迎えに行きます
時間はいつだって不平等だ。楽しい時は音速で飛び去るクセに、人を待つ時間ときたら、ぬかるみを歩くようにノロノロやってくる。相手が会いたくてたまらない人ならなおさら。駅前の時計台の針は動くことを抗い、握りしめたスマホは何度見ても、5分と経っていなかった。
このエリア一帯はかつて、世界都市博の開催予定地だった。それが中止になったことで、建設予定地を使った商業施設が暫定的にオープンした。当時は、近未来的な建築と広い空き地が織りなす独特の雰囲気の場所だった。日時と天候を選べば、ちょっとしたポストアポカリプス感が味わえた。その後、紆余曲折の末、街は新しい複合施設に生まれ変わろうとしている。相次ぐ大型商業施設の閉鎖は、あたりに開業当時の静けさを呼び戻していた。見上げると、動かない観覧車は白い霞の中で夢を見ていた。
「また、ダメなのかな……」
「ほんとうにゴメン、行けそうもない」そんなドタキャンは日常茶飯事。毎回繰り返される彼の謝罪に、「また……今度ね」と答えていた。そのうち、約束の場所に着いた瞬間、「今度ね」と伝えている自分のデジャブを見るようにさえなってしまった。
とは言え、全てが彼の責任ではない。時間にルーズでも、性格特性が人とかけ離れているわけでもなかった。それどころか、几帳面で、責任感の強い性格だといっていい。
私たちは価値観や考え方が同じというわけではなかった。むしろ違っている所のほうが多い。それでも、彼のそばにいると掛け値なしにホッとするのは、彼がどんな時でも辛抱強く私の話を聞いてくれる、暖かくて優しい陽だまりのような人だからだ。
会えなくなる理由は簡単。彼は予定を組むことが難しい仕事に就いている。それだけのこと。きちっと計画して、時間と手間をかけながら、連絡ひとつで最初からやり直さねばならない理不尽な仕事。そのことはよく理解しているつもり。キツイ環境の中でも泣き言ひとつ言わず、目標に向かって努力している。そんな彼のことを支えてあげたかった。
ところが、私の気持ちを嘲笑うかのように状況は悪化した。彼と会う機会は前にも増して、極端に減ってしまったのだ。先が見えない生活の中で、誰もが同じ我慢をしている。そうやって自分に言い聞かせてきた。そんな少ない機会だから余計、今度こそ!と期待してしまう。そして、それもダメになる繰り返しはさすがにキツイ。彼の周りに、別の女の匂いがするとか、私に冷めてしまったのかという不安とは違う。
彼と付き合って5年。恋愛の「恋」の文字が薄くなりかけている。出会ったばかりのドキドキや、浮き立つような高揚感が減るのは仕方ない。でも、そんな安らぎに一抹の寂しさも感じていた。そして何より会えないことで、彼への信頼さえ揺らぎかけている私自身の心が気がかりだった。
マリッジ・ブルーなんて贅沢。プロポーズされていない私は、その段階へ登ってすらいない。だから、二人が出会ったこの場所で会いたいと言ってくれたことが嬉しかった。きっと今夜がそうなんだと、期待を抱いていた。恋が消えかけている今だからこそ、代わりになる確かなものがほしい。なんでもいいから、この不安な心をどうにかしてほしかった。
気がつくと、音もなく降る絹糸のような雨が辺りを包んでいた。物思いから覚めた私をヘッドライトが照らす。駅前にある広いだ円形の道へ滑り込んでくるクルマのシルエット。ウインドウが下がっていなくても、それが彼だとはっきり分かった。
「かなり待たせちゃった?」
「ううん、さっき着いたところだから。……だいじょうぶ」
私のためにドアを開けようとする哲也を制した。小雨なのに傘がしっかり濡れている。私は傘の滴を払ってから助手席のドアを開けた。
「今夜もダメかと思った……」
安心したせいで、思わず本音が口をついて出た。
「ゴメン。ずっと、すっぽかしてばかりで本当に申し訳ない」
素直な哲也は感情がそのまま顔に出る。まるで叱られたレトリバーのようだ。
「分かったから、もう、そんなに謝らないで。お仕事は大丈夫なの?」
二人を乗せたクルマは、私たちが出会った有明コロシアムへと向かう。
「全部片付けたと言いたいところだけど、今夜はほっぽり出してきた」
おどけながら話す彼の横顔は、ランドセルを放り投げて遊びに出かけた少年のようだ。
「いいの? そんなことして。私だったら平気なのに」
「平気じゃないよ、だって……会えなくなってもう一年だよ。それに、今夜は僕たちにとって大事な日なんだから」
「一年か……。ほんとうに……長かった」
彼と会えなくなって随分経つとは思っていたが、それほどの月日が経とうとしていることに正直、私は驚いていた。
「ここで……僕は真帆と出会ったんだ」
「……うん」
クルマは公園の敷地内にある並木道に停まった。フロントガラスを見つめる彼の視線の先には、雨に濡れたベンチが見える。
「もう、ずっと前のことよね」
「昨日のようにも、ずっと昔のことのようにも思える」
「どうしたの? そんな切ない目をして。確かに会うのは久しぶりだけど……まるで何十年も会えなかったような顔ね」
いつにもまして優しい彼の瞳。私が映ったその瞳が濡れて光っている。
「真帆、愛している」
彼は唇を重ねると、私を強く抱きしめて言った。
「んっ、そんなに……」
体をこわばらせたのは一瞬だった。徐々にいっさいの力が抜けて、私の心に影を落としていた黒い不安の塊が砂になって崩れてゆくのがわかった。
サラサラ……サラサラ……
それは、こらえきれない私の声とともに、雨の中へ消えていった。
「僕と結婚してほしい!」
彼は、そう言うと、ポケットから取り出した指輪を、そっと私の薬指にはめた。
「ほんとうなの……?」
「真帆じゃなきゃだめなんだ。ずっと甘えてばかりだった。仕事のことも、男としても、真帆を幸せにする自信が持てるまであと少し、あと少しって、ずっと真帆のことを待たせてしまった。本当にゴメン」
「バカ……。何でも抱え込み過ぎなんだから」
「いつも大事なことに気がつかない。そんなバカな僕のことを支えてくれていたのは真帆だ。これから何があるか分からない。でも、どんな時も二人で同じ方向を向いて、これからの人生を一緒に歩いていきたいんだ。だから僕と結婚してほしい」
「ありがとう……私、幸せよ」
彼に強く愛されている実感と、この先も、ずっと彼と一緒に歩いていけることが心から嬉しかった。私は彼の首に腕をまわすと、もう一度キスをせがんだ。
「ただいまママ。ごめんね、連絡もせずに遅くなっちゃって」
「おかえりなさい。なんだか今日はとっても嬉しそうね」
「えっ、やっぱり顔に出ちゃうのかなぁ」
「あらあら、よっぽど良い事があったのね。でも、ママ嬉しいわ、あなたの笑顔が見られて」
「そんな、ママったら大袈裟よ。えっと、どうしようかな」
「まぁ、なんなの? もったいぶって、この子ったら」
ソファで編み物をしている母は、とても嬉しそうに微笑んでいた。
「私、プロポーズされたの!」
「えっ?」
「ずっと彼に会えなかったでしょ。今夜やっと会えたの。それで……」
「ちょっと、真帆。彼って……? あなた、誰にプロポーズされたの?」
「やあねぇ。哲也に決まっているじゃないの」
母の手から編みかけのレースと針が床に落ち、その顔からみるみる血の気が引いていった。
「真帆……」
「なによ、そんな顔して……。そりゃ一人娘が結婚しちゃうんだからショックだとは思うけど」
「やめて! お願いだから……」
「どうしたの、ママ?」
両手で顔を覆い、嗚咽をもらす母の姿が理解できなかった。
「真帆、ちゃんと私の顔を見て」
立ち上がった母は私の両腕を強く握り、身体をゆさぶりながら言った。
「雨の日になると、あなたが駅に行くのを知っていたわ。それを止めても無駄だってことも……。でも、ママは……ママはあなたのことが心配なの……」
「何よ、本当にどうしちゃったの?」
「真帆、聞いて!」
涙を流した母の目は、何かにすがるように見えた。
「哲也さんは……もういないの」
「何を言ってるの?」
「哲也さんは亡くなったのよ!」
「は? 言って良いことと悪いことがあるわ」
悪い冗談にも程がある。私には母の真意がわからなかった。
「だから哲也さんは……」
「やめてよ、バカなことを言うの! 本当に怒るわよ! さっき彼に会ってきたばかりよ。ずっと、話だってしてきたわ。それに見てよ。ちゃんと指輪だってもらったんだから!」
私は、哲也に指輪をはめてもらった左手を母に向かって見せた。
「どうしてそれを……あなたが……」
「だ・か・ら、さっき言ったじゃない! 哲也からもらったって」
「そんなはずないわ。お願い、お願いだから……。ちゃんと現実と向き合って」
「何と、どんな現実と向き合えって言うのよ」
「一年前の今日よ! その日も雨だった……」
「一年前?」
「あなたに渡す指輪を引き取った哲也さんの車は……信号無視の大型トレーラーにぶつけられて……即死だったのよ」
「何を馬鹿なことを」
「あちらのご両親から、潰れた車や哲也さんの服からも……指輪は見つからなかったって……あなたも一緒に聞いたはずでしょ!」
「そんなこと知らないわ。現に、指輪はこうして私の指にある。それに……」
私はバッグからスマホを取り出すと、トークにある「哲也」の名前をタップして母に見せた。
「ほら、見てよっ! 哲也からメッセージだって届いているじゃない」
私から震える手で携帯を受け取った母は、泣きながらその画面をもう一度私に向けて見せた。
「真帆、よく見てちょうだい……」
哲也宛に埋め尽くされた吹き出しだけが、右に並んでいた。
「あれ……なん……でよ」
私は母の手からひったくるようにスマホを奪い、どこまでも、どこまでも続く緑色の吹き出し画面を狂ったようにスクロールした。私からの送信は、どれも既読が付いてはいなかった。そして、とうとう左に白い吹き出しを見つけ出した。
「ほら、ちゃんと……」
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真帆
駅を出たところで待っていて
今夜はどんなことがあっても
必ず、必ず迎えに行くからね
約束する
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日付は、一年前の今日……。
滑り落ちたスマホが床にぶつかって鈍い音を立て、
私はゆっくり膝から崩れ落ちた。
私は自分の悲鳴を聞いた気がした。
そうだった……。
何もかも思い出した。
あの日から私は独りぼっちだったんだ。
辛くて、苦しくて、死にたくて……。
会えないだけだと思い込みたかった。
だから私は自分の時計を止めたんだ。
そんな私のために、
哲也は会いに来てくれた。
一年かかって。
指輪を渡すために。
その時、床に落ちたスマホが震えた。
ロック画面にはメッセージの通知が表示されていた。
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哲也
必ず、迎えにいくからね。
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