言い訳

今年、齢22にして専門学校に入った。一学年40人程度の2ヶ月も通えば嫌でもほぼ全員と話すことになる小さなコミュニティだ。

僕は人見知りでコミュニケーションも得意ではない。と、自称してきた。

だが最近、自分はそれほど人見知りでもないし、コミュニケーションも不得意ではない事がわかってきた。ただ、声が通りにくくて滑舌が悪いだけだった。

また、この歳になって、他人との関わりで得られる幸福感と自分が傷つく恐怖心を天秤にかけた時に前者を選ぶようになったのだと思う。実際、現時点では他者とコミュニケーションを取ることは楽しい。

僕の通っている学校には中国人が多い。彼らは拙くも、僕がこれまで出会ったことのあるどの日本人よりも素直な言葉で素直な感情を話してくれる。一回一回の会話をとても大事にしている。気がする。

彼らは全員魅力的で、彼らといると自分の人間的な浅さやセンスの無さが顕現してきて自分が嫌になる事がある。だが、そんなことより彼らと過ごすことに幸福を感じる。

言葉ってなんだろう。会話ってなんだろう。僕ら日本人はたくさんの日本語とシチュエーションごとの用法を知っている。故に逃げ道や誤魔化し方を知っている。そして、身についてしまっている。それを使うも使わないも自由ではあるが、ある程度定型化してしまっていると思う。

「会話の流れ」「オチ」、こういった言葉によって言葉が縛られている状態は日常に溢れすぎていて自覚も難しい。

もっと言葉は自由でいいと思う。

理解できなさに寛容になればいいと思う。

他者を理解できない事は当たり前で、そのことをみんながわかっているはずなのに

「常識」「普通」という言葉に思考が縛られ、行動がコントロールされている。


最早こういった思考も現代人が何周もしている擦られきった概念であると思うが。

中国語で「楽しい」と「嬉しい」は同じ言葉で表されるという。

二つの語の違いの説明を求められたが、改めて考えると明確な違いはないように感じた。でも確かに違うのだ。

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