不定期あれこれ(005)
人間関係リセット癖について改めて考えてみた。
僕自身が人に対して興味が薄いからか、縁を切ること自体に罪悪感とか敗北感を感じることがないと思うのは確かにそう。
これまでリセットしてきたタイミングは、SNSの「友だち」が多いからとか。その「友だち」の中にあまり関わりたくない人がいるからということが多かったと思う。関わることはないけれど、そこに「いる」っていうことに耐えられなかったのかもしれない。ブロックだったりすれば良いのだろうけれど、なぜだかそれができなかった。
ここの感情を思い出せないので、何か重要なことが秘められている気がする。思い出したらまた言います。。
僕がリセットすること自体に何を感じているかと言うと、多分何も感じていない。以前言ったように、人との関係性にあまり重点を置いていないね。縁も、自分から繋げようと努力していない。他人任せだ。これはあまり良い在り方ではないと感じている。
僕個人について、人の話を聞いて学びたい気持ちもなくはないけれど、文字から学ぶことの方が性格に合う気がしている。もちろん人と直接会話をして、会話を通して意見を取り入れることも十二分に大切だから、否定するつもりはない。どっちが良くて悪いとかない。個人の価値観の話。
僕が過去に人から救われるよりも、書籍に救われてきたことの方が多いことに由来するかもしれない。救われると言うよりも、人より書籍といる時間の方が豊かだったし、物理的にも人といる時間に比べて多かったことが理由かもしれない。
それだけで僕には理由になった。救われるなんて言葉は幻想で、割と人は勝手に自分でなんとかなってしまう。悩み相談が、それなりの相槌で成り立ち得るように。
人と話すことと文字(特に書籍)から得ることは同じ土俵で比べる物事ではないと思う。口語にも文字にもそれぞれ独立して良いところがある。会話をするなら別だが、話を聞くだけだったら本を読んでいても同じだ。僕に関して言えば、基本的に自分の意見を持ち合わせていないので会話をしようにも傍観者に回ることが多い。それに会話の場だと頭の回転がストップしてしまう癖がある。だから本と会話する。僕は自己完結型の人間なのだ。
だからと言って生きづらいとも、今のところは思っていないし、具体的に改善したいとも思っていない。別に他人に迷惑をかけているわけでもないから。
先日、中学生の頃の同級生と食事をした。会うのは成人式以来2年ぶりで、こうして食事の場を設けるのは中学卒業以来初めてのことだった。だからサシで会うのが、初めて?とも言えるし、まともに会話するのも7、8年ぶりくらいだった。
彼は中学の頃から全く印象が変わっていなかった。彼が辿ってきた道のりを聞いても「まぁ君なら違和感ないかな」で済んでしまう。
人間関係って難しいねって話になって、お互いの近情を話し合った。最終的に彼は「そのままの自分を受け入れてくれる人や場所は必ずあるよ」と言った。僕はその言葉を聞けただけで、彼に会って良かったと思った。
最近はいろいろ考えることが多く、「僕が変わらなきゃ」と思うこともあった。もちろん直すべきポイントもあるけれど、根っこは変えなくていい。そうやって無感情にも人を肯定する言葉が聞けて僕はホッとした。
「君なら大丈夫」とか変に自信をつけようとする言葉を言われるとちょっと萎縮してしまう。「”君“って何〜〜?」って。僕も僕を模索中なのです。もちろん僕のことを慮ってかけてくれる気遣いやその言葉は嬉しく感謝すべきなのだけど、ちょっと捻くれてるので真っ直ぐ受け取れない。ごめん。
そんなこんなで今日も生きています。