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エッセイ「N先生」

N先生の訃報は、5年ぶりに更新されたクラスLINEで届いた。

N先生は私が中学三年生の時の担任である。定年まであと二年という高齢の独身男性で、糖尿病を患っているらしく給食のときにご飯を全然食べていなかった。その割に丸々と太っていたので事情を知らない生徒からは色々なあだ名をつけられたりもしていた。生徒から好かれてのことではなく、嫌われてのことである。N先生は生徒、特に女子から嫌われていた。喋り方は常に高圧的で、何が逆鱗に触れるか分からない。授業で発言しなければ怒り、発言した内容に気に入らない部分があれば必要以上に長い説教が飛び出すという理不尽っぷりには、私たちもただ怯えながら、彼の機嫌が奇跡的に良くなることを願っていた。

そんなN先生だったが、私は嫌いになることはできなかった。
確かに怖い先生ではあったし、かなり苦手だった。それでも、彼が時折授業そっちのけで語る説教話には、どこか人生の真理に触れていると思える部分があったのだ。もう一人、N先生と似たような体型で、かつ同じような理由で嫌われている先生もいたのだが、彼の話はやたら自慢ぽかった。N先生の話には、そういった誇張や見栄は無く、ただ淡々と私たちに伝えたいこと、大人として伝えるべきことを伝えようとしていた気がする。

一度彼が夢に出てきたことがある。中学を卒業して、しばらく経った頃の話だ。夢の中で私は中学生に戻り、懐かしき母校の記憶を蘇らせながら、一人で誰もいない校舎を歩き回っていた。そんなとき、ふとN先生に会いに行こう、と思った。
彼は学校のすぐ側を流れる川を見ながら、煙草を吸っていた。時々彼から煙草の臭いがしたので喫煙者だったのは知っていたが、実際に吸っている姿を見るのは初めてだった。
私は彼に挨拶をした。彼は何も言わず、ただ遠い目で川を見ながらゆっくりと頷いた。
今は話しかけない方が良いんだな、と思い、ゆっくりその場を立ち去ろうと背を向けたとき、彼は

「勘違いすんなよ」

と言った。
それは、彼の口癖だった。

中学三年生の私は、やはり勘違いしていたのかもしれない。
それなりに世の中のことを知り始め、体つきも徐々に大人のものに近づいていって、いかにも思春期らしい興味を色々な意味で持ち始めていた。日々成長している、変わっている、という実感があった。きっと将来は良い大人になれる、とすら思っていたのかもしれない。でも、大人になるというのは、そういうことではなかった。
様々な経験が挫折と絶望を与える中で、人は大人になっていく。ただ年齢を重ねただけでは、人は大人にはなれない。そのことを覚悟しないまま人生を歩めば、いつか挫折を前にして立ち直れなくなってしまうかもしれない。

「勘違いすんなよ」

今、彼がどんな文脈でそれを言っていたのか具に思い出すことはできない。ことあるごとに言っていた気もするが、数回しか言ってないのを私たちが面白がって陰で茶化していただけかもしれない。ただ、確かにその言葉は私の中に残っている。どれだけ歳を重ねようと、自分が社会の中ではまだまだ小さな存在であることを思い出させてくれるその言葉をくれたのが、N先生だった。

私に大切なことを教えてくれた大人が一人いなくなったのだと考えると、やはり寂しい。


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