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素敵な「文化的雪かき」

昨晩、ようやくトンネルの向こうに一筋の光が見えた。
出口はもうすぐだ。

今月は出張や取材が多く、次から次へと仕事が来るものだから、土日も関係なくひたすら仕事をしていた。
そして22日の今日になっても、まだ年内に4件取材が残っているという状況。ちょっと震える……。
だが、それでも今日を乗り切れば、「なんとか28日中には仕事を終えられる!」というところまでこぎつけた。ようやくだ。

私はしがない商業ライターなので、仕事はいつもやりがいのあるものばかりじゃない。新聞や雑誌に記名入りで書ける記事もあれば、誰がやっても同じだよな、と思うような仕事もある。

そういう時、思い出すのは、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公の言葉だ。
彼はフリーの商業ライターをやっていて、自分の仕事を語るとき、頻繁に「雪かき」という言葉を使う。自分のやっていることは「文化的雪かき」だと。

たとえば、こんな場面。彼は女性誌で美味い食べ物屋を紹介するため、カメラマンと共に店をまわる。

僕が文章を書き、カメラマンがその写真を撮る。全部で五ページ。女性誌というのはそういう記事を求めているし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。
僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。

うまいこと言うなぁと思った。「文化的雪かき」か。
私がやっている仕事もまさにこれなんじゃないかと思った。

こんなふうに自分の仕事を説明する場面もある。

書くというほどのことじゃないですね。穴を埋める為の文章を提供しているだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いているんです。雪かきと同じです。文化的雪かき。

物語の中で、私と同じようにこの表現を気に入った人が「俺がどこかで使っていいかな?」と尋ねると、「僕」は「いいですよ、どうぞ。別に特許をとって使っているわけじゃないですから」と言っていたので、私も勝手に使わせてもらうことにした。

村上春樹は決して良い意味でこの言葉を使っていないのだが、「文化的雪かき」と表現してみると、それはなんだか素敵な仕事のようにも思えるから不思議だった。(ハルキマジック!)
とにかく気に入って、昔からよく自分の仕事を語るとき、自虐的に「私の仕事なんて、所詮、文化的雪かきだから」と言っていた。

それでも、私はどんなに小さな仕事でも手を抜かなかったし、期限は守ったし、少しでも良いものを書こうと努力した。そうすれば、反応があった。誰かが喜んでくれた。

だから、途中からこう思うようにしたのだ。雪かきでいいじゃないかと。
誰かがやらなければならない、ただの穴埋め記事だとしても、それはきっと誰かの役に立つ。
この世に必要ない仕事なんてないのだから。

時間がなくて、自分が雪かきをできない人のために。
腰が悪くて、雪かきをするのがしんどい人のために。

私が代わりにやってあげればいい。きっと喜んでくれる。自分の仕事はそういう誇れる仕事なんだ、と。
そう思うようになったら、もう「文化的雪かき」を自虐的に使うことがなくなった。

「話はできるけど、伝わる文章にならない」
「言いたいことはたくさんあるのに、うまく書けない」
そんな人の代わりに書くのが、私の仕事。
とても素敵な「文化的雪かき」だ。

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