか。

すなわち、この世に起こり得るすべての善も悪も、何らかの意味を持つと思えることが許容であり、自分の身に起こったさまざまのことを丹念に意味づけしようとするのが納得である。宗教的に言えば、それは神の意志を、自分の上に起こるすべてのことに見ようとする努力である。望んでも与えられなかったことが、どの人間の生涯にもあり、その時執着せずにそっと立ち去ることができれば、むしろ人間はふくよかになり得ると思えることが断念である。

90歳、こんなに長生きするなんて
曾野 綾子

相手を変えるのではなく、自分が変わる。どう変わればよいのかというと、ひと言でいうなら「おとなになる」ということです。おとなには三つの要件があります。一つは、自分の価値を自分で認められること。自分がしたことや自分の存在価値を、他者からの評価に関係なく、自分で認め、価値があると考える。誰かにほめられたり、認められたりすることを求めない、ということです。

老いる勇気
岸見 一郎

この自分がしたことや自分の存在価値を、他者からの評価に関係なく、自分で認め、価値があると考える。誰かにほめられたり、認められたりすることを求めない、ということ。特に「他者からの評価に関係なく、自分で認め、価値があると考える」という部分はかなり重要に思える。これは自分のした選択とその結果としての今の自分を受け止める、ということであり様々な情報にすぐにアクセス出来る現代ではなかなか難しいことかもしれない。自信なるものは誠に揺らぎやすく、価値は時間の流れと共に次々と取って代わる。

二ーバーの祈りの一節
『神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ』

老いる勇気
岸見 一郎

すべてを変えていくほどの野心や向上心は社会性の獲得と共にどこかに霞んでいってしまった、だがすべてをそのまま受け入れるだけにはまだ早い…二ーバーの祈りは、年を重ねて大人という年齢になった者たちの悲痛な祈りにも通じるかもしれない。

齢を重ねたからといって、立派な人間になるわけでも、尊敬される老人になれるわけでもありません。そうなるには、不断の努力が必要です。

老いる勇気
岸見 一郎

さて主役はもう自分たちの世代ではないということを認める、という話に戻るが、長らく自分という軸でのみ生きてきたのにどの様にその座を降りるのだろうか…そこでアドラーは他者を愛することにより共同体感覚にたどり着くことが出来ると説く。

アドラーは「他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放される」といっています。他者を愛することによって、初めて「共同体感覚」にたどり着くことができるということです。共同体感覚とは、「私」を主語として物事や人生を考えないということです。

老いる勇気
岸見 一郎

この共同体感覚をもって私という主語から降りる、つまり役割を変えるということができるのだろう。またそうした感覚でこそ、他人のため損な立場に回ること、つまり遠慮することが可能なのかもしれない。それが本物の大人になるということのひとつだと曽野は説く。

人間と動物とは、精神作用の上では、明らかに本質的な境界線があり、動物にはなし得ないことを、人間はできるのである。それは、「魂の生を生きること」である。「他人のために死ねること」だと言ってもいい。もっと穏やかな言葉で言えば、「他人のために、愛をもって損な立場に回れること」だと言ってもさしつかえない。

本物の「大人」になるヒント
曾野 綾子

本能をコントロールすることが「遠慮」なんですね。十人いれば十分の一もらえると思う。できたら十分の二人前もらえたらいいなと考える。それをコントロールして、本来は十分の一人前もらえるところを、「私はもう年寄りだから、その半分でいいですよ。あとは、この子供にあげてください」と言えるのが人間です。つまり、動物的平等化を人間的に馴らす方法が「遠慮」だと思います。

老いの才覚
曾野 綾子

大人は無邪気であってはいけない、ということ。それは年月を経て得たもの、失いつつあるものに向き合い対処する、ということなのかもしれない。

無知ではいられなくなったこと、知ったからこそ見えるようになった違う視点などを考慮に含めて判断をするということ。見えるものが全てではないと知ること、そして何より考えること。教科書の隣に参考書を添えて勉強したあの頃のように、ゆく先の生の隣に本を備えて学び、考え続けるということ、そして先々で起こる選択とその結果に自身を認め、また変えられるものを変える努力をし、変えられないものはそっと手放す勇気を持つこと。

それが大人、ということなのだろう。

だれでも自分が得ているものを失うのは怖いですが、私は、今そうではない状況に対して心理的に考えて備えるより仕方がないと思っています。

老いの才覚
曾野 綾子


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