幸せと乾杯
自分の幸福論
幸せ論
両親
毎日仕事をやり終えてから、買い物を当たり前にして、料理を作って
家では笑顔を振り撒く ゆっくりした気持ちを持って過ごせる
それがどんなに難しいことかと今は思う。
実際に同じようなことしてみて、買い物は、毎日、毎週と続けていくと疲れてしまう。
同じ物ばかり作ってしまうとそれだけで、これはなんか嫌だなとか思って、またメニューを考える。また、メニューを練り直す。
そうこうしてる内に時間が過ぎて、帰ってきた頃には1日の終わりが見えかけしてしまう。そしてやりたかったことや、できなかったことに後悔する。もちろん完璧ではないから。そんなことは無理だから。
当たり前の日常は、その頃に思ってた小さな幸せは、誰かの努力の結晶だったと気づく。
話しは変わって、そんなこと考えてなかった学生の頃。
学校では、飲み会とか合宿ではバーベキューをした。お酒の乾杯や飲み会が楽しかった。だけど、飲み過ぎて、夜の花火や卓球を楽しめなかった。楽しみの本質を見てなかった
お酒を飲むことや、学生なら女性といろいろ話したいとかばかり考えていた。楽しみばかり考えてる僕に対して、周りは、男性陣のためおにぎりを一生懸命に作っていた。
そういう人は、すでに自分なりの幸せを知っていて、本当の意味でのお酒の乾杯や楽しみ方を既に知ってたのかな?
何かを一生懸命にした後や、楽しいことを分かちあった後のお酒は美味しい。
お酒を乾杯する時は幸せな気持ちでいたいと思う。そういう気持ちを持つのは難しいけど。
それをあの時教わりました。
社会福祉士の理論は、方法で、アプローチは、クライアントに近づく方法らしい。
人の問題を解決するため
それは、いろいろな人が昔から人々を支えたり、楽にするために考えて作ってきた。
そして、新しい理論を作るのは、今を生きる人とのこと。
僕は、その両親とかの継続の中に幸せの欠片がたくさんあったように思う。
その両親の継続があったから、それが支えとしてあったから、いろいろな壁にぶち当たった時も諦めることはなかった。
そして、幸せを見つめ直す機会にもなっている。
それが僕を助けてくれた一つの方法、姿だったように思う。それをモチベーションにそういう気持ちを忘れずに勉強したい。
おそらく、両親にもそういうモチベーションがあったのだろうと思う。
それを幸福論とかそういう言葉で表すのは大げさだが、そういう物事の中で見つけていかないと幸せには程遠くなる。
だから、小さな幸せで道を繋いで、大きな幸せへと歩んでいきたいと思う。
親が育ててくれたから、それは継続したものだし、それが幸せに繋がることも当たり前のことなのかもしれないが、もちろんそうじゃない人もたくさんいる。
だけど、何にその継続とか姿を見いだすかは、なかなか多すぎて見つけられないし、絞れない。それは両親そのものだから当然だけど、それを何か見いだせた時に、きっと自分自身を救ってくれるような気がする
辛いことからは逃げられる、逃げた方がいいときもある。逃げない方がいいときもある。だけど、買い物を毎日達成しても誰からも評価されないし、誉められない。それは続けていくことはすごく難しいと思う。たまに逃げても、たいして変わらないものだとしたら尚更。
もう再会できない友人、もうもどれない過去もう会えない人、それらを思うと
年々、お酒を乾杯する時はいろいろな光景がこみ上げる。
そして、こみ上げるような生き方がしたい。
これから。
幸福論を考えていくと、~したいと行き着くな。
乾杯は、いろいろな幸せを映すモノであってほしい。
あの人は継続の中で、何を思って、お酒飲めないから何で乾杯してたのだろうか?