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今日も青はブルー(0914)

 今朝は朝6時から町内の資源ごみ回収当番。朝からの協働、気持ち良い。今日も忙しくなりそうです。

 とても今は忙しくてできないけれど、30代までにやってみたい企画がある。新しい日本語を作り、それだけを載せた辞書を編むことだ。
 きっかけは、先日M子とうちで宅飲みしていた時、「演劇」という言葉を再定義した方が良いよね、という話になったこと。
 「演劇」というとピーター・ブルックの著書『The Empty Space』より「見る人・見られる人」がいる、というのが、誰も覆せない定義だとされてきた。でも、本当にそうなのだろうか。誰も見ない、誰にも見られない演劇だって、あるんじゃないか?
 欧米ではここ10年くらいで、従来の「Theatre」という表記が「Performing Arts」に変わった。それを受けて、日本でも「演劇」から「舞台芸術」と表記を変更している施設や団体が多い。ただ、例えばドイツ現代演劇等は、会場が走るトラックの中とか、観客が家畜と同じような工程で出荷される、とか、もはや「舞台」芸術とはいえない。
 そこで、これってやっぱり言葉が追いついていないよね、という話になった。「演劇」や「舞台芸術」だけじゃない。今僕たちが使っている言葉が、僕たち自身の感覚とずれている、ということが多い気がする。

 急に時代を遡るけれど、明治時代、政府は欧化政策を推し進め、まだ日本語も統一されていないというのに、外国語が次々と生活に入ってきた。ただ、時の文化人たちは、実に冷静に、これらの一つ一つを日本語に翻訳していった。
 「芸術」「憲法」「自然」「権利」「衛生」「愛」「社会」「民衆」「近代」「美」などなど、現在僕たちが使わずしてコミュニケーションが成り立たない言葉ばかりだ。驚くべきことに、これらの多くは自然発生ではなく、考えた人や団体が特定でき、吟味した過程の記録も残っている。もちろん、「演劇」という言葉も。余談だけど、洋画を見るときに字幕をつけてみると、明治時代の諸賢の凄みを感じられる。

 寄り道ついでに、『メッセージ』(ドュニ・ヴィルヌーヴ監督)という洋画があるのだけれど、その映画では天才言語学者が宇宙人の言語を習得することで、宇宙人の持っていた「時間軸を超越する」思考感覚を身につけた。
 僕も、へっぽこだけど、確かに日本語を話す時と英語の時では、使っている思考方法が違うように感じるし、英語の言葉でないと(あるいは日本語でないと)言い表せない、といった経験も少なからずある。三島由紀夫作品の読後に情感が開かれる感覚になるのも似たことなのかもしれない。

 話を現代の日本語の話に戻すと、「思いが溢れて言葉にできない」ということが僕もよくある。けれど、本当にそうなのだろうか。内田樹さんは「言葉があまって思いが足りない」の方が正しいのではないか、と著書『街場の教育論』(ミシマ社)で書いている。言葉がなければ想いや感情は生まれない、だから昔の子供達は「古典の素読」をしていたのだと。

 そんなわけで長くなったけれど、こうした新しい日本語をつくるチームを編成したいのです。必要なのは、まず若きエース、例えば東大文学部の天才学生。次に、当代随一の言語学者、例えば金田一秀穂さん。そして、言語をベースに活躍するインフルエンサー、例えば最果タヒさんや古性のちさん。あとは、日常的に言葉に関わる凄腕編集者の方。これだけのアベンジャーズが揃えば、相当凄いものができるのではないか。

 もし新たに言語を生み出すなら、3種類必要だと思っている。
 1つ目は、まだ日本語化できていない言葉。「イニシアチブ」「アジャイル」「リテラシー」などの戦後入ってきたビジネス用語が主だ。これに関しては、明治の先人たちのような血の滲む努力を、我々がめんどくさがってしていない、の一言に尽きるだろう。日本語化できるものはした方が良い。
 2つ目は冒頭の「演劇」のように、先人が作った言葉と、現代の僕たちとの間に感覚的ずれが生まれてしまっている言葉。例えば、僕がずっと違和感を抱いているのは「頑張って」だ。無理してでもやりきれ、みたいなニュアンスが強くて、仲間にかけるにはちょっと躊躇する。中国語では「加油」で、「君の火に油を注ぐよ」つまり「君の背中を押すよ」みたいな意味でとてもいいな、と思う。
 3つ目は、まだない言葉。これも、僕には言葉にしたいこと例がある。実は昨日も、涼しい風を受け、黄金の田畑、アルプスを眺めながら金木犀の香りを嗅いだ時、不意に「今この瞬間が懐かしい」と感じた。それを、一言で言いたいけれどまだその言葉に出会えていない。「サウダージ」とも違うんだよなあ。

 あとはこのつくったものを何という名前にするか。「辞書」とは違って、自然発生で生まれた言葉ではなく、意図してつくられた言葉のカタログのようなもの。固有名詞であり、普通名詞にもなりえる名前。M子に聞いたら、良い名前をつけてくれました。名付けて「来想書(きそうしょ)」です。

 これを読んだ出版社・編集者の皆さん、アイデアはパクっても良いけれど、僕がいないとここに書いてあるもの以上のものはつくれないので、やっぱり僕を呼んでくれないと駄目ですよ。僕は200%真面目です。

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