考えることが減って「しまった」

友人と会話をしていて、「世間一般の人ってどれくらい自分について考えるんだろうね」っていう会話になった。

「生き方とか在り方、人間関係とか何を考えて生活しているんだろう」
それがその日のテーマだった。

(かなりストレートなテーマなので主観が強めなのはご了承いただきたい。)

ちなみに友人は「他人を自分の鏡だと思っている」人で、人間関係を通して相手のいいところや尊敬できるところを意識的に取り入れ成長し、人生を充実させていくようだ。自分の趣味嗜好も他人との関わり合いで、深めていくようだ。

反対に僕は「文字を通して自分を知る」ことに重点を置いているように感じる。「感じる」と言うのも、正直なところ僕は最近あまり自分について考えていなかったからだ。
それだけ身の回りのことで忙しかったこともあるのだけれど、考えてみれば、確かに自分について考える時間が減っていることに気がついた。

主に書籍や文章を通して、人の生き方を知り、「こういう生き方もあるのかぁ」「こういう考え方があるのかぁ」と知ってきた。他人と会話を交わすよりも、文字を通して、自分と対話することのほうが多かった。

でも最近は意識して自分を考えることをしてこなかったからかもしれないが、考えれば考えるほど、本の読み方がわからなくなってしまった。ブログも然り。

twitter(X)でこんな投稿を見つけた。

学問はまず物事を「真剣に受け止める」ことから始まるのだと言いたいですね。「受け流す」ことからは始まらない。最近は、blogとかがあるので普段から色んな意見を浴びて、若いうちから他人の意見を受け流す技が上達しているし、またそう言うのが賢いとされている。社会学はそういう時とても便利なツールとして使われている。つまり「俺はお前の意見とは違うよ」と言っても、「ああ、それはこう言うコミュニケーションなんだね」と、するっと受け流してしまう。でもそういうことを言っていると大成しないので、物事には真剣に取り組むべきです。
(略)

https://x.com/mado_014/status/1720395536392724967?s=46

この投稿にハッとした。
僕は「受け流しているな」と確実に自覚していた。と言うか「受け流す」ことを是としていたから。
世の中自分を救えるのも自分だけで、自分を幸せにできるのも自分だけであるということを、歪んだ形で解釈してしまっていたのかもしれない。

「自他の境界線を引き、自分の感情を大切にしろ」
これはまともなことを言っているかもしれない。けれども、少なくとも他人の意見を「受け流せ」とは言っていない。他人の考えを自分の中に入れず、自分の考えを守れとも言っていない。

僕は自分の心に殻を作っていた。

他人の考えを自分の中に取り込み、「こんな考え方があるんだな」って再確認する。その上で自分の考えを見直してみて、形を整えていく。たまにその他人の考えを取り込んでみたり、する。

正直なところ「受け流す」ことも簡単なことではなかった。「こうすべき」という啓発系の投稿も、今では柔らかくスルーしているが、今までは「そうなのか!じゃあそうしなければ!」って、結局歪んだ「受け止め」方をしていた。
また全体を通してみると、僕が白黒思考気味の人間であることが足を引っ張っているのだけれど、妥協というのはなかなか難しい。

「受け流す」ことも「受け止める」こともできるけれどできない。
上の引用を踏まえて考えてみるのは「受け止める」ことと「受け流す」ことの両方を、自分の中で折り合いをつけて、自分に適応させていくという意味なのだろう。
めちゃくちゃ難しい。

自分が白黒思考なのは把握しているから、何が正解なのかもわからない。正解などなく、常に考え続けることこそが正解なような気もする。
考えるのは難しい。
本を読め。
他人と話せ。

白黒思考のやめ方。検索。