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「今の自分」を支えてくれるのは、がんばってきた「過去の自分」だけだ。

なぜか忙しい時に限って、仕事の案件が重なる。
1週間、ゆったり、ひま~!という時もあるのに。

これはフリーランスの“あるある”だと思う。
「なんで、このヒマな時に仕事来てくれへんの!って思うよね」
「この週だけ詰まってるのに、なぜかピンポイントでみんなこの週に仕事振ってくるねん」
私のまわりには、ライター、カメラマン、デザイナーと、フリーランスが多いので、いろんな人からよく聞く話だ。

また案件の内容が、「取材の日がまるかぶり」なら事情を話して断るしかないのだが、困るのは「ビミョーに忙しい時」だ。
「〇日の〇時から取材入れますか?」
と聞かれてスケジュールを確認すると、他の取材は入っていない。
行けるっちゃあ、行ける。
ただ、その日はすでに自分の中では「取材済の原稿執筆日」にあてていたりする。

あー、この日に取材入れたら、あの原稿いつ書くんやろ……?
まあ、翌日のここを調整して、あとは土日どっちかつぶして、最悪は睡眠削ればなんとかなるか……。
そんなことを頭の中でやりくりして、気づけば「はい、大丈夫です!」と返事してしまっている。

それが以前の私だった。

実際それで「なんとかならなかったこと」はないし、何より「断る」ほうが怖かった。
これもフリーランスの“あるある”だが、仕事が詰まって休みがとれないほど忙しくて、「あ~ん、休ませてよ~!」と思っている時と、仕事がなぜか途切れて平日なのに2日くらい休みがあって、「あれ?なんかヒマなんですけど……」と思っている時と、どちらのほうがより精神状態が悪いかといえば、間違いなく後者なのだ。

「仕事がない」
フリーランスにとってこれ以上不安で恐ろしいことはない。あの恐怖に比べれば、眠れないほど忙しい日々の辛さなどたいしたことはないと思える。

フリーランスは社会のどこにも所属していない。だから「仕事」だけが社会とつながる1本の綱のようなもの。
投げられる綱はすべて掴み、切られるまいと必死にしがみついていた。そして、この綱がたくさんあればあるほど安心した。
大丈夫、まだ社会とつながっている。大丈夫、まだ必要とされている。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて、太い綱も細い綱も、それこそあまり好みではない綱も、なんでも手繰り寄せていた。

しかし、そんな生活を20年続けた結果、病気になった。(と思う)
それでもまだ根本的に自分を変えるまでには至らなかったが、昨年、「痛み」が日常となり、「死」がリアルに迫ってきて、はたと気がついた。
「社会から必要とされている」なんて幻想だと。私の代わりなどいくらでもいる。何よりこれは全部、命をすり減らしてまでやりたい仕事だったのか?いや、そうじゃないだろうと。
笑ってしまうくらい単純な答えが出た。

去年、思い切って考え方を変えた。自分を変えた。生き方を変えた。大事に抱えていた信念のようなものを、もういいやと、自然に手放した。
まずは長年お付き合いのあった取引先の仕事を辞めた。そのことはこちらの記事で書いた。

不思議だが、手放したとたん、自分が面白いと思えるような取材の案件が入ってくるようになった。新しいクライアントができたのだ。

だけど、そのクライアントからの依頼も、またいつもの癖で、何でもかんでも受けてしまいそうになることがあった。特に2回目の依頼の時は、内容が微妙だったので受けるかどうかかなり悩んだ。やりたくないけど、これを断ったら、他の案件ももらえなくなるかもしれないと思ったからだ。だけど、どう考えてもやりがいを感じられなかったので、正直に「この類のものはお引き受けできません」と断った。これで取引がなくなっても仕方ないと覚悟を決めた。
それが予想に反して、「わかりました。では、他の案件をお願いしますね」と、その後は私がやりたくなるような内容のものを依頼してくれるようになった。
なんだ、正直に言ってよかったんだなと思った。

また、内容だけでなくスケジュールに関しても、無理をしないようにした。
今私は全盛期と比べたら、大げさでなく3~5倍くらいの時間をとるようにしている。つまり、昔なら「3時間でできる」と思うような仕事なら「10~15時間」使えるようにするということだ。「1日でできる」仕事なら「3~5日間」。こうしないと、体調管理ができないからだ。

最初は断るのに勇気がいったが、無理して仕事を入れず、「すみません、ちょっとその週は仕事が詰まっているので、今回はお断わりさせてください」と言うようにした。
本当はそこまでぎゅうぎゅうに詰まっているわけではない。どこかで無理をすればできないことはない。それに、やはり断ることによって「次がないかもしれない」という恐怖はつきまとう。
だけど、もう不安や恐怖によって動かされるのはやめにしたのだ。
これは本当に大事なことだと思う。
何か行動する時は、それが楽しいかどうかで判断するべきなのだと思う。
無理をしたら、絶対に楽しくない。不安や恐怖で自分の行動を決めるのは間違っている。ようやくそう思えるようになった。

そうしたら、意外にもまた「じゃあ、今回はいいので、次の機会にお願いします」と、普通に受け入れられ、その言葉通りすぐに新たな案件をもらうことができた。
おかげで、今は無理なく、楽しく仕事ができている。
全盛期の5分の1くらいしか仕事ができないので、収入はどんどん減っているが、あまり気にならない。どうせあの世には1円も持って行くことなどできないのだから。

ただ、じゃあ若い頃に何でもかんでも引き受けて、寝る間も惜しんでがむしゃらに仕事をしてきたことは間違いだったのかといえば、それは違う。
もちろん、体を壊すほどの長時間労働やパワハラまがいの強制労働を肯定はしないが、もしそれが「自分のやりたい仕事」なら、会社員だろうがフリーランスだろうが、20代はがむしゃらに仕事をしたほうがいいと私は思う。時代に逆行した考え方かもしれないが。

なぜなら、年齢を重ねた時に自分を支えてくれるのは、「過去の自分」だけだからだ。あの時がんばった、あの時やり遂げた、あの時成功した――、そんな「過去の自分」があるから、今もがんばれるのだ。
過去に積み重ねた経験や知識、若い時にしかない感性で吸収したものが、今になってどんなに自分を助けてくれることだろう。
それに、歳をとると嫌でも行動は制限されてくる。記憶力も集中力も体力も20代の頃に敵うわけがない。私自身は、あの素晴らしく成長できる時期に、がむしゃらに働いてよかったと思う。

また、今、私が仕事をお断りしても、「次」があるのは、がんばってきた過去の自分のおかげだと思う。先方も「この人は20年以上もフリーランスでやってきた人だ」と認めてくれているし、頼んだ仕事はちゃんとしてくれると知っているから、「次」を用意してくれるのだ。
まだ駆け出しの若い頃に仕事を選り好みしていたら、すぐにこの世界から放り出されていたと思う。(もちろん、選り好みが許されるほどの才能を持っている人なら違うのだろうが、私のような凡人はという話)

今は「過去の自分」を「がんばったね!」と褒めてやりたいし、「今の自分」には「もう楽しむだけでいいんだよ」と、新しい生き方を勧めてやりたい。
無駄なことなど何もないが、どこかで「変わること」は大事だと思う。私の場合は、それが今だった。

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