見出し画像

小学1年

1985年(昭和60年)の春、地域の公立小学校の普通学級に入学しました。  1学年4クラスあり、1年1組になりました。 この『1組』と言うのが今振り返ればポイントです。 4クラス中1番ベテランの教員が担任となりました。 おそらく学年主任だったと思われます。 学生時代を通して、1組に当たる事が一番多く、次に一番後ろの組(大体学年副主任的な教員が担任)に当たりました。  まあ、何らかの配慮や事情があったのだろうと推測しております。


普通学級で学校生活がスタートしました。 学業面はまずまずの出だしでした。 小学校入学前にひらがな&カタカナは習得済で、簡単な漢字は理解していましたし、ある程度の文章も書く事ができました。 また数字に関しても理解しており、足し算&引き算はある程度理解していたので、国語や算数に関しては特に困った記憶はありません。 ただ文字がかなり乱雑だったらしく、その点に関しては通知表に特記されるぐらいには問題だったようです。


一方で、体育や音楽と言った科目は中々微妙でした。 当時は小1の音楽では鍵盤ハーモニカなる楽器を使うのですが、これに関しては序盤から全く理解できない状況でした。 行動面に関しては、周囲とは何かが違うと思われるぐらいには問題があったようですが、詳細に関しては記憶が風化して思い出せない状況です。 その割には生活班などの活動の時には担任から班長に指名されたりする事も多かったのは、不可解な部分でもあります。


校区の広い小学校で、片道30分の通学距離だった事もあり、放課後に同級生と遊ぶと言う事は殆ど無かったと記憶しております。 それでも通学距離が長いので、下校の際には流れで同級生と遊びながら帰路につく事も多かったと思います。  


不定期で土曜の午後には変わった体操教室のようなものにも通っていました。 この体操教室の『ようなもの』と言うのがポイントで、後にこれは『療育』だった事が判明します。  この療育に関しては、出身幼稚園の経営母体である自閉症に詳しい社会福祉法人が運営していました。 大人になってから調べた所『療育センター』だったようです。


そして小1の秋。 何故そのような状況になったのかは未だにベールに包まれていますが、『児童精神科を受診する』事になりました。  その病院、現在では発達障害に詳しいようです。  一体何があったのかは不明ですし今更調べようがありませんが、40代の中年ASD当事者となった現在では、いくつかの可能性が思い浮かばない訳ではありません。  複数回受診したようですが、継続受診にはならなかったようです。

 
そして小1が終わり、親の転勤によりかなり離れた地方都市に引っ越す事となり、小学校も転校する事になりました。  詳しい事情は闇のままなのですが、この時『おそらく何らかの障害を有すると強く認識されていたはずだったが、この時の転居で様々な事が迷宮入りとなり、以降20代後半までかなりの困り感はありつつも、ただの変わり者扱い?で凸凹のある人生を送る』事になりました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?