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青写真【掌編小説】

 「青写真のようなものだよ。」
 瘦せこけた頬の下に白い髭をたくわえた老人は、そう呟くと、小さな白い紙を一枚、胸元から取り出した。
 「強く念ずれば、祈りはさながら太陽のかわりとなって、この紙の上に輪郭を投影する。お前の望むものが、映し出される。」
 日差しが西へと傾き始めた時刻の、寂れた路地裏でのことである。新規の取引先との商談のため、初めて訪れた町だった。顔合わせの前に腹ごしらえをしておこうと、何軒か立ち並ぶ定食屋の看板を眺めながら歩いていると、見知らぬ老人に話しかけられた。まるで経を唱えるかのような口調で澱みなく言うものだから、てっきり宗教の勧誘か何かかと思ったのだが、そうでもないらしい。
 
「なんでもよい、この紙に祈ってみなさい。」
「なんでもって、そんな急に言われてもなぁ。」
 どうみても、ありふれた只の紙切れである。あらためて目の前の老人を観察すると、身なりはそれなりにきちんとしているが、装飾品の類はひとつも身に着けていないし、よく見ればシャツの袖口も薄汚れているようだ。ひょっとすると、土地を知らなさそうな人間を相手に、奇術まがいの玩具を売りつけようとでもしているのだろうか。
「さあ、早く。見たいと願うものを、思い描いてみよ。」
 先ほどよりは幾分か語尾が強い。やれやれ面倒な相手につかまったものだと、言外に顔を顰めて見せても、老人は一歩たりとも引く気配がなかった。それどころか、眼光鋭く圧を感じさせる態度で白紙を押し付けてくるので、これは一興と割り切って相手をしてやった方が、話の終わりが早そうだと、仕方なく紙を受け取った。
「みたいもの、ええっと、そうだな」
 老人の前で腕を組み、深く考えている風を装って、もっともらしく目を閉じる。ううんと唸ってみせながら、そういえば腹が減っているのだと思い出した。そこで真っ先に思い浮かんだものに狙いを定め、紙切れを握りしめたまま、ふぬんと念じる。すると、ものの一分もしないうちに、もうよい、と伝える老人の声が聞こえてきた。
「成功である。お前の念は、正しく写し出された。」
 齢を重ねた老人ならではの、深みを感じさせる厳かな声色に、自然と背筋が伸びる。念じたものが写るなんて、漫画やアニメじゃあるまいし、そんなことが起こるはずはない。だというのに、不安とも期待とも分からない妙な興奮が、肺の奥をじりっと焼いた。何を期待しているというのだ、馬鹿馬鹿しい。急に子供じみた自分が恥ずかしくなり、ままよと目を見開いた。

 それまで白かったはずの紙の表面は、薄い水彩を滲ませたかのように、うっすらと青色に変わっている。そこには、靄がかかったようにぼんやりと、だが見間違いようもなく、大盛りのカツ丼と味噌汁、付け合わせの香物が映し出されている。思わず、おう、と低く唸った。たったいま目の前で起きたことが俄かには信じられず、紙を握る指先に力がこもる。奇術だとしても鮮やかすぎる手際ではないか。一体どんな仕掛けなのだろう。もしかして、目を閉じている数秒のあいだに、この老人が絵筆で描いたのだろうか。
「腹が減っているのか」
 老人は白髭を撫でながら紙を受け取ると、しげしげとカツ丼写真を見下ろした。先程までの威圧感はどこへやら、すっかり興味も失せたと言わんばかりの横顔である。せっかくの物珍しい機会を与えてやったというのにカツ丼とはと、落胆しているようも見えた。
「まて、もう一度やらせてくれ」
 金はちゃんと払うからと言うと、そんなものはいらんと返された。
「お前が望むものを見られたら、それが代金だ」
 老人は綿毛か埃でも払うかのように雑な仕草で、写真をさっと一振りした。すると、そこに描かれていた儚げなカツ丼定食は、砂時計の砂が落ちるかのように、さらさらと流れて跡形もなく消え、また薄汚れた白紙になった。

 これほど間近で目にしているというのに、どんな仕掛けなのか一向に分からない。ひょっとしてこの老人、実は知る人ぞ知る高名なマジシャンなのだろうか。それとも最近テレビで流行りの、人を騙して脅かせてみんなで笑う番組、ああいう類のものだろうか。どちらにしても、老人が言うように、念じたものが紙に映し出されるのは確かなようだが、トリックが何一つわからない。知らない誰かに揶揄われているようで、それが悔しくて腹立たしい。
「もう一度、やらせてくれ」
 瘦せこけた指先に手を伸ばし、乱暴に紙を奪い取ると、今ではすっかり元通りになっている、まっさらな白い紙を睨みつけた。

 そうだ、どうせなら何かとてつもないものを念じてみよう。誰一人思いつかないような、老人が咄嗟にはとても描ききれないような、壮大な何かを。
「見たいと思うものを、心に念じるのだ」
 しゃがれた低い声が聞こえる。耳から浸透するように囁きかけてくる。
「余計な邪念に囚われず、真にひとつの願いを」
 心に背けば相応の報いを受けるゆえ、気をつけられよ。老人が続けたその言葉は、もはや耳に入っていなかった。目を瞑り、歯を食いしばりながら記憶を引っ張り出し、なけなしの想像力を働かせて念じ続けた。

 不意にバリバリと鼓膜を裂くような雷鳴が鳴り響き、周りの空気を激しく震わせた。突然、身体が重力から解き放されて、ふわっと宙に浮いたような気がした。驚いて目を開けると、すぐそこにいたはずの老人が、遥か頭上からこちらを見下ろしている。あっと声を上げる間もなく、真っ逆さまに暗い裂け目の奥へと吸い込まれていく。その手に握りしめた青写真の中は、いつか観たアクション映画のワンシーンをかき集めたかのような、この世の終わりの光景が、薄青く描き出されていた。


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楽しく参加させていただきました。
ありがとうございます。

#シロクマ文芸部
#青写真

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